5-4【人の心を踏みにじる者(前編)】
曇天の下、フラムディウスを担いだアデーレが、建物の屋根を飛び移りつつ屋敷の方へと向かっていく。
途中数匹の魔獣を倒し、十数人の町民に屋敷へは向かわず内陸へ向かえと声をかけていった。
おそらく、エスティラの指示は相当早く出されたのだろう。
安全なエリアに近付くほどに逃げ遅れた人の姿は少なくなり、
だが、アデーレの表情には一切の余裕がない。
あの屋敷には全ての元凶である魔女が潜み、今もなおエスティラに対し何らかの方法で危害を加えようとしているのだ。
跳躍するアデーレの脳裏に、屋敷の人々の顔が浮かぶ。
協力を申し出てくれたロベルトと、彼の息子ミハエル。
自分に使用人の仕事を紹介してくれたメリナ。
仕事のことを教えてくれたラヴィニアやアメリア。
同僚であるミウチャ達や、食事担当の人々に、男性使用人たち。
避難してきたであろう町民にも、顔見知りは多くいるはずだ。
そして、意地が悪くもその心に憂いを秘める主人、エスティラ……。
「……間に合えッ!」
一層強く、踏みしめた屋根を蹴り飛び上がるアデーレ。
瓦が破片となって飛び散り、彼女の顔の横を過ぎていく。
屋敷までは、後もう少しだ。
◇
バルダート家別邸の門前。
そこに着地する人影が一つ。
紅い髪をなびかせたアデーレが、門の先に見える屋敷を睨みつける。
「今のところは、何事もないみたいだね」
肩に担いだアンロックンの言葉に、アデーレはうなずいて答える。
前庭では避難してきた人々が寄り添い、平穏が戻るのを今か今かと待ちわびている。
幸い、近くにヴェスティリアが来たということは、誰も気が付いていないようだ。
「ヴェスティリアの姿で乗り込むのは目立ちすぎる。一旦変身を解こう」
「そうだね」
アデーレが提案に賛成するのを確認したアンロックンが、剣からオーラを放ちアデーレの変身を解く。
午前の作業着を着たアデーレの姿は、一般町民のそれと変わりない。
大きく息を吸い、そして吐き出す。
この先に何が待ち構えているのか、アデーレには知る由もない。
だが、例え危険があろうとも向かわなければならない。
それが、力を持った者の使命だと信じて。
「行こう」
錠前に戻ったアンロックンをポケットに戻し、その場から駆け出すアデーレ。
向かう先は、エスティラの部屋だ。
屋敷の中は、かなり騒然としていた。
できるだけ多くの町民を受け入れるつもりなのだろう、既に屋敷の廊下にも避難民が集まっている。
魔獣の出現によって不安げな表情を見せる人々。
そんな彼らに、使用人たちは声を掛け合いながら歩いて回っている。
疲弊している人には水を渡したりと、屋敷に備蓄している水や食料も配給に回しているようだ。
ここまでしっかりと人々を受け入れているとは。
アデーレが驚きの様相でその様子を見ていると、背後から声を掛けられる。
「アデーレ! 良かった、無事だったんだねっ!!」
アデーレは目を見開く。
とても聞き慣れた、安心する声。
「お父さん……お母さん……」
アデーレが振り返ると、そこには肩を寄せ合って立つ両親の姿があった。
町で買い出し中に巻き込まれたのだろうか。
そういうことを想定はしていたが、いざ二人が巻き込まれたと思うと途端に恐怖心が襲い、同時に無事だったことによる安堵感で全身の力が抜ける感覚を覚える。
しかし、今は喜んでいられる状況ではない。
むしろ、これから起きる事態を考えると、二人はより危険な状況に陥る可能性があるのだ。
「屋敷の人に聞いても、誰も姿を見ていないって言ってたから……ああ、本当に良かった!」
「心配したのよ、本当に……ッ」
二人の腕が、アデーレの身体を強く抱きしめる。
相当の緊張だったのだろう。二人の肌は汗ばみ、手は震えている。
しかしその体は暖かく、アデーレの心を不思議と落ち着かせてくれる。
転生する前は、こんな暖かさを知らないと思っていた。
だが、それは思い違いだ。
引き取ってくれた祖父母は間違いなくこの暖かさで良太を受け入れ、そして傍にいてくれた。
この、必ず守り通さなければならない尊きぬくもりを。
心に宿る、強い意志。
アデーレは心苦しさを覚えつつも、抱きしめる二人を優しく引き離す。
「ごめんね。でも、今は私もやらなきゃいけないことがあるから」
「アデーレ……そう、立派になったわね」
「こんなに凛々しい顔をするようになったんだな。何だかお父さんよりかっこよく見えるよ」
今この瞬間ほど、両親が抱く愛情をアデーレが感じたことはなかった。
そして、姿形は違えども、誰かの為に奔走する姿を、良太の祖父母は喜んでくれるだろうか。
胸に抱く強烈な熱により、背中は汗ばみ、手に汗握る。
同時に、ここで両親に逃げるよう促すことを、激しく躊躇してしまう。
ここにいる避難民、そして屋敷に務める人々。
