5-6【声なき慟哭に導かれて】

 エスティラ・エレ・バルダート。


 現当主、ドゥラン・ブラマティ・バルダートの長女として生まれ、弟アルフォンソが誕生するまでは、次期当主としての教育を受けてきた貴族の娘。


「何が絶望よ……心を壊すって…………」


 サイクロプスの手に、涙の筋が流れていく。

 強く閉ざされたエスティラの目尻から、大量の涙があふれていた。

 しかし、その声に恐怖や絶望はない。


 無念、怒り、そして自らの無力さへの落胆。

 それでもなお、彼女の心には支えが残されているというのか。


「私が心から信じてきた人は、アメリアだけだった」


 頭を足で押さえつけられながらも、エスティラは言葉を続ける。


「あの人はプロの家政婦よ。だけどそれ以上に、優しい人だった」

「そうかいそうかい。ああしかし! アンタを思い慕う者はこの世に亡くっ!!」

「でもそれ以上に、アメリアは教えてくれた。パパ達のことを」


 イェキュブの煽りを、エスティラは完全に無視していた。

 まるで勝ち誇る魔女に、お前の計画は失敗していると言いたげに。


「パパは私に家督を継がせないと決めたとき、悔いていたって。ママは私に、どうにか別の生き方を与えられないかと悩んでいるって」


 閉じられていたエスティラの目が、少しだけ開かれる。

 その瞳には、絶望など一片も映っていない。


「知ってる? アルったら事あるごとにお姉ちゃん、お姉ちゃんって。いっつも私に甘えて……」


 その心に、可愛らしい弟の姿を思い描いているのか。

 少しだけ嬉しそうに、エスティラはその様子を語ってみせた。


「私は、パパにもママにも、アルにだって失望してなんかいない。こんな私でも、みんなちゃんと家族として愛してくれている。アメリアが教えてくれなければ、私はそれに気付けなかった」


