5-5【人の心を踏みにじる者(後編)】

 場の空気が明らかに変わった。


 ヴェスティリアの名を忌々しそうにつぶやくアメリア。

 その様子に怖気づいたか、メリナの顔色がみるみるうちに悪くなる。

 そして……。


「……アメリア? どうしたの、ねぇ?」


 傍らに立つアメリアを、不安げに見上げるエスティラ。


 その瞬間、アデーレの緊張が一気に張り詰めた。

 怒り、悲しみ、絶望、落胆。

 あって欲しくはなかった。信じたくはなかった。

 しかし、これが現実なのだ。


「お嬢様っ、こちらにっ!」


 ソファに座るメリナが、エスティラの手を取る。

 そして、二人でアデーレの側に立ち、相変わらず様子のおかしいアメリアから距離を取る。


 これまで見たことのない、震えるエスティラの不安げな表情。

 気を持ち直したメリナの、到底尊敬する相手に向けるものではない警戒心。

 胸に手を当て、悲痛な表情を浮かべるアデーレ。


 そんな三人の様子を、アメリアは全く意に介していなかった。


「忌々しい……お嬢様の心の支えになって……ヴェスティリア……忌々しいねぇ」


 右手で目元を覆い、うつむくアメリア。

 そして再び顔を上げたとき……。


 ――その瞬間は、ついに訪れてしまった。


「ヒッ……」


 耳に入ったのは、エスティラの引きつった悲鳴。


 彼女の前にいるアメリアの身体が、異様な動きを始めていた。

 モスグリーンのドレスの下が激しく脈動し、背中や腹部が時折跳ね上がる。

 顔や手といった肌をさらけ出した部分では、その皮膚の下で無数の細長いものがうごめいているのが確認できた。


 アデーレには、アメリアの内にいる【それ】が容易く予想出来てしまった。

 強烈な吐き気を堪え、少しずつエスティラ達の前に立つ。


 その瞳は潤み、今にも泣きそうだった。


「うそ……スィニョーラ」


 震える声で、メリナが呼びかける。

 しかし目の前にいるのは、彼女達が尊敬する敏腕家政婦ではない。


 既に体は人の形を成しておらず、肌色の何かが無秩序な変形を続けているだけ。

 その肌色は、人間の皮膚か。

 動きは激しくなり、到底人間の皮膚では耐えられるようなものではない。

 肌色のそれは無残に引き裂かれ、その内から赤黒い触手の塊が現れる。


 アデーレは、それを一瞬たりとも忘れはしなかった。

 ミウチャと自分に襲い掛かった、魔女の腕を構成する虫の集合体。

 いよいよ正体を現した怪物は、すぐさま人の形を形成し、近くにあった赤いカーテンをローブのように纏う。


 顔を隠すローブを羽織った、人型のそれ。

 まさしく、魔女そのものと言える姿であった。


「あ、あ……」


 言葉を紡ぐことも出来ず、その場にへたり込むエスティラ。

 彼女の手を固く握るメリナもまた、合わせてその場にひざまずいた。


 アデーレはただ一人、涙を溜めた目で、因縁の相手を睨みつけた。


「もっと都合よく動いてくれればねぇ、怖い思いをせずに済んだというものを。ああ、かわいそう。かわいそう」


 対する魔女は、この場にいる無力な三人を見下すかのように語り掛ける。

 何がおかしいのか。時折笑い声のようなものも上げている。


「まぁ、いいさね。ところでお前さん」


 魔女の手がアデーレの方を指差す。


「生意気に立ち往生かい……ちょっと下がってな」


 その一瞬の変化に、アデーレの目が見開かれる。


(ッ!! まずいっ!!!)


