5-2【アデーレの長い一日】
どんなに恐ろしい出来事が起きようとも、夜は空けて朝が来る。
バルダート家に仕える使用人たちの朝は早い。
五時には起床し、各々が用意した午前用の作業着に袖を通し、早朝の仕事へと赴く。
同じく起床したアデーレも、母に繕ってもらった木綿のワンピースに着替え、腰にエプロンを巻く。
身だしなみを整えるため、共用の全身鏡の前に立つ。
鏡に映るアデーレの顔には、疲れの色がはっきりと浮かんでいた。
昨晩、ロベルトとの情報共有を終えた後に就寝したアデーレだったが、とてもじゃないが寝付けるような精神状態ではなかった。
自分が休んでいる間にも、魔女はエスティラに魔の手を伸ばそうとしている。
そう考えてしまうと、眠気が勝手に覚めてしまうのだ。
だが、今のアデーレはあくまで使用人だ。
体力仕事の上、魔女の襲来にも備えておかなければならない。
自分に言い聞かせ、無理やりにでも眠りにつくことは出来た。
しかしそんな状態で、良い睡眠がとれるはずもない。
「……酷い顔」
今のアデーレを、周囲の者達は昨日の事件で参っているのだと考えた。
皆が気遣いの言葉をかけた。休んだとしてもお嬢様は分かってくれると。
その言葉は純粋にうれしかった。
しかし休むことは出来ない。力を持つ者として、今が正念場なのだから。
張り詰める精神を深呼吸で落ち着かせ、両手で頬をはたく。
しびれるような痛みが頬に伝わり、振動が脳を揺らす。
「いった……」
強く叩きすぎたと、後悔の念を顔に浮かべる。
だがおかげで、少しだけ表情がほぐれた気がする。
今のアデーレはあくまで使用人だ。
エスティラに何と言われようとも、自分なりに愛想よくふるまっているつもりなのだ。
時刻は午前七時半を過ぎた辺り。
アデーレはエスティラの私室から交換したシーツを持ち出し、洗濯場へと運んでいる最中だった。
使用人たちの朝食の時間は午後八時。
起床から働き詰めなアデーレの空腹は、限界に達しようとしている。
そんな彼女の後ろを小柄な使用人が一人、エスティラの召し物が入った籠を抱えてついて来ていた。
昨日アデーレが助けた、見習いの使用人である。
「私も新人なんだし、もっと参考になる人について行った方がいいと思うんだけど」
「でも、アデーレさんに助けてもらった分、何かお手伝いがしたくて」
「そう……失敗しても笑わないでね、ミウチャ」
「はいっ」
ミウチャと呼ばれた少女が、はきはきとした声で返事をする。
実際はアデーレも、彼女と同じく見習いの立場である。
そんな彼女が令嬢の身の回りの世話を行うというのは例外中の例外。
更に他の見習いが補佐を行うなどというのは、早々あり得ないことだ。
当然これは特例であり、ミウチャの気持ちを汲んだロベルトの温情である。
とはいえ、ミウチャは仕事に真摯に取り組むし、その分飲み込みも早い。
使用人見習いは、長く続けられる者が少ない過酷な仕事だ。
しかし、ミウチャならばいずれは使用人としてより高い立場に立つことも出来るだろう。
(私の方が追い抜かれそうなんだよなぁ)
そんなことを思い、眉をひそめるアデーレ。
アデーレの気持ちを知らぬミウチャは、相変わらずアデーレを尊敬のまなざしで見上げている。
「ところで、あれから体の方は大丈夫?」
話題を変えようと、アデーレは前を向き、歩きながら訪ねる。
医者の診察や、皆にばれぬようアンロックンによる観察も行い、洗脳魔法による後遺症がないことは確認できている。
しかし、今は特に注意すべき時だ。
アデーレはどうしてもミウチャのことを気にかけてしまうのだった。
「はい。お医者様が出してくれた薬のおかげで、よく眠れました」
「なるほど……」
自分もその薬を処方してもらえばよかったと、羨ましく思うアデーレ。
事実、今のミウチャは昨日の
今ならば、昨日のことをある程度は質問できるかもしれない。
「ミウチャ。昨日意識が失う前、何を見たかとか覚えてる?」
「ああ、えっと……少しは思い出せた、かも」
「本当? 何があったの?」
彼女が目の当たりにしたものは、魔女の行動に関する手掛かりになるかもしれない。
アデーレははやる気持ちを抑え、歩きながらも横目でミウチャの様子を伺う。
「昨日の夕方は……確か、二階の廊下でお掃除を終わらせて、一階に戻るところで――」
仕事を終え、階段を下りていたミウチャ。
ふと窓の向こうに見える中庭を見たとき、東屋の辺りに奇妙な人物がいることに気が付いた。
姿はよく見えない……というよりは、人影がそのまま形となったような人物。
手には長い棒のようなものを持っていたため、最初はそれを清掃中の庭師だと思ったそうだ。
しかし、庭仕事をするには時間が遅すぎる。
ミウチャはその人物が気になってしまい、何者かを確認しようと観察し始めた。
その時、人影が頭を上げるような動作を見せる。
