第1話 螺旋階段を下って 4

診察室で硬直している母親を尻目に、圭介は黙々とカルテに何事かを書き込んでいた。


「お話の意味が……分からなかったんですが……」


母親がかすれた声で言う。


「ですから、堕胎しました」


圭介は顔を上げることなく、淡々とそう言った。


「今現在、娘さんは赤十字病院の大河内先生のところで入院しています。詳しいお話は、彼からお聞きください」

「娘は……妊娠していたと言うんですか?」

「はい。正確に言うと、妊娠の極々初期だったと考えられます」

「どういうことですか!」


母親が絶叫した。

圭介は立ち上がった彼女に座るように促し、柔和な表情のまま、続けた。


「この事実は、もう娘さんの頭の中から消え去っています。それを掘り起こすのはそちらの勝手ですが、私はあまりオススメはしませんね」

「…………」

「自殺病の再発が考えられますから」


カルテに文字を書きながら、彼は続けた。


「娘さんは、小山田という教師に暴行を受け、彼の子供を孕んだ状態だったようです。私どもは、自殺病を快癒させるために、その原因のトラウマとなっていた子供を、記憶ごと堕胎させました」

「ひ……人殺し!」


立ったまま母親が悲鳴を上げる。

圭介は表情を変えずに、椅子に座ったまま肩をすくめた。


「一番大事なものをなくすと、そう言ったではありませんか。あなたもそれは同意しているはずです」

「でも……でも!」

「それに」


一指し指を一本立てて、圭介は言った。


「自殺病にかかった者は、決して幸福にはなれません。そういう病気なのです」

「なら……なら先生は……」


母親の目から涙が落ちる。


「どうして、娘を助けたのですか……」


圭介は母親から目を離し、カルテに判子を押した。


「命のみを保障するのが、私どもの仕事ですから」



びっくりドンキーの一番奥の席、そこに汀はちょこんと座っていた。

余所行きの服を着ていて、落ち着かない顔で周囲を見回している。

圭介がレジから戻ってきて、ピンクパンサーの絵柄が入ったグラスを二つ、テーブル前に置いた。


「買ってきた。一緒に使おう」

「おそろい?」

「ああ」


汀はそこで、やつれた顔でにっこりと笑った。


「ありがとう」


そこで店員……オーナーが歩み寄って、ゆっくりと頭を下げた。


「ようこそおいでくださいました、高畑様。ご注文は、いかがなさいましょうか?」

「いつものもので」

「かしこまりました」

「この子は肉は食べられませんから、メリーゴーランドのパフェを一つください。すぐに」

「はい。少々お待ちくださいませ」


オーナーが下がっていく。

汀は周りを見回すと、軽く顔をしかめた。


「何か……タバコの臭いがする」

「ここは禁煙席だよ。一番喫煙席から離れてる場所を選んだんだ。我慢しろよ」

「うん」


汀は、手に持った3DSを落ち着きなく弄り、そして一言呟いた。


「圭介」

「ん?」

「私、人、殺しちゃった」


圭介はそれを聞いて、何でもないことのように普通に水を飲み、笑った。


「それがどうした?」

「ん、それだけ」

「メリーゴーランドでございます」


そこでオーナーが来て、大きなパフェを汀の前に置く。

汀は打って変わって目を輝かせ、動く右手でぎこちなくスプーンを掴んだ。


「いただきます」

「残ったら俺が食うから。ゆっくり食えな」

「うん」


無邪気にアイスクリームとホイップクリームを頬張る汀に、圭介は淡々と言った。


「ま、患者の命を助けることは出来たんだ。上々だよ」

「上々?」

「ああ、上々だ」

「本当に?」

「ああ。本当だ」


圭介は微笑んで、手を伸ばして汀の頬についたクリームを拭った。


「お前は何も考えず、自由に楽しんでればいいんだ。それが、『人を助ける』ことに繋がってるんだから」

「私、あの子のこと助けられたのかな?」

「ああ、助けたよ」


頷いて、圭介は続けた。


「お前は、命を助けたよ」



暗い診察室の中、圭介は隣の部屋……汀の部屋の明かりが消えていることを確認して、携帯電話を手に取った。

そして番号を選んで、電話をかける。


今日の遠出で、汀はとても疲れているはずだ。

深い眠りに入っていることは確認している。


「大河内か」


汀に話しかけているときとは打って変わった、暗い声で圭介は口を開いた。


『こんな時間に何の用だ、高畑?』

「汀に投与する薬の量を増やしたい」

『いきなりだな。何かあったのか?』


ピンクパンサーのグラスに注いだ麦茶を飲み、圭介は続けた。


「今回のダイブの記憶を消したいんだ」

『堕胎の件か』

「汀がそれを気にかけている発言をした。今後の治療に関わってくるかもしれない」

『分かった。至急手配しよう』

「…………」

『高畑』


電話の向こうの声が、淡々と言った。


『汀ちゃんは、普通の、十三歳の女の子だ。それを忘れるなよ』

「普通? 笑わせるなよ」


圭介は暗い声で、静かに言った。


「化け物さ。あの子は」

『その化け物を使って仕事をしているお前は、一体何だ?』

「普通の人間さ」


電話の向こうからため息が聞こえる。

しばらくして、圭介は麦茶を飲み干してから、ピンクパンサーのグラスを置いた。


『いいか高畑、汀ちゃんは……』

「あの子は俺のものだ。もう赤十字のサンプルじゃない」


彼の声を打ち消し、圭介は言った。


「どうしようが俺の勝手だ」

『そのために、あの子自身のトラウマを広げることになってもか?』

「ああ。だってそれが、道具の役割だろ?」


圭介は、息をついて言った。


「俺は医者だからな」


携帯電話の通話を切る。

部屋の中に静寂が戻る。


圭介は、携帯電話を白衣のポケットにしまうと、カルテに何事かを書き込む作業に戻った。

ピンクパンサーのグラスに入れた氷が溶け、カラン、と小さな音を立てた。

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