第11話 近くて遠い旅人

 当たり前かもしれないけど、その日は朝から猛烈に忙しかった。

 事前にメイクとヘアアレンジをしてくれる美容院は予約してあったし、レンタルしたドレスだって先に渡してある。式の後にパーティーをするのは海の近くのレストランで、午後は貸し切りにしたからそっちも問題ない。

 だから当日は予定通り、身支度を整えて教会で式を挙げるくらいだと思っていた。

 そう思っていたのに、これは全然予想通りじゃない。

 これってやっぱり、披露宴を取り仕切るプロを通してないからなのかな……今日は私が主役なのに、全部私がわかってて全部やらなきゃならない。

「佐々木さーん、イヤリング見つかった?」

 ばたばたと駆けてきたっぽい同僚が、床にはいつくばる私に声掛けた。

「わかんないー、ドレスが広がっちゃうから」

「ちょっと、あんたが探してどうするの! 立って、汚れたら困る!」

 腕を取って立ち上がらせられる。

 それは確かにそうなんだけど。

「もー、セリちゃんが探してくれてると思ったのにー」

 同僚の友達はそう言って床にはいつくばった。

 そう言えばちょっと前まで居たはずなのに、美容師さんに囲まれている間にいなくなってしまった。

 今日は朝からセリとちゃんと話してない気がする。

「セリ、外に居なかったの?」

「見かけてないよ。あの娘も着替えなきゃなんじゃない?」

 そうだ。さっきのセリはいつもの外出服だった。ちゃんと式の時に着る服を用意してきたのに。それってもう一度部屋に帰らないとならないって事じゃない。

「ねぇ、セリ探してもらえないかな? 着替えはマンションに用意してあったんだけど」

「だったら持ってきてるんじゃない? 式の後の着替えもここなんでしょ?」

 いや、みんな全然セリをわかってない。

 普通だったらそうだろうけど、セリのよそ行きは目的地のための外出着なのだ。つまり今着ていないという事は、セリの行き先は教会の式じゃない。

 それってここへ私を見に来るのが目的だったから? だったらいいけど、ドレスの私が見たいのだったら教会でも見られるのだ。

 どうしよう、不安になってきた。

「きれい」

 ドレス姿の私を見て、セリが言った言葉。

 その時セリは、私の見たことのない表情をしたのだ。一瞬だったけど、眩しそうに目を細めて、笑っているのに泣いているように見えた。

 私は胸が苦しくなって声をかけようとしたら、もういつものセリに戻っていた。唐突に床に座り込むと、ドレスのスカートのレースが何枚重ねか数えはじめたのだ。

「えーちょっと、きれいなのはドレスだけ?」

「あーわかんなくなっちゃったじゃーん」

 セリはまた最初から五枚数えると、私に持っててと渡してきた。スカートのレースをつまんだまま顔を上げると、みんなちょっと驚いていたけど結局面白そうに笑った。

「それ数えてたら式が終わっちゃうよ」

 みんなが笑ってたから、気のせいかと思って流してしまった。

 セリがいない。

 まだ……ちゃんと伝えてないのに。

 同僚は「あった!」と嬉しそうな声を上げて立ち上がる。それから私の顔を見て、ちょっとだけ困ったような顔をした。やだ、顔に出てたかな。

「セリちゃん、ピッチとか持ってないの?」

「そういうのは全然」

 セツくんに勧められた時も、いらないの一言で終わってたっけ。家の電話だって出なかったのに、常に持ち歩くなんて絶対してくれなさそう。

「じゃ、家にかけてみなよ。戻ってるなら出るでしょ」

 私は手のひらでイヤリングを受け取った。華奢な白い花の付いたイヤリング。私は黙って頷いた。

「タクシー、もうちょっとで来るみたいだから。そしたら後でね」

 同僚はやっぱりばたばたと部屋を出て行った。

 そっと鏡に向き直って座る。

 もう一度手の中のイヤリングを見た。もう、こんな大事な日に、どこ行っちゃったのよ。それから小さくため息をついた。

 大事な日、だけど、それは私にとって大事な日であって、セリにとってはただの行事のある日でしかないのかもしれない。

 私は今日ケイさんと結婚して、それからケイさんと一緒に住むことになる。

 荷物はもう引っ越してある。結局近いから、必要になったら移動すればいいって事になって全部は移してない。それでも何となく、私の荷物の減ったセリの部屋は、やけに広く感じた。