彼らにも、自分のように愛してくれる人がいるのだろう。
そんな彼らに、一使用人であるアデーレが避難を促しても、より混乱させてしまうだけだ。
アデーレの言葉を受け入れ、素直にここから逃げてくれるのは、両親だけだろう。
「あ、あのね……聞いてほしんだけど」
だが、それはあまりにも自分勝手だ。無責任だ。
自分の家族だけを優先することが、どうしてもできない。
強く目をつむるアデーレ。
ポケットの中のアンロックンも、不思議と緊張しているような気配がする。
「……仕事が終わったら、一緒に家に帰ろう」
ヒーローとしてそれが正しいのかは分からない。
それでも、アデーレは二人に逃げろと言うことが出来なかった。
代わりに、その胸中で戦意が高まる。
――全てを背負い、全ての人を守り切る。
力を持つ者の責任。
力を持つ者の定め。
力を持つ者だけに許される、豪胆。
ポケットの上から、アンロックンに触れる。
今までにない、頼もしい熱が手に伝わってくる。
これが、アデーレ・サウダーテに授けられた力なのだ。
「そうね、一緒に帰りましょう。お母さん、おいしいご飯作ってあげるから」
「お屋敷でのこと、色々聞かせてくれよ。アデーレ」
一回り大きくなったアデーレの姿を、両親は笑顔で見送る。
アデーレはめったに見せることのない、満面の笑みを返した。
両親との再会を果たした後、アデーレは階段を駆け上がり三階へと向かった。
目的地はもちろん、エスティラの私室。
今彼女がいるとしたら、そこ意外考えられなかった。
避難民に開放しているのは一階のみで、二階以上は使用人たちが集まり、上司の指示を仰ぎながら作業を進めていた。
「アデーレさんっ!」
途中、男性使用人たちに指示を出すロベルトに声を掛けられる。
アデーレは慌ててその場で停止し、声のした方を振り返る。
「ロベルトさん、お嬢様は!?」
「自室で待機しております! それよりあなたは何をっ」
「大事な仕事です!!」
アデーレの声が廊下に響く。
その言葉だけで、ロベルトは全てを察したのだろう。
これから、彼女が大きなことを成し遂げなければならないと。
「……お嬢様を頼みましたよ」
「はい。あとできれば、すぐに脱出できるよう屋敷内の方達には前庭にいるよう伝えておいてくださいっ」
「屋敷から脱出? わ、分かりました。善処しましょう」
本当に頼もしい協力者が出来たと、アデーレの顔にも自然と笑顔が浮かぶ。
だが、感動している暇はない。
すぐに
エスティラの部屋へ近づくにつれて、人の姿も少なくなる。
先ほどまでとは打って変わって、その静けさに強い危機感を抱く。
(……魔女がいる。近くに)
確証など一切なく、アデーレの想像に過ぎない。
それでも、この先に重大な戦いが待っていることを察してしまう。
全身の肌を突き刺すような、嫌に冷たい空気。
これが、殺気というものだろうか。
そんなことを考えているうちに、ついにアデーレはエスティラのいる部屋の前へと辿り着く。
汗ばむ額を拭い、荒れた息を整える。
数度の深呼吸をし、胸を撫で下ろしたところで扉を三回ノックする。
「入りなさい」
扉の向こうから、エスティラの落ち着いた声が聞こえる。
どうやら、まだ危害は加えられていないようだ。
「失礼します」
静かにドアノブを回し、ドアを引くアデーレ。
目の前に広がるのは、見慣れたアデーレの仕事場。
そこは、ソファに腰かけるエスティラと、傍らに立つ二人の人物。
メリナとアメリアだ。
「アデーレっ! 一体いつまで仕事してるのよ!」
アデーレの無事な様子を見るや、一瞬で怒りを
それが、心配に対する感情の裏返しに思えた。
「申し訳ございません。少々手間取ってしまいまして……」
「ったく。付き添いとしての自覚を持ちなさいって、何度言わせるつもりよっ」
緊急時とはいえ、相変わらずのエスティラ。
その間に、苦笑を浮かべたメリナが割って入る。
「でも本当、無事でよかったよ」
「すみません。心配をかけてしまって」
「私は心配なんてしてないしっ!」
誰も聞いていないのに、エスティラは大声で否定する。
普段通りなその様子に、アデーレも何とも言えない表情を見せてしまう。
だが、その胸中は決して穏やかなものではなかった。
古くからの知人であるメリナ。
そして、多くの女性使用人から尊敬される家政婦、アメリア。
魔女の正体に関する手掛かりは、一切存在しない。
つまりこの二人が魔女である可能性もまた、決して切り捨てることができないのだ。
当然そんなこと、杞憂であってほしいとアデーレは願っている。
知人を斬らなければならないという、重い使命を避けられるのならば……。
(アデーレ、お嬢様に屋敷の人々の避難を促してもらおう。今はそれしかない)
(避難を……でも、それって魔女に勘繰られるかも知れないんじゃ)
