第1話 螺旋階段を下って 4
診察室で硬直している母親を尻目に、圭介は黙々とカルテに何事かを書き込んでいた。
「お話の意味が……分からなかったんですが……」
母親がかすれた声で言う。
「ですから、堕胎しました」
圭介は顔を上げることなく、淡々とそう言った。
「今現在、娘さんは赤十字病院の大河内先生のところで入院しています。詳しいお話は、彼からお聞きください」
「娘は……妊娠していたと言うんですか?」
「はい。正確に言うと、妊娠の極々初期だったと考えられます」
「どういうことですか!」
母親が絶叫した。
圭介は立ち上がった彼女に座るように促し、柔和な表情のまま、続けた。
「この事実は、もう娘さんの頭の中から消え去っています。それを掘り起こすのはそちらの勝手ですが、私はあまりオススメはしませんね」
「…………」
「自殺病の再発が考えられますから」
カルテに文字を書きながら、彼は続けた。
「娘さんは、小山田という教師に暴行を受け、彼の子供を孕んだ状態だったようです。私どもは、自殺病を快癒させるために、その原因のトラウマとなっていた子供を、記憶ごと堕胎させました」
「ひ……人殺し!」
立ったまま母親が悲鳴を上げる。
圭介は表情を変えずに、椅子に座ったまま肩をすくめた。
「一番大事なものをなくすと、そう言ったではありませんか。あなたもそれは同意しているはずです」
「でも……でも!」
「それに」
一指し指を一本立てて、圭介は言った。
「自殺病にかかった者は、決して幸福にはなれません。そういう病気なのです」
「なら……なら先生は……」
母親の目から涙が落ちる。
「どうして、娘を助けたのですか……」
圭介は母親から目を離し、カルテに判子を押した。
「命のみを保障するのが、私どもの仕事ですから」
◇
びっくりドンキーの一番奥の席、そこに汀はちょこんと座っていた。
余所行きの服を着ていて、落ち着かない顔で周囲を見回している。
圭介がレジから戻ってきて、ピンクパンサーの絵柄が入ったグラスを二つ、テーブル前に置いた。
「買ってきた。一緒に使おう」
「おそろい?」
「ああ」
汀はそこで、やつれた顔でにっこりと笑った。
「ありがとう」
そこで店員……オーナーが歩み寄って、ゆっくりと頭を下げた。
「ようこそおいでくださいました、高畑様。ご注文は、いかがなさいましょうか?」
「いつものもので」
「かしこまりました」
「この子は肉は食べられませんから、メリーゴーランドのパフェを一つください。すぐに」
「はい。少々お待ちくださいませ」
オーナーが下がっていく。
汀は周りを見回すと、軽く顔をしかめた。
「何か……タバコの臭いがする」
「ここは禁煙席だよ。一番喫煙席から離れてる場所を選んだんだ。我慢しろよ」
「うん」
汀は、手に持った3DSを落ち着きなく弄り、そして一言呟いた。
「圭介」
「ん?」
「私、人、殺しちゃった」
圭介はそれを聞いて、何でもないことのように普通に水を飲み、笑った。
「それがどうした?」
「ん、それだけ」
「メリーゴーランドでございます」
そこでオーナーが来て、大きなパフェを汀の前に置く。
汀は打って変わって目を輝かせ、動く右手でぎこちなくスプーンを掴んだ。
「いただきます」
「残ったら俺が食うから。ゆっくり食えな」
「うん」
無邪気にアイスクリームとホイップクリームを頬張る汀に、圭介は淡々と言った。
「ま、患者の命を助けることは出来たんだ。上々だよ」
「上々?」
「ああ、上々だ」
「本当に?」
「ああ。本当だ」
圭介は微笑んで、手を伸ばして汀の頬についたクリームを拭った。
「お前は何も考えず、自由に楽しんでればいいんだ。それが、『人を助ける』ことに繋がってるんだから」
「私、あの子のこと助けられたのかな?」
「ああ、助けたよ」
頷いて、圭介は続けた。
「お前は、命を助けたよ」
◇
暗い診察室の中、圭介は隣の部屋……汀の部屋の明かりが消えていることを確認して、携帯電話を手に取った。
そして番号を選んで、電話をかける。
今日の遠出で、汀はとても疲れているはずだ。
深い眠りに入っていることは確認している。
「大河内か」
汀に話しかけているときとは打って変わった、暗い声で圭介は口を開いた。
『こんな時間に何の用だ、高畑?』
「汀に投与する薬の量を増やしたい」
『いきなりだな。何かあったのか?』
ピンクパンサーのグラスに注いだ麦茶を飲み、圭介は続けた。
「今回のダイブの記憶を消したいんだ」
『堕胎の件か』
「汀がそれを気にかけている発言をした。今後の治療に関わってくるかもしれない」
『分かった。至急手配しよう』
「…………」
『高畑』
電話の向こうの声が、淡々と言った。
『汀ちゃんは、普通の、十三歳の女の子だ。それを忘れるなよ』
「普通? 笑わせるなよ」
圭介は暗い声で、静かに言った。
「化け物さ。あの子は」
『その化け物を使って仕事をしているお前は、一体何だ?』
「普通の人間さ」
電話の向こうからため息が聞こえる。
しばらくして、圭介は麦茶を飲み干してから、ピンクパンサーのグラスを置いた。
『いいか高畑、汀ちゃんは……』
「あの子は俺のものだ。もう赤十字のサンプルじゃない」
彼の声を打ち消し、圭介は言った。
「どうしようが俺の勝手だ」
『そのために、あの子自身のトラウマを広げることになってもか?』
「ああ。だってそれが、道具の役割だろ?」
圭介は、息をついて言った。
「俺は医者だからな」
携帯電話の通話を切る。
部屋の中に静寂が戻る。
圭介は、携帯電話を白衣のポケットにしまうと、カルテに何事かを書き込む作業に戻った。
ピンクパンサーのグラスに入れた氷が溶け、カラン、と小さな音を立てた。
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