 セリは明日から、あの寂しい部屋で暮らすのだ。

 急に胸が苦しくなった。

 セリにきちんと伝えられてない。セリのために結婚するんだって、セリがあのままでいられるように、セリを守るための結婚なんだって。何度も言おうと思ったのに、その度に上手く言葉にできなかった。どうしてなんだろう。

――― 私が何を想っていても、あの部屋から出るのは私。

「!!」

 私は唐突に、あの寂しく広い部屋を思い出した。

 私の物の減った部屋は、

 あの居心地のいいセリの部屋を、寂しさで塗り替えたのは私。

 上手く言葉にできなかったのは、理由が何であれ結果が同じだからなんだ。

 セリを一人にしたくなかったのに、セリを一人にするのは私。

 でも、ケイさんと結婚したってセリのところには行くし、ご飯だって作りに行くつもり。

 それなら、減った物を違う物で埋める事はできるよね? 今までみたいに一緒に住んではいないけど、一緒に年を重ねていく事はできるよね?

「リノちゃん?」

 顔を上げると、ケイさんが軽くノックして部屋に入って来た。

 ケイさんもすでに着替えていて、少しアイボリーっぽい柔らかなオフホワイトのモーニングコート姿だった。普段から結構かちっとした服装だけど、これだけきちんとした礼服を着るとまた印象が変わる。すらりと着こなした長身の彼は、紳士然としていた。

「どうしたの?」

 私はあわてて首を振った。

「ううん、なんでもない」

 ケイさんはそれからそっと私の隣の椅子に腰掛けると、私が強く握っていた手に触れた。白い花のイヤリング。

「貸して」

 私はイヤリングを渡して、ケイさんが着けてくれるのを視線を外して待った。

 そっと鏡越しにケイさんの動作を見る。きちんと着けて、満足そうに少し笑った。その笑顔に、少しだけドキッとした。

「さっきお友達がイヤリングが飛んでっちゃったって騒いでたのが聞こえたよ。見つかってよかった」

「お騒がせしました」

 私たちは顔を見合わせて笑った。

 別にイヤリングが無くても結婚式はできると思うけど、何となく用意した計画通りに進められないと全部ダメになっちゃう気がしちゃうのはわかる。

「本当は僕がここに来ちゃダメみたいだよね。式の前に新婦に会うのは良くないとかで」

「あ、何か友達もそんな事言ってた。でも私キリスト教徒でもないのに、教会で式を挙げようとしてるし」

「だよね。あんまりそう言うのにこだわりすぎると、逆に良くなさそう」

 ケイさんはリラックスするように息をついて肩を落とした。

 よかった、こういうところが同じ考えで。

「ケイさん、セリ見かけませんでした?」

「セリちゃん? いや、見かけなかったけど。来てないの?」

 来てたはずなのに見失ったんです。もう、ホントにどこ行っちゃったんだろう。

 ケイさんは少しだけ顔を上げて部屋の扉の方を見ていた。私はその横顔を盗み見た。

「……一つ、聞いてもいいかな」

「はい」

 ケイさんは言いにくい事を口に出そうとしてるみたいに一瞬苦い顔をした。でもそれを隠すように普通の表情に戻した。

「前に、セリちゃんが言ってたんだけど」

 ケイさんは努めてさりげなく言った。セリが?

