第1話 螺旋階段を下って 3

汀は目を開いた。

彼女は、先ほどまでと同じ病院服にヘッドセットの姿で、自分の足で立っていた。

動かないはずの、下半身不随の体で、足を踏み出す。


そこは、四方五メートルほどの縦長の空間だった。

螺旋階段がぐるぐると伸びている。

その中ほどに、汀は立っていたのだった。


古びた螺旋階段は、木造りで動くたびにギシギシと音を立てる。

閉塞的なその空間は、下がどこまでも限りなく続き、上も末端が見えないほど伸びていた。

壁には矢印と「避難場所」と書かれた電光掲示板がいくつも取り付けられ、それぞれが別の箇所を指している。


良く見ると螺旋階段の対角側の所々に、人一人通れそうなくぼみが出来ており、そこに鉄製の扉がついていた。

汀は手近な避難場所と指された鉄製の扉を空けた。


中はただのロッカールームのようになっていて、何も入っていない埃っぽい空間だ。

そこから出て、扉を閉めてから汀はヘッドセットのスイッチを入れた。


「ダイブ完了。多分、煉獄に繋がるトラウマの表層通路部分にいるんだと思う」

『そうか。どんな状況だ?』


耳元から聞こえる圭介の声に、汀は小さくため息をついて答えた。


「上と下に、上限と下限がない通路と、横に隠れる場所。多分、何かから心を守ろうとしてるんだと思う。扉が一杯あるの。どれかが中枢に繋がってるんじゃないかな」

『お前にしては曖昧な見解だな』

「話してる暇がないからね」

『どういうことだ?』


そう言った圭介の声に答えず、汀は螺旋階段の下を見た。

黒い服を着た修道女のような女の子が二人、ギシ、ギシ、と階段をきしませながら、昇って来るところだった。


何かを話しているが、聞こえない。

顔も確認は出来ないが、マネキンではないようだ。


「トラウマだ」


そう呟いて、汀は近くの避難場所のドアを開けて、そこに体を滑り込ませた。

そして静かにドアを閉める。

ヘッドセットの向こうで圭介が息を呑んだ。


『強力なものか?』

「うん。かなり。見つかると厄介かも。昇ってくるから、多分下ればいいんだと思う」


しばらく息を殺していると、二人の女の子は、汀が隠れているドアの前を通り過ぎた。

声が聞こえた。


「でね、国語の小山田。美紀ともヤったらしいよ」

「えぇ? 本当? 何で美紀なの?」

「さぁねぇ。小山田って優しいじゃない。頼まれて仕方なくってことじゃないかな」

「何それウケる。自分から犯してくれって頼んだってこと?」

「バカの考えることはわかんないよ。小山田も災難だよね。よりにもよって美紀なんかとさぁ」


声が聞こえなくなった。

汀はしばらくしてドアをゆっくりと開け、そこから体を静かに引き抜いた。

女の子達は、上に向かって歩いて行っている。

汀はそれを確認して、螺旋階段を小走りで下り始めた。


『慎重に行けよ。この患者は、レベル5だ』

「うん」


小声で頷いた汀の目に、また二人組の女の子達が上がってくるのが見えた。

先ほどと同じように、避難場所に隠れる。


「でね、国語の小山田、美紀ともヤッたらしいよ」

「えぇ? 本当? 何で美紀なの?」


同じ会話だったが、違う声だった。


「美紀ってさ、地味だし、頭も悪いし、何もいいところないじゃん。だから、小山田を味方につけようとしたんじゃないかな」

「えぇ? 最悪。小山田、あいつヤリ捨て名人なんだよ? 美紀、バカ見ただけじゃないかなぁ」

「カンニングの話もあったじゃない。あの時の試験の担当、小山田だったらしいし」


声が聞こえなくなった。

また、汀は窪みから出て階段を降り始めた。


『随分と明確なトラウマだな。珍しい』


圭介の声に、汀は答えなかった。


「ユブユブユブユブユブユブユブ」


突然、奇妙な呟きとともに、また女の子二人組が上がってくるのが見えたからだった。

隠れた彼女の耳に、雑音交じりの声が聞こえる。


「ユブ……ザザ……先生…………やめ……」

「ザザ……ユブブ……ブブ……なんで美紀なの?」

「美紀! 山内美紀! おとなしくしろ!」

「ユブ……ザザザ…………ユブユブ……」


汀はそれを聞いて、今度は隠れずに、螺旋階段の中央部分に足をかけ、そして女の子達をやり過ごすように飛び降りた。


猫のようにふわりと着地し、汀は息をついた。

そこで、彼女の耳に、螺旋階段全体に声が反響したのが聞こえた。


「ゆぶユブユブユブゆぶユブユブゆぶ」


上を見た汀が、一瞬停止した。

今まで昇った女の子達が、全員一塊になって汀のことを見下ろしていたのだ。

そして「ユブユブ」と全員が呟いている。


その女の子達には、顔がなかった。

顔面にあたる場所に、「敵」という刺青のような文字が黒く書いてある。

それを確認して、汀は螺旋階段の中央部分、その空間に飛び込んだ。


それと、女の子達が手に持ったバケツの中身を、下に向けてぶちまけたのはほぼ同時だった。

バケツの中身に入っていた液体が飛散する。