 叫ぶアンロックン。

 直後、太く長大な芋虫が魔女の身体から現れ、アデーレに向けてその巨体を薙ぐ。

 ヴェスティリアの姿ならば回避も容易な攻撃。

 しかし今はただの人。エスティラやメリナもいるため、変身は不可能だ。


 ――何も、抵抗することが出来なかった。


 強靭な虫の身体が、アデーレを打つ。

 その衝撃はすさまじく、アデーレの身体は部屋の壁を突き破り、廊下の壁に叩きつけられた。


「アデーレェ!!!!」


 その悲鳴はメリナか。それともエスティラだったのか。

 壁の残骸に覆われたそこに、アデーレの姿を確認することは出来なかった。


 アデーレを弾き飛ばした巨大な芋虫が、魔女の身体へと戻っていく。

 残されたのは異形の魔女と、無力な少女が二人。


「ああ……そんな、アデーレ……」


 大きく空いた壁の穴を見ながら、震える声でメリナが呼びかける。

 当然ながら、返事などは返ってこない。

 状況を飲み込み切れない二人が、体を震わせる。

 いつしかメリナは、不安からかエスティラの肩を抱きしめていた。


「ふん、結局は小娘かい。まぁいいさね」


 無力な者しかいないことを確信している魔女。

 一切警戒する様子もなく、残された二人の少女をあざ笑うかのように見下ろしている。


「あ……アンタ」


 その時、か細く震え、それでも確かな怒りを秘めた声が響く。

 声の主はゆっくりと顔を上げ、力強い目で魔女を睨みつけた。


「お、お嬢様……?」

「おやまぁ、そんなんでも口が利けるのかい?」


 ガチガチと歯を鳴らしながらも、メリナの手を静かに振りほどいて立ち上がる。

 脚は震え、握る手には爪が食い込み、血が滲む。

 それでも彼女は弱々しい脚で立ち、アデーレと同じように魔女と正対する。


 エスティラの表情は、悲しみと怒りで歪む酷いものだった。


「アンタ、何者よ? アメリアをどうしたのよ?」


 震える顎を抑えるように、歯を食いしばる。

 その姿があまりにもおかしいというのか。魔女は大笑いを轟かせた。


「はっ! そうだねぇ、自己紹介……私の名はねぇ……魔女。魔女、イェキュブさね」

「魔女……そう、アンタがおじい様達が雇ったっていう」

「ああそうさ。あのジジイ共の手助けをしてやってるよ。それで……」


 触手……虫で覆われたその顔からは、当然表情などは読み取れない。

 だが明らかに、魔女イェキュブは無力な人間を嘲笑っている。

 反吐が出るほどの悪意を、その言葉に込めている。


「お前さんの愛しいアメリアだがね。まぁ見ての通り、ガワだけ必要だったんで死んでもらったよ」


 まるで人の姿を衣服扱いするかのような暴言。

 そして、事実を聞かされたエスティラは、ただただ強く目を見開いた。


「我ながら、無残な殺し方だと呆れたものよ。全身に虫を巡らせて、中から全部食い散らかして……いやぁ、酷い悲鳴だったよぉ」


 エスティラの体が震える。

 抑えきれぬ震えで再び歯が鳴り、いつの間にか目には涙を浮かべていた。


 残酷。

 あまりにも残酷と言わざるを得ない、イェキュブの所業。

 既に気絶しそうな様子のメリナ。

 最も大切な存在であっただろう人を奪われたエスティラ。

 今まで普通の生活をしてきた二人に聞かせるには、あまりにもむごいものだった。


「まぁ、いずれアンタにゃ話すつもりだったのさ。徹底的に絶望してもらわにゃ、私が困るんでねぇ」

「ぜつ、ぼう……?」


 イェキュブの言葉が理解できないといった様子で、エスティラがつぶやく。


「アンタには綺麗な体でいてもらわなきゃ困るからねぇ。虫を使う訳にはいかないのさ」


 そんな彼女の姿がおかしいのか、けらけらとイェキュブが笑う。

 非常に不快で耳障り。脳内にこびりつくような、乾いた笑い声だ。


「じゃあ心に壊れてもらおうって訳で、色々面倒なことをさせてもらったよ」


 エスティラ達の方へ腕を伸ばし、手を広げるイェキュブ。

 すると、手のひらの中心から何か棒状のものが姿を現す。

 赤黒く変色した肉片がこびりつく、イェキュブの身長よりも長い杖だ。

 その芯は、骨を接いだもので出来ていた。


 末端まで出現した杖が、先端を天井に向ける形で回転する。

 それをイェキュブが、広げた手のひらで握る。


「こんな感じに、ねぇ!」


 そして、末端部分で勢いよく床を突く。

 瞬間、屋敷を中心とした地震が発生し、直後背後から耳をつんざく破壊音が響く。