「セリちゃんって……病気なんだって」

――― ああ……

 それは単なる悪口だ。彼女は病院に行ってた事もないし、普段の生活に困るような障害もない。病気というのは心ない人たちに言われた悪口だ。

 主に、セリのお母さんとか。

「それ、嘘なの」

「嘘?」

「うん、セリってクラスで浮いちゃうタイプでしょ? その上セリ自身そういうのまったく気にしないから、周りにそう言われてたんだって。もうずっとそんな感じだったから、それでセリ、自分は病気で普通と違うって思ってるの」

 おばさんは事あるごとに、あの娘はちょっと病気なのよと軽く言っていた。いくら付き合いが長いとは言え私にもあんな風に言えるんだ、きっとセリはずっとそう言われていたに違いない。それはちょっと難しいセリのことを、私に説明するように。まるでそれが免罪符のように。

 そんな言葉無くても、私はセリを離したりしないのに。

「……そうなんだ」

 ケイさんは小さく呟いた。普通な彼は、なんだかすっきりして見えた。

 普通って何だろう。

 私が同性のセリを愛しているのも、普通じゃない。普通じゃないとされているから、私はこうやってケイさんと結婚するのだ。

 普通に見えるように。

 普通で隠して、普通じゃなくてもセリを愛せるように。

 でもそれは、セリのことを普通じゃないって言ってた人たちと、どこが違うんだろう。

 セリの事を病気と言ってしまうセリのお母さんと、私は同じなんじゃないか。

 普通じゃない事は、普通で隠さなければ普通でいられなくなると思ってる。普通でいなきゃ、普通の世界では生きにくい。私はセリのように、自分のままで暮らせない。

 いや、私はセリになりたいんじゃない。自分のままって言ったって、あんな風に人目を気にせず無邪気に振る舞ったりはしないだろう。

 でもそれは、普通で隠してしまったから、もう本当の自分がわからないのかもしれない。

 私の本当は、どこにあるんだろう。

「何か……ちょっと安心した」

 安堵したような、少し笑みを含んだ声に、私は顔を上げた。

「僕がリノちゃんを奪ってしまって、セリちゃんに何かあったらって思ってたんだ」

「だ、大丈夫です! それにあの、結婚してからも見に行くつもりだし……見に行っても、いいですよね?」

「もちろん」

 ケイさんはにっこり笑って頷いた。

 私が安心して頷き返した時、美容師さんがタクシーが来た事を告げた。




 ベッドに並べられた服を、俺は眺めた。

 リノが用意した服は、きちんとした白いシャツに赤いチェック柄のリボンタイ、黒い膝丈のズボンだった。黒い靴下もある。それに赤いジャケット。

 これは俺がイギリスで買った古着で、黒い革の肘当てが付いてる。ポートベローのマーケットは、時間をかけて探せば安くて面白い古着が見つかる。カムデンもいいけど、あっちはもっと普通の古着が多い。

 赤いジャケットは、お気に入りだ。リノはそういうのも考えてくれる。

 リノは俺に、結婚式に出てほしいと言った。ルームメイトが結婚式に出なかったら、何かあるっぽいでしょ。そう言って伺うように俺を見た。

 俺は別に、どっちでもよかった。でもリノがそう言うなら、俺は結婚式に行かなきゃならない。

 朝からリノはやたらと忙しそうで、俺はあわてるリノをぼんやり見ていた。

 リノは慌ただしく俺にキスをして、あとでねと頬を撫でて出て行った。俺は別にすることもないから、散歩して、それからリノがドレスを着るところを見に行った。

 真っ白いドレスを着たリノは、きれいだった。

――― それはケイと結婚するから?

 でもケイは、俺が好きだと言った。そして、それでもリノと結婚すると。

 リノは俺が好きだと言った。ケイのことだって好きになってるけど、それでもリノは、俺が好きだと言っていた。

 俺だって、ケイと結婚したってリノをずっと愛してる。それは変わらない。変えられない。

 リノとケイ。

 これはマグリットだ。恋人たち。お互いに頬を寄せ合っているのに、頭からすっぽり被った白い布が、邪魔をしている。口付けていても、その唇は触れていない。

 恋人たちはその布を、取り去りたいんだろうか。それとも、そのままでいたいんだろうか。

 見えていない相手を愛する恋人は、見えないことを愛しているようにも思える。

――― でもそれは本当に、リノとケイなのか?

――― それがリノと俺じゃないと、なぜ言える?

