第9話 悲しい雲と砂漠で見る夢

「電話、誰だったの?」

 居間に入ると、リノはハンカチにアイロンをかけながら聞いてきた。俺の好きな青いヤツだ。

「んー、まちがい」

「……まちがい電話と話してたの?」

 リノはちょっと嫌そうな顔をする。きっと、まちがい電話といたずら電話を取り違えてるんだ。

「うん、そう」

「セリも変わったわねー、前は絶対に電話なんか出なかったのに」

 そう言って、きちんと俺のハンカチをたたむ。

 それもそうだ。前は電話なんて、知らない人が勝手に話しかけてくる不気味な物でしかなかったのだ。でも最近は、ケイがよくかけてくるし、セツもかけてくるし、それにあんな大きな音を無視してまで、リノの仕事を増やすのはどうかと思ったのだ。

「ま、電話ぐらい出ても出なくても、どっちでも構わないけどね」

 リノはそう言って、リノのハンカチにもアイロンをあてる。でもそれは、俺の見たことのないヤツだ。

「これ? ケイさんにもらったの」

「ふーん、センス悪い」

 白いハンカチの縁の近くに赤いラインの入ったシンプルなヤツ。

「それ、ケイさんの前で言わないでよ。セリ、妬いてるんでしょー」

「ちがうもーーん」

 今度一緒に買いに行こう、そう言ってリノはきちんとハンカチをたたむと、他のものと一緒に寝室へしまいに行った。

 妬いてなんかないもん。妬いてる、かも知れないけど、ちょっと違うもん。なんて言うかわかんないけど、フクザツなのだ。赤いラインのハンカチ。かわいいハンカチ。

 でもそんなものはきっと、どこでも手に入るのだ。何にもよくないのだ。

「今日は出掛ける」

 なるべく普通に言う。もしかしたら俺は、リノにうそをついているのかもしれない。

「え、そうなの? なんだ、今日はまたビデオでも見てるのかと思った」

「セツと見る。『スール』っての」

「……知らない」

「たぶん、そう思った」

「おもしろかったら教えてね」

「うん」

 俺はいろいろな仕事をこなしていくリノを見ている。じっと見る。

 リノはアイロン台をかたづけて、アイロンのコードを巻き取る。それから散らかっていた折り紙を揃える。あれは俺が何かを作ろうとして出してきたのだ。でも俺は鶴の折り方以外のものを全て忘れてしまっていて、何も作れなかった。

 何かものすごく好きなものがあったはずなのに、その折り方も、それそのものさえも忘れてしまっていて、何も覚えていないのだ。

 俺は変わったのだろうか。

「ほら、セリ、出掛けるんなら着替えるんでしょ? ボーッとしてないの」

 アイロンも、アイロン台も、折り紙も、雑誌も、ネクターの入ったコップも、リノの読みかけの『夜啼く鳥は夢を見た』も、俺の出してきた『ギャシュリークラムのちびっ子たち』もみんなかたづけて、リノは言った。

「何、着よう」

 心にもない事を言ってしまった。俺はリノに見とれてた。

「じゃ、出してきてあげる」

 あっ、リノが行っちゃう。

「待って、」

 何も考えてなかった。俺はリノをつかまえた。

「何よーー」

 リノは笑ってる。俺は何も言えない、何も考えてないのだ。頭の中が真っ白で、何もかも消えてしまった。目の前にリノが立ってる。

 何も考えないなんて、できると思わなかった。

「出掛けるんでしょ?」

 リノが聞く。リノは優しい。

「うん」

「じゃ、着替えなきゃね」

「うん」

 リノは俺のおでこにキスをする。それから俺を見てにっこり笑う。俺の頭をなでる。

「待ってて、すぐ着替え持ってきてあげるから」

 そう言って、優しく俺の手を離れていく。

 リノは優しい。

 それは俺が愛してるからだし、リノが俺のこと愛してるからだ。何でも聞いてくれるし、何でもしてくれる。キスもしてくれる。リノは普通だから、俺みたいに普通じゃないヤツと、いっしょにいるのはたいへんなのに、いつも笑っていてくれる。リノは優しいのだ。

