第10話 やさしい嘘

 セツくんが来た。

 今日はまたビデオを見るんだそうだ。でも百パーセント、私の知らない映画である事に間違いはないんだ。きっと。

「何、見るの?」

「まだ決めてないけど、何がいい?」

「…………キン・ザ・ザ」

 セリの言う映画名で私の知ってるのなんてほとんど無いけど、今日のは一段と変な題名だ。

「それどこの映画?」

 私は一応、セリとセツくんの会話に入ってみる。

「ロシア」

 セリは別に珍しくもない事のように言う。当たり前だけど、ロシアでも映画作ってるんだね。全然知らなかった。

「それって結構マニアックなんじゃねー?」

「そうかな?」

「リノちゃん、こいつと一緒に映画見るの大変じゃない? リノちゃん普通の好きだから」

「そんなことないよ。すごく変なのはセリ一人で見てるし」

「すごくへんなの」

 セリは私の言葉を繰り返した。だって私から見ればすごく変なんだもん。

「アカデミーとカンヌどっちが好き?」

「far away, so close」

 セリがそう言うと、セツくんは笑い出した。

「でも初期のはいいって言ってたじゃん、なんだっけホラ……」

 セツくんは題名が思い出せないらしく、頭を抱えて悩んでいる。

「あー忘れたーー」

「映画監督の話だろ。結局死んじゃうヤツ」

「それ! うわー思い出せねぇー気持ちわりーー!」

 セツくんは本当に考え込んでいる。セリはそれを見て笑っている。きっと知ってるんだ。

「……教えてあげれば?」

「い・や」

 嬉しそうにセリは言う。もう、変なところでいじわるなんだから。

 そうしているうちに呼び鈴が鳴った。

「ケイさんかな」

 ちょっと安心する。

 セリたちを見てるのは楽しいけど、映画とかの話になると絶対に入っていけないってわかってるだけにつまらないのだ。でもケイさんは、結構詳しいにもかかわらず、私の味方でいてくれる。

「はーい」

 玄関を空けると、長身の彼はスーパーの袋を下げていた。

「ポップコーンとか買ってきたよ。あと、飲み物と」

「何か、似合わない」

「よく言われる」

 笑いながら彼は靴を脱いだ。あ、リーガルだ。いつも結構いいものを身につけてるよな。とっても好きなセンスだ。

 居間に入ると、セリとセツくんはまだ決まってないみたいだった。

「まだ悩んでるの?」

「やっぱ二、三本借りる事になりそう」

 セツくんはそう言って財布を覗いた。お金だったら気にしないでいいのに。

「セリカの言うのは一本な。リノちゃんに悪いしよ」

「私なら気にしないで、本当に」

 本当に。ものすごく有名なのでなきゃわかんないんだから。

「うーん、じゃ『月より帰る』」

「それビデオ化してないぞ、たぶん」

「『パリところどころ』」

「だから……あっ、セリ妬いてるだろー」

 セツくんは嬉しそうに言う。そうか、両方ともビデオ化してないんだ。セツくんを困らせてる。

「ちがうもん、セツの好きなのは何だよ」

「俺? やっぱ『アルファヴィル』っしょ、基本っスよ」

 全然知らない。

「ケイは?」

「えっ」

 ケイさんはいきなり話を振られて驚いてる。この人もボーッとすることがあるんだ。

「ケイさんは『シェルタリング・スカイ』だよね」

 前に聞いたから知ってる。セリも好きだったから覚えてた。ケイさんは私を見て、それから笑って頷いた。

「で、何借りるんだよ。全然決まってないぞ」

「それが問題なんだよなー」

 セツくんは腕を組む。結局何をやってるんだろう私たちは。

 すると突然、ステレオからピアノの旋律が流れ出した。

「どうしたのこれ」

「あれ、タイマーになってる」

 セリはステレオを見ながら言った。そんなのセットした覚えないわよ。

「スケルツォ……」

 ケイさんは独り言のように言った。ショパンだ。私がセリに買ってあげたCD。

「結構イイね」

 セツくんは見直したって風に言った。

 スケルツォは悲しい曲だ。そう思う。楽しげで跳ねる旋律なのに、なんだか影を感じさせる。しかも最後は大団円みたいな終わり方なのに、それすら無理矢理盛り上げたように聞こえるのだ。何かつらい想いを胸に秘めたまま、それを誰にも知らせないようにしてるみたいな。あんな風につらい想いを抱えたまま生きていくなんて私にはできない。そんな風に思わせるのだ。

