第1話 螺旋階段を下って 2

散々喚き散らした女性を軽くあしらい、診断室を追い出した青年は、息をついてカルテをベッドの上に放り投げた。

八畳ほどの白い部屋だった。

見た目は普通の、内科の診断室に見える。


彼は、看護士もいない部屋の中を見回し、立ち上がってドアを開け、診察を受けにきた患者もいないことを確認すると、大きく伸びをした。

そして、診断室の脇にあるドアを開ける。


中はやはり八畳ほどのスペースになっており、ディズニー系統のカーペットや壁紙など、年頃の女の子のコーディネートがなされていた。

部屋の隅には車椅子が置かれ、端の方にパラマウントベッドが設置されている。


上体を浮かせた感じで、そこに十三、四ほどの少女が目を閉じていた。

テディベアの人形を抱いている。

腕には何本も点滴のチューブが刺されている。

青年はしばらく少女の寝顔を見つめると、白衣のポケットに手を入れて、部屋を出ようと彼女に背を向けた。


「起きてるよ」


そこで少女が、目を開いて声を発した。

青年は振り返ると、一つため息をついて口を開いた。


「汀(みぎわ)、もう寝る時間だろ」

「隣がうるさかったから」

「悪かったよ。もう寝ろ」

「怒らないの?」


問いかけられ、青年……高畑圭介(たかはたけいすけ)は、少し考え込んでから言った。


「お前は立派に命を救っただろ。怒るつもりはないよ」

「そうなの。なら、いいの」


テディベアを抱いて、汀がにっこりと笑う。

そこには快活そうな表情はなく、げっそりとやせこけた、骨と皮だけの少女がいるばかりだった。


汀は、上手く体を動かすことができない。

下半身不随なのだ。

左腕も動かない。

圭介が、彼女の生活のサポート、つまり介護を行っている。


他にもいくつかの病気を併発している汀は、一日の殆どを横になって過ごす。

それゆえに、部屋の中にはテレビやゲーム機、漫画や本などが乱雑に置かれて、積み上げられていた。


「今度は何を買ってくれるの?」


汀がそう聞くと、圭介は軽く微笑んでから言った。


「3DSで欲しいって言ってたゲームがあるだろ。あれ買ってきてやるよ」

「本当? 嬉しい」


やつれた顔で汀は笑った。

それを見て、圭介はしばらく考えた後、発しかけた言葉を無理やりに飲み込んだ。


「…………」

「疲れたから、もう寝るね」


汀がそう言う。

彼は頷いて、ベッドの脇にしゃがみこむと、汀の手を握った。


「薬は飲んだか?」

「うん」

「無理して起きなくてもいいからな。目を覚ましたらブザーを鳴らせ」

「分かった」


汀の頭を撫でて、圭介は立ち上がった。

そしてゆっくりと部屋を後にする。

背後から少女の寝息が聞こえてきた。



その「患者」が現れたのは、それから三日後の午前中のことだった。

夏の暑い中だというのに長袖を着た、女子高生と思われる女の子と、その母親だった。


圭介は、座ったまま何も話そうとしない女の子と、青ざめた顔をしている母親を交互に見ると、部屋の隅の冷蔵庫から麦茶を取り出して、紙コップに注いだ。

そして二人の前に置く。


「どうぞ。外は暑かったでしょう?」


女の子に反応はない。

何より彼女の両手首には、縄が巻きつけられ、がっちりと手錠のように動きを拘束していた。