人影に顔のパーツらしきものは確認できなかったが、それでもミウチャはその人物と目が合ったような感覚を覚えたという。
(あの子が覚えているのは、そこまでみたい)
ポケットの中に納まるアンロックンに対し、脳内で語り掛けるアデーレ。
朝食を終え、使用人たちが各々の仕事へ戻っていく頃。
同じく朝食を食べ終えたアデーレは、ロベルトの許しを得て中庭へと来ていた。
この時間、庭師たちは前庭に赴いており、中庭に人の姿はない。
つまり、事件の後から今まで、ここに庭師たちの手は入っていない。
ミウチャが見た影が中庭で何をしていたのか、調査するにはちょうどいい。
(一見、不審な場所は見当たらないけどね)
周囲を見渡すアデーレに対し、アンロックンが語り掛けてくる。
どうやら、アデーレの視界を通して周囲の状況を把握することができるらしい。
プライバシーに配慮がない能力だが、正体を隠して調査をするには役に立つ。
さて、確かにアンロックンの言う通りである。
夏の花が咲き、朝日に照らされる中庭は美しく、あのおぞましい魔女の痕跡などどこにも見当たらない。
しかし、ミウチャの証言通りならば、魔女はここで何かをしていた可能性がある。
「……地道に調べていくしかないね」
腰に手を当て、小声でつぶやくアデーレ。
広さは良太が通っていた高校の体育館と同じくらいか、それより少し広い。
これだから貴族の屋敷は困ると、浅いため息をつく。
(とりあえず、東屋の方から調べてみよう)
(うん)
アンロックンに促され、一人東屋の方へ向かう。
東屋の天井や柱。
更には床や短い階段を眺めるも、細工がされた形跡は伺えない。
何の異常もない、ただの東屋にしか見えなかった。
(見当違いなのかな……)
アンロックンに尋ねるように、頭の中でぼやく。
しかし答えは返ってこない。
というよりは、何か考え事をしているかのように押し黙っている。
アデーレはため息を漏らし、東屋から周辺の生垣に目を向ける。
生垣ならば、人目に付かない場所に何かを仕込むには適しているはずだ。
東屋の短い階段を降り、中庭の通路へ降り立つアデーレ。
早速しゃがみ込み、生垣の下を覗き込んでみた。
ごく一般的な働きアリの群れが、捕らえた芋虫を運んでいる最中だった。
「……ああ、もう」
あまりにも収穫がなく、声を上げる。
だが、ここで挫けているわけにもいかない。
アデーレは膝をつき、土下座の姿勢になりながら更に下を覗き込む。
生垣の幹と土。それらに混ざって小石や昆虫。
そんなものばかりが目に付く。
(待った)
その時、頭の中にアンロックンの声が響く。
(どうしたの?)
(いや、この辺りなんだけど……妙な気配がするな)
アデーレの視界から違和感を察知したのか。
しかし、彼女にはただの地面しか確認できない。
(ちょっと僕を出して、前にかざしてくれないかな?)
(前にかざす……こう?)
言われるがままにポケットからアンロックンを取り出し、顔の前にかざす。
(そうそう。そのままで…………)
しばらくの沈黙。
硬い石畳の上に長い時間膝をついていると、徐々に痛みが伝わってくる。
それを誤魔化すように、アデーレは少しずつ姿勢を変えながらアンロックンの反応を待つ。
(……分かった)
ついに期待した反応が、アンロックンから帰ってきた。
(アデーレ、状況はかなり深刻だよ。この庭は危険だ)
が、その答えはアデーレの想像以上にまずいようだ。
事態の深刻さを理解したアデーレは、険しい表情を浮かべながら立ち上がる。
スカートに付いた土やごみを払いながら、アンロックンを再びポケットに収める。
(危険って、どういうことなの?)
落ち着いたところで、改めてアンロックンに問いかける。
(んー……まずはここが、魔獣召喚の儀式に使われている可能性がある)
その言葉に、アデーレはわずかな立ち眩みを覚えた。
しかし、そのような儀式の形跡はどこにも見当たらない。
(儀式って……それ、どういうことなの?)
(うん。この庭のいたるところに、不可視の陣が張られている気配がするんだよ)
(不可視の陣?)
聞き慣れぬ名前に、アデーレが首をかしげる。
(君に分かりやすく言うならば、魔法陣っていうのは聞いたことあるかな?)
(それくらいなら分かるけど。不可視ってことは見えない魔法陣ってこと?)
(半分は正解。だけど魔法陣は不可視と言えども隠れて使うには都合が悪いんだ)
アデーレの脳内に、魔女が杖で地面に魔法陣を描く様が思い浮かぶ。
確かに陣を隠しておいても、気付かれないうちに踏まれ、消えてしまう可能性がある。
そうなれば必ず不都合があるはずだ。
(不可視の陣は最近の魔法使いがよく使う方法でね。魔法陣を省略したものを小さな紙に描いて、それを地面に貼っておくんだよ)
その説明を受け、お札を思い浮かべるアデーレ。
それなら使い勝手は良いだろう。
(じゃあ、それを見つけて剥がせば、魔女の計画を邪魔できるってこと?)
