2-2【バルダート家のメイドさん】

 その日の夜……。


「えっ、ドゥラン様のところへご奉公に行くの?」


 ランプの明かりに照らされたダイニングで、家族と夕食を囲んでいたアデーレ。

 向かい側に座る両親との話題は、昼間のメリナと交わしたやり取りだ。


 真っ先に反応したのは、母サンドラ。

 アデーレは母親似であり、特に青交じりの黒髪はサンドラ譲りである。


「やってみないかって誘われただけだから。六年前のことはあるけど……」


 六年前のことは、島の者なら誰でも知っている。


 大貴族、【バルダート家】の一人娘に楯突いた農家の娘。

 そのことで忌諱きいされるなどといったことはなかったが、良くも悪くも度胸がある子だと一目置かれることとなった。


 あの頃は、バルダート家がどういった家柄なのかもわからず口を挟んでしまった。

 お嬢様ことエスティラの父、ドゥラン執政官。

 執政官とは、ここシシリューア共和国における国家元首なのだ。

 後にそのことを知ったアデーレ……というより良太は、いよいよ国のトップの娘に口出ししてしまったのかと、色々な意味で自分に感心してしまったものだ。


 だが、後悔はしていないし、自分が悪いことをしたという認識もない。

 何よりメリナと知り合えることも出来たのだ。今ではいい思い出だろう。


「父さんは悪くないと思うよ。数年働けば、転職の際の紹介状も書いてもらえるらしいじゃないか」

「そうは言ってもあなた、もしもエスティラお嬢様に目を付けられでもしたら」

「なぁに、あのドゥラン様のご息女だ。六年も前のことを根に持つようなことはないよ」


 手にしていたスプーンを皿に置き、アデーレの顔色をうかがうサンドラ。

 楽観的なヴェネリオに対し、やはりサンドラは娘の身を案じているようだ。


「メリナさんは、一般の使用人がお嬢様に会う事はめったにないって」

「そうかもしれないけれど……やっぱり心配だわ」


 サンドラのため息が、耳に残る。


「まぁまぁ。それで、アデーレはどう考えているんだい?」

「私は……一度屋敷に行ってみようと思う」


 「そうか」とつぶやき、ヴェネリオが姿勢を改める。

 アデーレの言葉を聞いたサンドラは、相変わらず不安げに娘の顔を見つめている。


「ドゥラン様のお屋敷の使用人だ。雇われるにしても外見や能力で厳しく判断されるはずだよ」

「うん」

「でも父さんは、アデーレなら必ず雇われると信じているよ。何せ父さんと母さんの娘なんだから!」


 ヴェネリオの自信は、一体どこから湧いてくるものなのか。

 いや、ただ単に子煩悩を極めているだけだろう。


 しかし、容姿に関しては誘ってきたメリナのお墨付きのようなところもある。

 そういったことがあるため、アデーレ自身も使用人として雇われるかどうかについてはそれほど不安はなかった。


(自分でもこんな自信家だったとは、ちょっと驚くな)


 そんなことを内心思うほどだ。

 と、ここでうつむき気味だったサンドラが顔を上げる。


「分かったわ、あなたがそう決めたのなら」


 伸ばされたサンドラの手が、テーブルの上にあったアデーレの手に重ねられる。


「でも、危ないと思ったらいつでもお母さんに相談してね。絶対よ?」


 ――アデーレは、本当に両親に愛されている。


 それが心地よくも、気恥ずかしい。

 佐伯 良太としての一面が、そう感じてしまうのだろうか。

 だが、触れ合っているこの瞬間こそが、それ以上に羨ましいとも思ってしまうのだ。


 生まれ変わった自身の幸せだというのに……。


「うん。ありがとう、お母さん。お父さん」


 無償の愛を注いでくれる両親に、感謝の言葉を告げるアデーレ。

 その表情は、かすかに微笑みを浮かべていた。




 普通、何事にも段取りというものがあるはずだ。

 就職なら面接とか、掃除ならばまずは上からとか。

 だが、自らが置かれた現状に、アデーレは困惑していた。


 アデーレは、生まれて初めて貴族の屋敷へ足を踏み入れることとなった。

 まず大きな格子門の先には、ロントゥーサでは珍しい芝生の敷かれた広い前庭が広がっていた。

 前庭を中央から貫くように敷かれた白い道の先には、大きな両開きのドアを有する三階建ての屋敷が待ち構えている。


(どれだけ広いんだ……)