女の子の目に生気はなく、うつろな視線を宙に漂わせている。


圭介はしばらく少女の事を見ると、彼女の頬を包み込むように持って、そして目の下を指で押した。

反応はない。


「娘は……」


母親は麦茶には見向きもせずに、青白い顔で圭介にすがりつくように口を開いた。


「先生、娘は治るんでしょうか?」

「自殺病の第五段階まで進んでいますね。極めて難しいと思います」


柔和な表情を崩さずに、彼はなんでもないことのようにサラリと言った。

母親は絶句すると、口元に手を当てて、そして大粒の涙をこぼし始めた。


「赤十字の病院でも……同じ診断をされました。もう末期だとか……」

「はい。末期症状ですね。言葉を話さなくなってからどれくらい経ちますか?」

「四日経ちます……」

「絶望的ですね」


簡単にそう言って、圭介はカルテに何事かを書き込んだ。


「ぜ……絶望的なんですか!」


母親が悲鳴のような声をあげる。


「はい」


彼は頷いて、カルテに文字を書き込みながら続けた。


「隠しても何もあなた方のためになりませんので、私は包み隠さず言うことにしているんです。自殺病は、発症してから自我がなくなるまで、およそ二日間と言われています。第四段階での場合です。今回のケースは、その制限を大きく逸脱しています」


彼は立ち上がってFAXの方に行くと、送られてきた資料を手に取った。

それをめくりながら言う。


「担当は赤十字病院の大河内先生からの紹介ですね。知っています。どうして入院させなかったんですか?」

「そ、それは……娘が入院だけは嫌だと言い張って……」

「その結果命を落とすことになる自殺病の患者は、全国で一日に平均十五人と言われています」


柔和な表情のまま圭介は続けた。


「日本に自殺病が蔓延するようになって、もう十年ほど経ちますが、一向にその数は減らない。むしろ増え続けています。そして、娘さんもその一人になりかかっています」


資料をデスクの上に放って、彼は椅子に腰掛けた。


「どうなさいますか?」


穏やかに問いかけられ、母親は血相を変えて叫んだ。


「どうって……ここは病院でしょう? 娘を助けてください!」

「それは、どのような意味合いで?」


淡々と返され、母親は勢いをそがれ一瞬静止した。


「意味合い……?」

「娘さんを元通りに戻すのは、無理です。自殺病第五段階四日目の生存確率は、およそ十パーセントほどと言われています。生かすことも困難な状況で、はいできましたと、魔術師のように娘さんを戻すことは不可能です」

「それじゃ……」

「しかし」


一旦そこで言葉を切って、圭介は眼鏡を中指でクイッと上げた。


「私どもは、その十パーセントを百パーセントにすることだけは可能です」

「どういう……ことですか?」

「命のみは保障しましょう。命のみは」


二回、含みを加えて言うと、圭介は微笑んだ。


「その代わり、娘さんは最も大切なものをなくします」

「仰られている意味が……」

「言ったとおりのことです。植物状態になるかもしれませんし、歩けなくなるかもしれない。喋れなくなるかもしれないし、記憶がなくなって、貴女のことも思い出せなくなるかもしれない。具体的にどうとはいえませんが」