 そしてセリは、スケルツォが大好きなのだ。

 それはセリがつらい想いを胸に秘めてるってことなのか、それとも何も考えてないのか。

 でもセリに限って、何も考えてないなんてことがあるはずがない。彼女は考えすぎてる。いろんな事を考え過ぎてしまう人種なのだ。

 そんな風にたくさんの感覚や想いをどんどん溜めていったら、いつか壊れちゃう日が来るんじゃないか。他の人と同じになってほしくないけど、セリがそんな風にいろんな私の計り知れない事を溜めざるを得ないでいるのが、何だか悲しい気がした。

「って、ボーッとしてる場合じゃなかった」

 セツくんは流れる旋律に聴き入っていた私たちの沈黙を破った。

「レンタル屋に行ったら五倍の時間がかかるからな。今決めないと」

 セリは腕を組んだ。

「決めた。『ふたりのベロニカ』と『ブレードランナー』と『フォーウェディング』にする」

「セリカがよくその三つを選んだな。『フォーウェディング』!」

「ミスタービーン出てる」

「俺それ知らない」

「イギリスのコメディアン」

 ふーん。私も知らなかった。とにかく決まってよかった。セツくんの口調からいって全然難しいのじゃなさそうだし。

「じゃ、行ってくるね」

 セツくんとセリは二人して玄関に向かう。その三本が無いとなるとまた考えなきゃなーとか言いながら、セツくんはやっぱり嬉しそうだ。

 二人が出て行ってしまうと、中途半端な沈黙が私とケイさんの間に流れた。

「すぐ帰って来ないかもしれないから、お茶のしたくでもしよっか」

 私が声をかけると、ケイさんは今気付いたような顔をした。

「あ、ああ。そうだね」

 今日は何だかボケがちだ。いったい何を考えていたんだろう。

「よくないね、最近ボーッとする事が多くて」

「やだなぁ、もうボケちゃったの?」

 ケイさんの口調からいって大した事なさそうだ。きっと私の考えすぎだ。

 私は台所に入って、ケイさんが買ってきたものを開けるべきか考えた。でもやっぱり開けなかった。これはビデオを見る時のためのものだから、セリたちが帰ってきてから開けよう。そう決めてから、それじゃあやっぱり紅茶だな、フォションにしよう、そうして戸棚に向かうと、冷蔵庫のカレンダーに赤く丸が付けてあるのに気づいた。

 私が世界一の大嘘つきになる日だ。丸をつけたのは私でなくてセリだ。私がそんな真似できるわけない。セリを一人にしてしまう日を、記念日のように祝うことなんてできない。

 私がケイさんに正式にプロポーズされた事をセリに言ったら、セリは赤いマジックを持ってカレンダーに印を付けに行った。何も言わなかった。赤丸を見て満足そうに、

「よし」

と言っただけだった。

 何が『よし』なのか、私にはわからない。

 セリのことだから、丸の形が意外にも納得のいくものだったのかもしれないし、とりあえず、行事の増えたことに満足しているだけなのかもしれない。

 もしかしたら、私の結婚を喜んでいるのかもしれない。

 喜んでるの? セリが?

 何か変な感じ。結婚なんて、周りの人間が皆祝福してくれるのが普通なのに、祝福されるのがイヤなんて。

 違う、イヤじゃないんだけど、セリには何か言ってほしかったんだ。何か違う言い方で。

 何を?

 何を言ってほしかったの? 結婚しないでって? それとも、幸せになってって?