 エスティラ達が振り返ると、廊下の窓側……つまり中庭の方から、灰色肌の巨大な腕が二人めがけて伸びて来た。

 二人はなす術もなく筋肉質の手に全身を掴まれ、そのまま中庭の方へと引きずり出されてしまう。


 外にいたのは、これまでのものとは比べ物にならないほど凶悪な様相のサイクロプスだ。

 他にも、ムカデの左腕と蛇の頭が付いた尾を持つ異形の巨人や、二本角を持つ牛頭ごず魔獣の群れ。


 それらが、バルダート邸別邸の中庭に、突如出現したのだ。

 当然、気付いた人々の悲鳴が屋敷中で巻き起こる。


「なっ……なんで……?」

「そりゃあアンタ、私が念入りに準備していたからに決まってるじゃないかぇ」

「準備……?」


 その声だけで、イェキュブが醜悪な笑みを浮かべているのは容易に想像できた。

 弱き者をあざ笑い、容易く殺す悪魔の姿だ。


「アンタは私の思い通りに人をここに集め、そしたらそこに魔獣が現れた……」


 エスティラの部屋から、ゆっくりと二人の方へ歩み寄るイェキュブ。

 サイクロプスが空けた穴から外に踏み出すと、イェキュブの脚はまるで空気を足場にするかのように、変わらぬ足取りで拘束されるエスティラ達の方へと進む。


「さぁ、アンタならどう思う? この状況、魔獣を呼び出したのは誰なのか?」

「そ、そんなの……」

「今までこの屋敷に魔獣は現れなかった。なのに自分達が集まった途端にこれだと、ねぇ?」


 エスティラの目に、明らかな恐怖心が見てうかがえる。

 この先のことを知りたくないと、その目が訴える。

 しかし、イェキュブは一切の情けなしに言い放つ。


「こいつは裏切り者だ! バルダートの娘は、魔獣を使って島を滅ぼそうとしているのさぁ!!」


 エスティラが、強くまぶたを閉じる。

 しかし、それでも魔女の笑い声は耳から離れない。

 耳を塞ぎたくとも、腕を動かす事は叶わないだろう。


 イェキュブがこれまで施してきた、回りくどい策。

 それらは全て、一人の少女の心を徹底的に踏みにじる為に用意された、醜悪な演出だった。

 人々を混乱の中で死に至らしめ、その責任の全てを、十五歳の少女に押し付けるつもりなのだ。

 それはあまりにも残酷であり、到底エスティラに耐えられるものではない。


 共に拘束されていたメリナが恐怖を振り払い、イェキュブを睨みつける。


「酷い……こんな酷い事、よくも!!」

「うるさいねぇ」


 イェキュブがサイクロプスに、指先で命令を出す。

 するとサイクロプスはもう一方の手を伸ばし、メリナの頭をそちらの手の指でつまみ、持ち上げる。


「あぐっ!!」

「メリナァ!!」


 サイクロプスはただつまみ上げただけだろうが、その指の力は人間の頭蓋骨では耐えられるものではないだろう。


「おおっと、あんまり力を入れすぎるんじゃないよ。すぐ殺したらもったいない」


 イェキュブの言葉を受けて、サイクロプスが指の力を緩める。

 だが、最初の痛みでメリナは既に気を失ってしまったようだ。


「さて」


 うるさい奴が一人減ったと満足したのか、イェキュブがエスティラの頭上まで進む。

 そして、拘束されている彼女の頭を、虫が蠢く醜い脚で踏みにじった。


「ぐっ……」

「どうだい、貴族のお嬢ちゃん。身に覚えのないことで人に恨まれるってのは?」


 既にイェキュブは、勝利を確信したと言わんばかりの上機嫌だ。

 事実、邪魔者は誰もおらず、自らの召喚した魔獣で屋敷は既に包囲している。

 この絶望的な状況を覆す方法など、この場の誰も持ち合わせていない。


 そしてもうすぐ、この絶望の中で人々は虐殺される。

 守るつもりだった町民に恨まれ、仕えてくれた使用人たちに恨まれ……。


 エスティラ・エレ・バルダートの尊厳の全てが、この魔女に踏みにじられているのだ。


 その絶望の程度を想像しているのだろう、魔女は高らかに笑う。

 笑い続ける。

 耳障りなほどに……。


「……さい」


 それを打ち消したのは、エスティラのか細い声だった。


「あん?」


 聞こえんと言わんばかりに、イェキュブは耳のあるであろう場所に手を寄せ、エスティラの顔に自らの顔を近づける。


「……うるさい。黙れ」


 その声は、イェキュブが求めていた言葉とは明らかに違っていた。

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