それが当たった階段が、ジュゥッ! と焼ける音を立てて黒い煙を発し、そして溶けた。


液体の落下よりも、汀の落下の方が間一髪で早かった。

どこまでも落ちていく。

まるで、不思議の国に行くアリスのようだ。


汀は溶けてくる螺旋階段を見上げ、そしてそのつくりが、下に行くほど雑になっているのを目にした。

ささくれ立って、ボロボロの階段になっていく。


そんな中、一つだけピンク色に光る電光掲示板があった。

汀はその矢印が指すドアを確認すると、螺旋階段の手すりに手をかけ、体操選手がやるようにクルリと回った。

そしてドアを開け、中に滑り込む。


そこで、彼女の視界はホワイトアウトした。



彼女は、映画館に立っていた。

薄暗い劇場は狭く、百人も入れないほどの小さな映画館だ。

そこに、全員同じ髪型をしたマネキン人形が、同じ姿勢で背筋を伸ばし座っていた。


ビーッ、と映画の始まりを示す音が鳴る。

汀は最前列の中央に一つだけあいた席に、腰を下ろした。

3、2、1とスクリーンに文字が表示され、そして古びたテーブが再生される。


そこには、今汀がダイブしている女の子の顔が、アップで映されていた。

泣きじゃくって、必死に抵抗している。


「先生! 先生やめてください! こんなこと……こんなこと酷すぎます!」


観客のマネキン達から、男の笑い声が、一斉にドッと漏れた。


「先生! 先生やめてください! こんなこと……こんなこと酷すぎます!」


また笑い声が溢れる。

汀は興味がなさそうに、連続再生される女の子の顔を見て、そして立ち上がった。


彼女が立ち上がると同時に、ザッ、と音を立ててマネキン人形が立ち上がった。

それを見て、汀はにやぁ、と笑った。


「鬼さんこちら! 手の鳴る方へ!」


パンパンと手を叩いて、彼女は手近なマネキン人形を殴り飛ばした。

およそ少女の力とは思えないほどの威力で、マネキン人形の首が吹き飛んでいき、スクリーンの中央に大きな穴を開ける。


『汀、今回は危険だ。遊ぶんじゃない!』

「あは、あはは!」


汀は笑った。

マネキン人形達が、彼女の四肢を拘束しようと動き出す。


<あは、アハハ!>


まるで汀の声を真似るように、マネキン人形達も笑った。


「やめられないよ! だって楽しいんだもん! 面白いんだもん!」


汀はそう言って、また手近なマネキン人形を殴った。

その胸部に大きな穴が開き、ぐらりと倒れる。


「私はここでは最強なんだ! 強いんだ! こんなに楽しいゲームって、ねぇないよ!」

『汀、しっかりしろ!』


圭介の声を聞いて、汀はハッとした。

そして動悸を抑えるように、胸を掴んで荒く息をつく。


雪崩のように襲い掛かるマネキン人形達の手をかいくぐり、彼女はスクリーンに向かって飛び込んだ。

大きな音を立てて、布製のスクリーンが破れる。

向こう側に突き抜け、また汀の視界はホワイトアウトした。



気づいた時、汀はマネキン人形が所狭しと果てしなく投棄された、その山のような場所にうつぶせに倒れていた。

映画館のマネキン人形と同じように、全て同じ髪型をしている。


それらは腕をもがれたり、顔面を破壊されたり、全てがどこかしらを欠損していた。

共通しているのは、顔には「男」と書かれていること。


空には穴が開き、そこが汀が穴を開けた映画館のスクリーンらしく、ザワザワという騒ぎ声と笑い声が聞こえる。

少しして、汀は果てしなく広がる遺棄された人形達を踏みしめて、立ち上がった。


一箇所だけ、スポットライトが当たったように明るくなっている。

そこに、全裸の女の子が、何かを抱きしめるようにして膝まづいていた。

女の子の全身には、青黒い切り傷がついていて、そこから血がにじんでいる。


人形達を掻き分け、汀は女の子に近づいた。

そして、その頬を掴んで自分の方を向かせる。

やはり顔面はなかった。

そこには「嘘」と書いてある。


「全てを嘘にして逃げたいの?」


そう言って、汀はにっこりと笑った。


「全てを壊して、そうやって底辺で這い蹲っていたいの?」


女の子の反応はなかった。

汀は少しだけ沈黙すると、さびしそうに一言、言った。


「それが、一番楽なのかもしれないんだよ」


答えはない。


「全てを嘘にして、全てを否定して、一番下で這い蹲ってたほうが、幸せかもしれないよ」


女の子の存在しない眼窟から、涙が一筋垂れた。


「私がそれを許してあげる」


彼女はそう言って、女の子が大事そうに抱いていた、丸い玉を手に取った。

それは白く光り輝いていて、「真実」と書いてある。


「無理して真実になんて、気づかない方がいいよ」


また、汀は微笑んだ。


「だって、人間なんてそんなものだもの」


ぶちゅり。

丸い玉を、彼女は潰した。

どろどろとそこから血液が流れ落ちていく。


「治療完了。目をさますよ」


少し沈黙した後、汀はそう言った。

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