 いやだ私、セリを天秤に掛けてる。ケイさんと比べてる。

 セリは何も言わなかった。それはわかったって事じゃない。セリがちょっと変わってるのはわかってる。セリはすべての現実を受け入れながらセリのままで居る。そんなの私みたいな弱い人間にはできない事だ。

 セリは私が結婚するっていう事実を、何も言わないで受け入れたんだ。なのに私は、何を言ってほしかったんだろう。

 もしかしたらセリは、私がケイさんの所に行ってしまうという事実だけを受け入れてるのかもしれない。私はセリを守りたいのに。

 幸せには、なりたい。でもみんなで幸せになりたい。そんなの無理なのかな。

 不可能なのかな。

「何か手伝うこと、ある?」

 ケイさんはとなりの部屋から顔だけ出して聞いてきた。

「え? あ、うん別に」

「何だ、リノちゃんもボケてるんじゃん。お互い様だね」

「そだね」

 私は笑いながら金色の缶の蓋を開けにかかった。でも蓋は思ったより堅くしまっていて上手く開かない。

「貸して」

 ケイさんは私が持っていたスプーンを使って簡単に開けてみせた。

「はい」

「ありがとう」

 私はその動きに、ちょっとだけ見惚れていた。

「本当にいろんな種類の紅茶があるねえ。すごい、フォートナムの烏龍茶がある」

 ケイさんは紅茶の並んでいる棚を面白そうに見ていた。

「私も好きだから二人して集めちゃって。しかもセリが缶集めるのが好きだから捨てられないの」

「セリちゃんって、壜集めるのも好きじゃなかった?」

「そうー」

 おかげでセリの部屋は壜だらけだ。

「もし引っ越ししたら大変な事になるね」

 ケイさんは笑いながら言った。

「うーん、そうかも。でももしかしたら、セリってそういう事になったら全て捨てそう。ちょっと引っ越すとかじゃなくて、遠くに行くとかって場合だけど」

「……わかる気がする。そういう執着心は無さそう」

「うん」

 ケイさんは「そうかー」と納得して台所を出て行った。この人がセリのことを少しでも理解してくれたのかと思うと、何だか嬉しくなった。セリは独りじゃない。

 セリが早く、そのことに気づいてくれればいいのに。

 セリは独りじゃない。でもセリを独りにするのは私なのだ。

 でもそれは表面的なことで、決してセリのことを嫌いになったりするのとは違う。いつまでも私はセリを愛し続ける。絶対に。

 でもセリは知っているの? 私の想いを、セリは知っているの?

――― 言わなくては。

 セリに、私がケイさんと結婚するのは、セリを独りにするためじゃなくて、セリを守るためだって言わなくては。きっと彼女は誤解してる。私が愛してるのはセリだけだから。

 セリだけなのだ。



「好きな食べ物って何?」

 ビデオ大会のあと、みんなで夕ご飯を食べている時だった。

 ケイさんは話題を提供するような言い方でセリに聞いた。それはセリが度を超えて好き嫌いが多く、どう考えても好きなものの方が少なく感じたからだ。

「ナシ」

 セリはちょっと考えてから言った。

「それシャレ?」

 セツくんはすかさず突っ込む。そしてセリの視線を受けて笑う。

「他には?」

 ケイさんはコンキリエのスープを一口飲んでからまた聞く。

「コーンポタージュ」

 セリもスープを飲みながら答える。今度は考えない。コーンポタージュは私の一番の得意料理だ。手間の割りにおかずには寂しいから、人に振る舞うことはほとんどないけど。二番目に言うのはちゃんと考えてのことだ。