「……そんな……どうしてですか?」

「娘さんの心の中にあるトラウマを、物理的な介入によって消し去ります。その副作用です」


端的にそう答え、圭介はデスクから束のような書類を取り出した。


「それでは、今から契約についてご説明します」

「契約?」

「はい。ここで見聞きしたことについては他言無用でお願いします。その他、法律関係のいくつか結ばなければいけない契約があります」

「…………」

「それと」


母親に微笑みかけて、圭介は言った。


「当施術は、保険の対象外ですので、その点もご承諾いただきたいのですよ」



「急患だ。即ダイブが必要だ」


車椅子を押しながら、圭介が言う。

そこにちょこんと乗せられた汀は、手元の3DSのゲームを凝視しながら口を開いた。


「今日はやだ」

「ゲームは後にしろ。マインドスイーパーの資格があるんなら、ちゃんと仕事をしろ」

「でも……」

「でももにべもない。ゲームは後だ」


そのやり取りをしながら、彼らは施術室と書かれた部屋の前に止まった。

母親が、真っ赤に目を泣き腫らしながら、立ち尽くしている。


彼女は車椅子の上で3DSを握り締めている小さな女の子を見ると、怪訝そうに圭介に聞いた。


「この子は……」

「当医院のマインドスイーパーです」


施術室の扉を開けながら、圭介は言った。

母親は絶句した後、圭介に掴みかかった。


「何をするんですか」


それを軽くいなした圭介に、彼女は金切り声を上げた。


「娘の命がかかっているんですよ! それを……それをこんな……こんな小娘に!」


汀が肩をすぼめ小さくなる。

怯えた様子の彼女を見て、圭介は白衣を直しながら、淡々と言った。


「……お母様は、待合室の方で待たれてください。マインドスイープはとても繊細な動作を要求します。この子を刺激しないでください」

「からかわないで! こんな子供に何が出来るって言うんですか!」

「…………」

「娘を殺したら、あなたを殺して私も死んでやる! ヤブ医者!」

「待合室の方に」


圭介はそう言って待合室を手で指した。

彼を押しのけ、母親は施術室に入ろうとした。


「私も同席するわ。娘を妙な実験の実験台に……」

「入るな」


そこで、圭介が小さな声で呟いた。


「何を……」

「二度同じことを言わさないでください。貴女が『邪魔』だと言っているんです」


ネクタイを直し、彼はメガネを中指でクイッと上げた。


「刻一刻と、娘さんの命は削られていきます。今この時にも、自殺を図る可能性が高い。あなたは、私達の施術を邪魔して、娘さんを殺したいのですか?」

「…………」


目を剥いた母親を、無理やりに押しのけ、圭介は汀の乗った車椅子を施術室に押し入れた。


「その場合、殺人罪が適用されますので」


柔和な表情を崩さずに、彼は施術室のドアをゆっくりと閉めた。


「待合室で、お待ちください」


ガチャン、と重い音を立ててドアが閉まった。



「やれるか、汀?」


そう聞かれ、汀は小さく震えながら圭介を見上げた。


「やだ。私あの人の娘なんて治したくない」

「我侭を言わないでくれ。人の命を、救いたいんだろ?」


そう言って圭介は、汀の頬を撫でた。


「これが終わったら、びっくりドンキーにでも一緒に飯を食いに行こう。やってくれるな?」

「本当?」

「ああ、本当だ」

「うん、私やる。やるよ」


何度も頷いた汀の頭をなで、圭介は施術室の中を見回した。

十六畳ほどの広い部屋には、所狭しとモニターや計器類が詰め込んである。


その中心に、ベッドが一つ置いてあった。

先ほどの女の子が、両手足をベッドの両端に縛り付けられ、口に猿轡をかまされた状態で横たえられている。


そんな状態にも拘らず、女の子には特に反応がなかった。

汀はその顔を覗き込むと、興味がなさそうに呟いた。


「もう駄目かも」

「そう言うな。特A級スイーパーの名前が泣くぞ」

「だって駄目なものは駄目だもん」


頬を膨らませた汀を無視して、圭介は計器類の中から、ヘルメットのようなものを取り出した。

黒いネットで作られていて、顔面全体を覆うようになっている。


それを女の子に被せ、同じものを汀に持たせる。

そして、彼は汀の右耳にイヤホンとマイクが一体になったヘッドセットを取り付けた。


「何か必要なものはありそうか?」

「預かってて」


3DSを彼に渡し、汀はヘルメット型マスクを被った。

そして車椅子の背もたれに体を預ける。


「何もいらないよ」

「そうか。時間は十五分でいいな」

「うん」


そして圭介は、ラジオのミキサーにも似た機械の前に腰を下ろした。

それらの電源をつけ、口を開く。


「麻酔はもう導入してある。後はお前がダイブするだけだ」

「うん」

「この子の、『意識』の中にな」


含みを持たせてそう言い、圭介はにっこりと笑った。


「それじゃ、楽しんでおいで」

「分かった。楽しんでくるよ」


そう言って、汀は目を閉じた。

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