 思わず心の中でつぶやくアデーレ。

 本日の彼女の格好は、作業に適した物が良いという母の提案から、木綿の青いワンピースだ。

 とはいえ、決して裕福ではない家だ。他の服装もこれと大した差はないのだが。


「アデーレ、どうしたの? ほら付いてきて」


 アデーレの前を歩くのは、ピンク色のワンピースに、白いキャップとエプロンを纏ったメリナだ。

 現代日本の記憶を持つアデーレからすると、彼女の格好は自分が知るメイド服というものからは逸脱している。

 だが、母やメリナの話を聞いてみると、午前中はこういった作業のしやすい服装が基本らしい。


「それにしても、アデーレが来てくれて本当に助かるよー」


 そう言うメリナの笑顔には、明らかに疲れの色が伺える。

 屋敷の方を見ても、数名の使用人が掃除道具や籠を持って屋敷前をせわしなく移動しているようだ。


「随分と忙しそう」

「急にお嬢様が住むってなっちゃったからね。三日前からずっとこんな感じだよ」

「うわ……」


 つまり、お嬢様を迎え入れるための準備が完璧ではなかったということだ。

 なのに昨日の段階で既に屋敷入りしているという。

 これは、なかなかにハードな状況と言わざるを得ないだろう。


「とりあえず、今日一日は私と一緒にいてね。仕事覚えてもらうから」

「え? ちょっ、こういうのってまずは責任者の人とかに会って色々……」

「今は特例っ。その辺は私の判断でいいってことになってるから」


 いつもせわしないお姉さんというのが、アデーレが抱くメリナの印象だ。

 しかしどうやら、バルダート家の使用人としてはそれなりの立場にあったらしい。

 使用人としてのキャリアを重ねてきた賜物なのだろう。


「難しいことはしなくていいから。とにかく今は私の手伝い、お願いねっ」


 疲れが見え隠れする笑顔を見せるメリナ。

 そんな彼女を前にして、もはや段取りがどうとか言うのは野暮だと、アデーレは言葉を飲み込んだ。




 三階建ての屋敷というのは、ロントゥーサ島では灯台に次いで高い建物だ。

 だがそれ以上に、バルダート別邸は敷地が広い。とにかく広い。

 吹き抜けのエントランス。床一面に敷かれたワインレッドのカーペット。

 白を基調とした美しい内装は、慣れないアデーレには眩しく映る。


「アデーレっ、手が止まってるよ!」


 窓ふき用の布を手にしたアデーレを、メリナが顔を向けずに叱責する。


 アデーレは今、廊下の窓の乾拭きをメリナと共に進めていた。

 しかし、ここは貴族の屋敷だ。自宅の窓を綺麗にするのとはわけが違う。

 とにかく長く伸びる廊下には、前庭が伺える窓が整然と並んでいる。

 枚数は軽く二十は超えるだろうか。この全てを使用人たちで綺麗にしていかないといけないのだ。


 使用人たち……とはいうが、この場にいるのはアデーレとメリナ。

 それと、廊下の反対側から作業を進める二人の使用人だけだ。


「メリナさん……これ、いつ終わるんですか?」

「いつなんて考えないっ」


 隣の窓を拭くメリナの手際は、恐ろしい程に良い。

 腕を一杯に伸ばして、上から下に向けて窓を磨き上げていく。

 その手は角のわずかな汚れ一つ見逃さず、ペースもアデーレの倍ほどの速さだ。


 アデーレが一枚の窓を終わらせる頃には、メリナは三枚目の窓に取り掛かっていた。


「今日のうちに三階までの窓終わらせなきゃいけないんだから、余計な事考えてる暇ないよっ」


 「ああ……」と、アデーレは思わず落胆の声を漏らす。

 当然だ。この上階には、現在受け持ってるのと同じ長さの廊下があるはずなのだから。


 使用人控室に通されたと思えば、そのまま掃除用具を持たされ、こうして掃除をさせられているアデーレ。

 その顔には、間違いなく使用人の仕事を舐めていたことによる後悔の念が浮かんでいた。


 ふと、頭の中に母サンドラの顔が思い浮かぶ。


『危ないと思ったら、いつでもお母さんに相談してね』


 今は、そんな母の優しい言葉が恋しく思う。

 一般家庭の家事など基礎の基礎。いつも通りが通用しない、屋敷の掃除。


 今はただ、不作をもたらした天候に対し、恨み言を念じることしかできなかった。

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