(そうなんだけど、そう都合よくはいかないんだ)
どういうことなのかと、アデーレが首をかしげる。
(まず、不可視にする術は防護の意味合いも持っててね。触れられないようにできてる)
(なるほど……じゃあ、その不可視にしている魔術を解けないの?)
(低級のものならなんとか。でもこの辺りに敷かれているのは、高位の
神威。つまり神の威光であり、格を現すものだ。
(って、それならロックン何とかできるんじゃないの? ヴェスタってすごい神様な訳だし)
(簡単に言ってくれるね……。残念ながら、この魔術が持つ神威は僕達とは異なる神のものだ)
それはどういうことか。そう尋ねようと思った時に、ふと思い出す。
アデーレ達が追う魔女は、暗黒大陸から来た存在だ。
つまり、西方主教が広まるシシリューアや周辺諸国とは、全く違う宗教観があってもおかしくない。
(……暗黒大陸で信仰されている別の神の力だから、手が出せないの?)
(すごいねアデーレ。その通りだよ)
(当たっても嬉しくないけど。まぁ、ありがと)
(そう言わないで。とりあえずアデーレの言う通りで、僕らが属する神々と暗黒大陸で信仰される神々は別種の存在で、神威も全く異なるんだ)
ため息をつくアデーレをよそに、アンロックンは説明を続ける。
(この世界は、神が集まって神域を生み出し、その地に住む者と関係を持つんだ)
(神域……ああ、西方主教が伝わってる地域とか、そういうこと?)
(正解。ちなみにロントゥーサ島やシシリューア島は、南に少し船を進めれば暗黒大陸に辿り着くんだけど)
(じゃあ、ここは西方主教の神域と、暗黒大陸の神域の境目なんだ)
その通りと、ポケットの中のアンロックンが頷くように動く。
それに対するくすぐったさは、話の内容のせいで気にする暇がなかった。
(話を戻すけど、そういう訳で僕でもこの魔術に干渉するには、ちゃんと神として顕現する必要があるくらい難しいものなんだ)
顕現。つまりここに、火竜ヴェスタを出現させるという訳だ。
そんなことができるはずもない。それくらいは説明がなくとも想像がつく。
しかし、そうなるとここ一帯の陣を解除する術がない。
これではいくら調べようとも、魔女を阻止することなど出来ず仕舞いだ。
(ちなみに、この辺りに用意された陣の正体は分かるの?)
(そうだね。多分送り陣……召喚した魔獣を、任意の場所に送り付けるものだよ)
つまり、魔女はこの場所で魔獣を召喚し、各地に送り込んでいた可能性があるという訳だ。
だが魔獣には巨大な者が多い。
召喚と言ってもそれ自体は目立たないもので、周囲からは気付かれないように行われていただろう。
そこまで考えたところで、アデーレの中で最悪の想像が頭に浮かぶ。
この場所で隠れて魔獣を召喚し、そしてロントゥーサ島の各地へ送り込む。
この場所……バルダート家の関係者しか入ることが許されない、屋敷の中庭でだ。
(ああ、ロックン。私の考えは間違ってるって言ってよ)
アンロックンは答えない。
この沈黙はすなわち、肯定の意。
既にアンロックンも、アデーレと同じことを考えていたようだ。
(……魔女は、最初からこの屋敷に潜り込んでいる)
自分以外の者から、その言葉を聞きたくはなかった。
どこにいるかもわからぬ魔女は、最も身近な場所に潜んでいたのだ。
厳しい人もいれば、優しい人もいる。友人と呼べる者も出来たし、尊敬できる人だっている。
そして何より、貴族の屋敷という過酷な印象とは裏腹に、ここには思いやりというものがあった。
そんな人達の中に、人の尊厳を踏みにじるような悪魔が潜り込んでいるなどと、アデーレは考えたくもなかった。
強いめまいのようなものを覚え、アデーレが右手で目元を覆う。
その時、寝不足のせいでふらついた体が、生垣の方に倒れ込む。
(アデーレ!!)
脳内にアンロックンの声が響く。
同時に、先ほどまで一切聞こえてなかった風切り音が、大音量で耳を突く。
全身に、着衣すら吹き飛ばしそうな強烈な風を感じる。
「……は?」
右手を顔から離し、目の前の光景を確認する。
まず、空が先ほどよりも近く感じる。
そして体は重力により下へ引っ張られ……つまり落ちている。
振り向けば、眼下にロントゥーサ島。
島の全景が一望でき、港町も随分小さく見える。
眠気による体のだるさが一気に吹き飛んだ。
(送り陣だ! あれが発動して、島の上空に転送されたんだよ!!)
「はぁーっ!!??」
目を見開き、絶叫した。
ロントゥーサ島の上空数百メートル。
アデーレは今、この世界で最も高い場所から落下した人類となったのだった。
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