 俺は目を閉じた。

 唐突にピアノの音が聞こえた。なんだろう。俺は寝室を出て居間へ行く。

 居間ではステレオが、大音量でスケルツォを流していた。リノが買ってくれたCD。

 そう言えば前にも、勝手に流れてたな。リノが何かしたのかも。リノは機械がわからないと言いながら、リモコンをテキトーに触るから、知らないうちに何かを設定してしまう。

 俺は佇んで、ピアノの音色を聞いた。

 上下する旋律が、居間の空気を混ぜる。

 不穏な低音から、無理矢理自分を盛り上げるような強い音、突然の美しいメロディ。俺は鍵盤の上を踊る指を想像した。白鍵と黒鍵を行き来する指。魔法のように音階を引き連れて、聴いている俺を翻弄する。

 目を閉じると、ピアノに合わせてくるくると踊る二人の恋人が見えた。頭からすっぽり白い布を被っていて、踊る恋人たちの顔は見えない。テンポの速いメロディーに乗って、見えてないのに躓かずくるくると回る。なんて器用なんだろう。俺はあんな風に踊れない。

 俺は目が周りそうになって、目を開けて窓から外を見た。高台のマンションの窓の外には、緊張したような空が見えた。何かを隠そうとしていて、不安に怯えている。今日は風が強い。

 怯えた空はどこまでも遠く、ここではない世界につながっている。隠しているのは、その世界なのか。ピアノの音色は、窓の外へと流れていく。窓から外へ出て、俺にその切れ端を捕まえられないように逃げていく。俺は手を伸ばしてみた。

 

 とてもわかりきったことだったのに、俺は今更それに気づいた。ここにいてはいけない。俺はここから、旅立つべきだ。

 こんな当たり前のこと、どうして気づかなかったんだろう。

 俺はあわてて寝室に戻ると、リュックを取って大きく開いた。財布とハンカチ、パスポート。ちょっと考えて、引き出しからクレジットカードを出して財布に入れた。他に入れるものはなさそうだった。

 俺はリュックを背負うと、居間へ戻って受話器を取った。それからダイヤルを回す。番号を覚えている事に、一瞬嫌な気持ちになる。

『もしもし』

「旅に出る」

『…………そう。鍵は郵便受けに入れておきなさい』

 俺は応えずに受話器を置いた。何年かぶりに聞いた母の声は、何も変わっていなかった。

 旅に出る。俺は居間の片隅に走り寄ると、ベンジャミンの葉を撫でた。リセよりも先に、俺が出発するのだ。

 俺の心は、清々しかった。

 リノは俺を見たら、泣くような気がした。きっとリノは、どうしてって言うだろう。どうして? でも仕方がない。なぜって旅立ちは、そこにあるのだ。だからリノに会うのはやめておこう。きっと俺は、きちんと話せない。

 俺はドクターマーチンのブーツを履くと、マンションの部屋を出て鍵を閉めた。

 部屋の中で電話の鳴る音がした。でも俺はもう鍵を閉めていたから、そのまま扉を離れた。郵便受けに鍵を投げ入れて、見慣れた街を歩き出す。

 旅先から手紙を出そう。エアメールは届くのが遅いから、絵はがきを見つける度に送ろう。リノは困るだろうか。ケイといっしょにいて、俺からのエアメールがたくさん届いたら、リノは困るだろうか。

 でもきっとだいじょうぶ。リノはちょっと笑って、セリったらこんなところにいるみたいよって、ケイと話す。俺の絵はがきが、普通の会話になる。リノがほしがっていた、普通の生活。

 リノを想う。

 一歩進める度に、強くなる気持ち。愛しているよ。心から愛しているよ。こわれていく言葉。口にしなきゃわからないなんて、人間はめんどうくさすぎる。

 こんなに想っても、届かないのだ。

 違う、届けられないのだ。俺が、リノが、みんな変わっていくから。同じ言葉が、同じ意味を伝えられない。それなら言葉にする意味は、どこにあるんだろう。見えないことを愛する恋人。

 幸せになって。幸せになって。祈りのように、くり返す。

 そして俺は、自分が泣いているのに気づいた。

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スケルツォ さい @saimoon

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