「好きな食べ物があるんなら、全然問題ないよ」

 そう言ってケイさんは笑う。セツくんはスープのお代わりを取りに行った。

「リノちゃんのパスタ料理、ホント美味しいよね。何見て作るの?」

 セツくんはスープを文字通りなみなみと注いで帰って来た。

「別に特別見て作ったりはしないけど、雑誌に載ってるようなのを勝手にアレンジして作っちゃってるだけ。だから本当はうそっこなの」

「うそっこでこんなの作れるんじゃ、大したもんだよ。ケイさんよかったね」

 セツくんはそういてケイさんを見た。ケイさんは照れたような顔で笑った。

「それにしても正式プロポーズ直後に、式の日取りが決まっちゃってるのはどういう事だ」

 セツくんは非難と言うより、冗談みたいに膨れてそう言った。

「それは、」

「それは双方とも披露宴を好まない上、教会で式を執り行った後ちょっとしたパーティーができればいいって事で、式場を押さえるとかしなくて済んだからすぐ決まったんだ」

 ケイさんは私の言葉を継いで、まるで事務手続きみたいに言った。

 本当の事だから、言いにくい事もないのだけど。

「えっ、じゃあゴンドラ乗ったり、バカでかいケーキ切ったりしないの?」

「しません」

 何考えてるのよ、セツくんは。

「恥ずかしいじゃない、そんなの。セツくんはやりたいの?」

「え、やだなぁ、他人事だから面白いんじゃん」

「ひどーい」

「あははっ」

 セツくんは思いっきり笑った。自分に振られた事を吹っ飛ばそうとしてるようにも思えた。

 でも本当は、披露宴をやらないってケイさんに言った時、よく承知してくれたものだと思う。曲がりなりにも普通は一生に一度の晴れ舞台でもあるのに、私の勝手な申し出を、よく断らなかったものだと。

「そうだね、あんまり派手な事したくないしね」

 そう言うとケイさんは、ちょっと伏せ目がちにして視線をそらした。

「だって、あーいうのって本当はオマケでしょ? 私は別に教会に入りきらないほどのお客さん呼ぶつもりはないし、挨拶とかイベントみたいにやるのもどうかって気がするし、ちゃんとした式にみんな参加してくれれば、それでいいと思うの」

 私は一気にまくし立てた。言ってることが嘘ってわけじゃない。これは実際に私が感じている事だ。ただ本当に披露宴をしない理由はセリに気兼ねしての事だ。

 それでなくても表面上裏切っているのに、その場に、周りの人間が浮かれ合ってるその場にセリを置くなんてできない。

「リノちゃんの言う事はもっともだよ。わかった、披露宴はしない」

 ケイさんは視線を戻して笑ってみせた。でもちょっと力のない笑みだった。だからちょっと不安が残ったのだけど、その後ケイさんは双方の両親の前でも、ガンとして譲らなかった。

 披露宴はしない。それはまるで、それを条件にして結婚するぐらい揺るぎないものになった。

 私だってちょっとは憧れなかったわけじゃない。あんなドレスはこれを逃したらもう二度と着る事はないと思う。できればいろいろ着たいと思った。でもそんなもので、セリにつらい思いはさせたくない。そんな事より、私はその日、神様の前で大嘘をつくのだ。

 だって生涯の伴侶はセリってもう決めてるんだから。神様には悪いけど、その誓いは本心じゃない。罰が当たっても仕方がないような事をするのだ。

 セリのために。愛するセリのために。

「けどさ、リノちゃんいなくなったら、セリカ一人だろ? 生きていけんのか、こいつ」

 それは……

「そんなのは全然平気。俺だってちゃんとできる」

 セリは何て事ないような顔で言った。本当に大丈夫なのかな。

「あ、私、見に来るから。セリのこと。だから大丈夫」

「俺は平気なんだあ!」

 セリは大きな声を上げる。セツくんは爆笑する。

「絶対ヤバいってこいつ、リノちゃん来たら洗濯物の中で餓死してるよ」

「セリちゃんってそんなに何にもできないの?」

 二人でセリを茶化してる。うん、全然できない。

「それはそれは」

 ケイさんも大げさに驚く。セリは不機嫌そうな顔でクリーム煮のチキンを切っている。

「おいセリカ、新婚家庭邪魔しに行こうぜ。リノちゃんの手料理、独り占めさせるのはもったいない」

「ケイに食わせるのがもったいない」

「ひどいなぁ」

 四人はすごくいい形で存在してる。たかが結婚くらいで、変わったりしないよね?

 四人の関係は、結婚ていうゲートを越えても同じようにいられるよね?

 この不安定な私たちを、どうか支える強さを持てますように。

 セリと目が合った。

 でも瞬きをする間に、セリの視線はチキンの付け合わせに行っていた。

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