 嗚咽で声を詰まらせながらも、自らの思いを吐露し続けるエスティラ。

 震え、それでいて誰の耳にも通る、凛とした声で。

 まるで、残されたわずかな勇気を奮い立たせるかのように。


 これが、親元を離れる決意をした彼女の、胸に秘めた【覚悟】だったのだろう。


「だからこそ、私だって……なりたい理想があるのよ」


 ゆっくりと……本当にゆっくりと、エスティラの顔が上がっていく。

 イェキュブの脚の力に抗い、少しずつ。

 歯を食いしばり、出せる限りの力を振り絞って。


「家も継げないし、大した才もない。いるだけで迷惑かけちゃう私だって……」


 ほんの僅かだけ、エスティラの決意に満ちた瞳が、イェキュブの顔に向けられる。


 彼女の口角が、ほんのわずかに上がっていた。

 絶望させようと躍起になっていた相手が、不敵に笑っていたのだ。


「ヴェスティリアのようにみんなから頼られて、誰にも縛られず戦って、それで……」


 エスティラは吠える。

 決して、自分の心は折れない。そう宣言するかのように。


「大事なものを守れるくらい、強くならなきゃいけないのよッ!!」


 もしもの話である。

 ヒーローにとって最も重要なものが、その志なのだとしたら。

 悪意に踏みにじられながらも決して心は砕けず、そして憧れの存在を支えにあがいているのだとしたら。


 その心に灯る火を、【彼女】は何と呼ぶだろうか。





「…………ああ」


 崩れた瓦礫の下で、感嘆の声が漏れる。


 右手に錠前を持ち、今まさに立ち上がろうとする、一人の少女。


「やっぱ……守らなきゃダメだ」


 黒髪の少女、アデーレ・サウダーテ。

 彼女は虫の一撃を、アンロックンによって防いでいた。

 というよりは、衝突の寸前にアンロックンが自ら前に出て、彼女が殺害されたふりを演出してみせたのだ。


「ロックン」


 恩人の名を呟く。


「私が今何考えてるか、分かるよね?」


 その手は力強く、あまりに力強いがゆえに、震えている。


「……ああ。ものすごく怒ってる」

「正解」


 くすっと笑うアデーレ。

 しかしその目は一切笑っていない。

 眉間に深いしわが刻まれ、脳内から全身に高揚感が満ち溢れる。


 エスティラを守る。アデーレは確かにそう決意した。

 しかし全ての迷いを振り払えたわけではない。

 どんな理由があろうとも、故郷に魔獣が出現する原因を作ったのは、覆せない事実なのだから。


 その迷いの心を、完全に振り切った。

 エスティラの言葉で、それが運命だったと割り切ることが出来た。

 彼女の命と、慟哭どうこくする心。そして愛する故郷を救わなければならないという運命だ。


 その時、頭上に乗っていた瓦礫が、何者かの手によって除去される。

 アデーレの顔に、光が差し込む。


「アデーレさん!」


 見慣れた紳士の顔。ロベルトだ。

 ほこりやすすで汚れながらも、助けに来てくれたのだろう。


「良かった。お身体は動かせそうですか?」

「うん、大丈夫。少し離れててください」


 アデーレの言葉を受け、後方に下がるロベルト。

 その姿を確認すると、アデーレがアンロックンを強く握りしめる。

 直後、アデーレの身体を覆っていた多数の瓦礫が、全て誰もいない方向へ弾き飛ばされる。


 全身の自由を取り戻したアデーレが、ロベルトの前で立ち上がる。

 その顔には、怒りと決意がはっきりと刻まれていた。


「……ロベルトさん」


 服に付いたほこりを払いながら、真剣な眼差しでロベルトの方を見るアデーレ。


「出来る限り、この場から人を避難させてください」

「避難……しかし、今は町にいた魔獣の一部が屋敷の周辺まで」

「大丈夫です」


 ロベルトの言葉を遮る、力強いアデーレの言葉。

 アンロックンを持った右手を、左頬の辺りに上げる。


「避難路は……みんなを助ける術は…………」


 左手を前に突き出す。

 既に左手には炎が宿り、それが収束すると、竜神の力を宿した鍵が形成される。

 出現した竜神の鍵を手にし、アンロックンの鍵穴へと迷いなく差し込む。


「私が、必ず切り開きます」


 鍵を右に回す。

 ガチャリという音と同時に、アンロックンの鍵穴から火花が散る。


「絶対に……ッ」


 アンロックンから炎があふれ、アデーレの全身を覆い尽くす。

 その状態のまま、アデーレは空いた天井の穴めがけて跳躍し、屋根の上へと着地する。




 アデーレが立ち上がる直前。


「ヴェスティリア……ヴェスティリア、ヴェスティリア、ヴェスティリア……ッ!」


 その名を呪詛のようにつぶやき続けるイェキュブ。

 エスティラの新たな心の支えとなった彼女の存在は、魔女にとって最も邪魔な存在であったのだろう。


 強大な力で魔獣を打倒し、人々の命を救う存在。

 弱い人間を相手にすればよいだけだったイェキュブにとって、これほど厄介な相手はいないはずだ。


「ああ……ああそうかい。奴がアンタの心の支えってことかい」


 自らの脚に力を込め、再びエスティラの顔を踏みにじる。

 更に、こめかみに向けて右手に持った杖の末端を突きつける。


「ならば、もういいよ。アンタの中身は虫の餌さね」


 そうつぶやくと、イェキュブの右手から人間を内から食い尽くす虫が無数に湧き出す。

 それらは杖を伝って下へと降り、エスティラの頭上を目指す。


「アンタのママ代わりと同じように、悲鳴上げちまいなぁ!」


 ……それでも、エスティラは恐怖も落胆もしない。

 決意に満ちた怒りの表情を崩さず、魔女の拘束を抜けようとあがき始める。


 サイクロプスの手から逃れることなど、普通の人間には叶わないことだ。

 それでもエスティラは諦めない。

 死ぬわけにはいかないと、彼女も分かっているのだ。