(危険は承知の上だよ。でも、今この敷地で戦闘となると、かなりまずいよ)
アンロックンの言葉はもっともだ。
だが、それを口にするアデーレには、極度の緊張感が襲い来る。
自分の一言で、人々の命を左右することになるかもしれないのだから。
口の中が乾く。
震えそうになる唇を押さえつつ、覚悟を決めてエスティラの方を見る。
「お嬢様。衛兵隊の指揮官様からの報告なのですが」
「彼が? 一体何かしら」
突然上がった名を聞き、落ち着いたエスティラがアデーレの言葉に耳を傾ける。
「はい。現在屋敷に避難民を集めていると伺いましたが、実は問題が発覚したようでして」
「えっ、何よそれ。問題って……」
眉をひそめるエスティラ。
その表情には、明らかな不安が見て取れる。
「それは作戦上の機密だと教えてはいただけませんでした。ですが今は屋敷の先、内陸の方に避難キャンプを用意しているので、町民はそちらへの避難を……と」
無理のある説得だと、アデーレも心の中で呆れてしまう。
しかし、口が上手い方ではない彼女には、これが限度ということだ。
後はアデーレの言葉を、エスティラが信じてくれるかどうかだが……。
「なるほど……分かったわ。彼の言葉なら信じるわ」
これは、アデーレにも予想外だった。
無理ある説得を、エスティラは思案することもなく受け入れた。
これにはさすがに、即決が過ぎると心配に思ってしまうアデーレ。
しかし、エスティラにも一応考えはあるようで……。
「もしかしたら、ヴェスティリアの提案もあったのかも知れないわっ」
どうしてそうなると、アデーレは天井を見上げる。
だがすべてが的外れではない。実際ここにヴェスティリアの正体がいるわけだし、まさしく彼女の提案だ。
「お嬢様。さすがにそのような判断は短絡的すぎます」
「スィニョーラ……まぁ、確かにその通り、ですよね」
が、同席する二人はエスティラの発言に疑問を抱く。
当然だ。これが普通の反応であり、人々の命がかかっている以上、もっと慎重に考えなければいけない事案だ。
だが、アデーレは異様な胸騒ぎを覚えていた。
この提案をエスティラが承諾すること。
それは、魔女の計画にとって明らかな障害となる。
もしも魔女が潜伏し、そしてエスティラに意見できるとすれば、今の提案に異議を唱えるのは魔女の行動としても正しい。
メリナとアメリア……その二人が今、提案に対し異議を唱えている。
「そうは言っても、向こうにキャンプが用意してあるなら、皆により多く食料や水を提供できるでしょう?」
「いえ、キャンプと言っても急ごしらえでしょう。その場合、屋敷にある備蓄品を提供するほうが町民の助けになります」
「じゃあ、キャンプの方にうちの備蓄を提供すればいいじゃない。アデーレ、既に向こうに避難している人もいるんでしょう?」
「はい」と、エスティラの問いに答えるアデーレ。
そんな彼女を横目に見る、アメリアとメリナ。
二人の本心が、どうしても読めない。
いや、読むことを恐れているのだ。
「ほらっ。それなら裏門から移動して、一緒に荷物を運べばいいじゃない」
「ですが……」
「それに、避難している町民にも運ぶのを手伝ってもらえば、キャンプの方もすぐに立派なものになるわよ。それくらいなら皆協力してくれるでしょう?」
どんどん言葉を続けるエスティラを前に、二人は困った表情を見せる。
そして、腕を組み首をかしげていたメリナが……。
「んー……まぁ、キャンプに衛兵さんがいるなら、安全といえばそうですよね」
「そうそうっ。この島の衛兵はヴェスティリアの良さを分かってる有能揃いよっ」
「そこでヴェスティリアさんは関係ないと思いますけど……でも、お嬢様が信頼しているのでしたら」
相変わらずの無茶振りに、困った表情で笑うメリナ。
そんな彼女を、アデーレは別の思いで見つめていた。
(メリナさんは……魔女じゃ、ない?)
魔女であることを否定する確固たる証拠はなくとも、メリナの言葉はその可能性をわずかながらもアデーレに与えた。
それが警戒を解いていいという絶対的な安心には繋がらない。
だが少なくとも、魔女の計画に反する提案に、彼女は一定の理解を示している。
そして、未だに理解を示していないのは……。
「ふむ……お嬢様は、どうしてもその提案を飲むとおっしゃるのですね」
相変わらず、感情の読み取れない顔でエスティラを見つめるアメリア。
それが、彼女のプロフェッショナルとしての威厳に繋がっていると言える。
だが今は、そんな表情がとてつもなく恐ろしかった。
何を考えているのかが、全く分からない。
そう、まるで……。
「そうですか……なるほど。そういう……ヴェスティリア、ヴェスティリア…………」
――その生気のなさは、まるで人形のような。
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