 自分の死によってもたらされる、大いなる災いを許したくはないから。


 しかし異形は、人知の及ばぬ力でそれらを蹂躙し、世界を我が物顔で闊歩する。

 悪意ある力を振りかざす者達によって、ささやかな平和が失われていく。

 きっとまた、どこかで命が無残に奪われていく。



 ヒーローとは、蔓延はびこる邪悪を挫き、払う存在。

 そして、目の当たりにした人々の支えになれる、心強い存在。

 だからこそ、彼らは英雄の名を与えられるに相応しい。


 それが、佐伯 良太が画面の向こうで見た、英雄ヒーローの姿だ。



 突如、中庭を業火の光が照らし出す。

 それに気付いたイェキュブが、その光源の方へと顔を向ける。


「ああ……」


 顔を上げることのできないエスティラ。

 しかし熱く、そして優しき光の正体を、彼女は知っている。

 突然ロントゥーサ島に現れ、巨大な剣を振るって魔獣を断ち、人々を守るその者を。


 屋根の上で燃え盛る炎は、曇天の下で輝く太陽のように明るく輝いていた。


「来たねぇ……気に入らんっ!!」


 杖を這う虫たちを振り払い、その先端を炎に向けるイェキュブ。

 それに呼応するように、ムカデ腕の巨人がその腕を伸ばし、炎をかき消そうと薙ぐ。

 だが、炎に触れた腕は一気に燃えがあり、巨人の片腕を灰に変えてしまった。


「変身中の攻撃は……」


 炎が声を発する。

 その声には怒り、そして決意が込められ……。


「ご法度って決まってるんだ」


 収束する炎。

 その中に立つ、赤き戦士の姿。


 赤熱する身体で空気は揺らぎ、右手に持つ大剣には猛き炎が宿る。

 空いた左手で帽子の先端をつまみ、位置を直す。

 熱によって生まれた気流で、ルビー色の髪は美しく舞い上がる。


 その名の意味は、ヴェスタの巫女。

 聖火を司る女神に仕える、純粋なる存在。

 聖火の力を宿した、強く気高き紅蓮の剣士。


「ヴェスティリア……来てくれた」


 エスティラの表情が、ようやくほころぶ。

 心の中で求めていた、救いの存在。

 それが今、彼女の元に降臨したのだ。


「暗黒大陸の魔女よ」


 ヴェスティリア……ではなく、フラムディウスへと変化したアンロックンの声が響き渡る。

 いや、この語りはアデーレの相棒、アンロックンとしてのものではない。

 その内に宿る真なる存在、ヴェスタの神告だ。


「貴様の筆舌に尽くしがたい悪逆非道、到底許すことは出来ぬ」


 アデーレがフラムディウスを天高く掲げる。


「浄罪の余地なし。もはや懺悔ざんげするいとまも与えぬ」


 空いた左手で柄を握り、両手持ちの構え。

 直後、まるで瞬間移動の如く、アデーレの姿がサイクロプスの頭上へと移動する。


「ここで、滅せよッ!!」


 振り下ろされるフラムディウス。

 その勢いはすさまじく、摩擦によって空気すら焦げて匂いを放つ。


 振り切られたところに遅れて、暴風のような熱波が周囲を襲う。

 その強烈な風に怖気づいたか、イェキュブがその場から飛び去り、屋敷の屋根へと移動する。

 直後、エスティラとメリナを拘束していた両の剛腕が、まるでチーズのように焼き切られてしまった。


「アガアアアァァァーッ!!!」


 出血はない。

 赤熱するフラムディウスの刃によって、切断面が完全に焼かれたのだ。

 アデーレはそのままもだえ苦しむサイクロプスを足蹴に跳躍し、今にも地面に落ちようという手から、エスティラとメリナを救出。

 左腕に二人を抱えたまま、魔獣のはびこる中庭へと着地する。


「大丈夫?」


 左手に抱えた二人を芝生に降ろすアデーレ。

 メリナは未だ気を失っているが、エスティラは目に涙を浮かべながらも、わずかに微笑んでいた。

 やはり、正体がアデーレであることについては気が付いていないようだ。


「……あなたが来るって、ずっと信じてた。ヴェスティリア」


 エスティラの上ずった言葉に、アデーレはうなずくことで返す。

 そのまま二人に背を向け、右手に持ったフラムディウスを下段に構える。


 アデーレの目の前には、多数の牛頭ごず魔獣が待ち構えている。

 その巨体はアデーレよりも大きく、そして力強い。


「大丈夫。あんなの見掛け倒しさ」


 先ほどまでの神の宣言はどこへやら。

 いつもの調子に戻ったアンロックンが、魔獣たちを前に余裕を見せる。

 だが、当然その言葉はアデーレも同意見だ。


 怒りに燃えるアデーレを止めることなど、この程度の魔獣では不可能だ。


「お嬢様」


 魔獣と正対したまま、アデーレが声をかける。

 同時に、上空に剣を掲げ、円を描く。


 すると、エスティラとメリナを囲むように赤いオーラが出現し、彼女達を包み込む。


「その中なら魔獣の攻撃も通らないよ」

「私が必ず逃げ道を確保する。だから今は待っていて」


 再び剣を下段に構え、臨戦態勢に戻る。

 余計な言葉など必要ない。

 ただ、宣言すればいい。

 それだけで、エスティラの心を勇気づけることができるのだから。


「……ええ。気を付けて」


 剣を構えるアデーレを、エスティラが結界越しに見送る。

 使用人の姿では到底かけられることのない、優しき声援。

 それを受けたアデーレの胸が、強く脈打つ。


(本当、ずるいなぁ。このお嬢様は)


 このときめきは、高揚感は、良太が彼女に異性としての魅力を感じてしまった為か。


 しかし、それすらも力に変え、ヴェスティリアの炎は強く燃え盛る。

 ヴェスタの巫女に与えられた、力の象徴。

 それを全力で滾らせ、アデーレは魔獣の群れへとその身を投じるのだった。

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