 リノが大好きなのだ。世界で一番、大好きなのだ。

 それなのに、どうして、

 どうしてリノが冷たいなんて思ったんだろう。



 俺はうそなんてついてない。

 リノにうそなんてついてない。こいつと会った後で、セツの所に行くのだ。絶対に。

 まちがい電話だなんて言ったのは、リノじゃなくて俺に用があるって言ったところで、すでにまちがいだったからだ。

 俺はうそなんてついてない。

「呼び出しちゃって悪かったね」

 そう言ってケイは紅茶を出す。ハロッズだ。おみやげ用のきれいな絵の入った赤い缶が食器といっしょに並んでるのを、前にケイの家に来た時に見た。牛乳の入ったミルクピッチャー。

「僕が外へ出ると、やっぱりバレちゃうもんね」

「誰に」

 俺は知らないフリをする。ケイは何も言わない。ちょっと苦笑する。

「セリが言っちゃってるか」

 そう言って紅茶にミルクを入れる。砂糖は一杯。

 俺もミルクを入れる。今日は、砂糖も入れる。寒くなると紅茶に砂糖を入れる。たくさん入れる。

「言ってない」

 俺は紅茶をぐりぐり混ぜる。ただの白い砂糖はあっという間に溶ける。

「……そう」

 ケイは安心したように、ちょっと笑う。どういうイミだよ。

 今日は風が強い。青空を白い雲が渡っていくけど、夏の頃とは比べものにならないくらい悲しそうに見える。ケイのマンションは、静かな住宅街を見下ろすちょっとした高台にある。ケイの部屋は六階建ての四階で、仕事用の部屋もあるから結構広い。

 四階の窓からは街が見える。でもあんまりおもしろい眺めじゃない。

 大きな雲が、横切っていく。

 俺はいつものカップを使っていた。青い星のついたやつ。俺のお気に入り。

「そうだ、セリにあげるものがあったんだ」

 そう言ってケイは立ち上がる。俺に?

「何だよ」

「はい」

 ケイは本棚みたいな食器棚から小さな紙袋を取ってきた。水色のストライプ。

「開けてみてよ」

 ケイがうながすからセロテープをきちんと取ってから開けてみる。

 ハンカチだった。青いラインの入ったシンプルなヤツ。あっ、

「気に入った?」

 ケイはうれしそうに笑う。

 リノとおそろいのだ。リノは赤いの、俺は青いの。

「セリ、そのカップ気に入ってるでしょ。それでそのハンカチ見た時、気に入るかなと思ったんだ」

 ケイは自信ありげに言う。そりゃこのカップ、気に入ってるけどさ。

「ふーん」

「気に入った?」

 ケイは俺の顔をのぞく。

「うん」

 でも何か変だ。何だろう。

 風が強い。ものすごく大きな雲が、青い空をかくそうとしてる。いじわるなヤツ。

 でも悲しげに広がる雲は、全てを後悔しているように見えた。

 ケイは立ち上がってステレオの方に行く。CDを見る。

「何かかけるけど、何がいい?」

「何か、」

 俺は悲しい雲を見たまま考える。悲しい雲は、今何が聴きたいんだろう。

「シェルタリング・スカイ」

 俺はもう頭の中でテーマ曲を始めていた。悲しい曲だ。あの雲のように、悲しみへと流れていく。

 砂漠に寝そべる空も、悲しい雲を持っている。

 ケイは片手にティーカップを持って立っている。俺はイスをおりて窓の所へ行く。ケイもついてくる。

「何見てるの?」

「砂漠」

 俺は悲しい雲を見ながら答える。姿を変え続ける砂、吹き続ける風と、その上に浮かぶ悲しい雲。そして青い空。俺は砂漠に行ったことがないのに、どうしてこんなにはっきりと想像できるのだろう。

 行った事のあるあらゆる国よりも、明確に、はっきりと俺の脳に張り付いて離れない映像。砂の動く音や、その重みまでも確実に感じる。

 でも、まだ大丈夫。砂漠は俺を呼んではいない。俺はまだここにいられる。

「セリ、紅茶冷めるよ」

 ケイが俺のカップを持ってきた。俺はちょっと冷めた紅茶を飲み干した。

 ちょっとおかしい。何かがおかしい。

 消え去った砂漠の映像の隅の方で、何かが違っている。何だろう。

 俺は胸さわぎをおぼえた。

「どうかしたの?」

 ケイは心配そうに俺の顔をのぞく。

「わかんない」

 本当に何が何だか、わからない。こんな事は、今までに無かったことだ。

 ケイは俺のおでこに手のひらを当てる。そんなんじゃないってば。

「それより、俺を呼んだ理由は何だよ」

 俺は話題を変える。忘れてしまえばいいのだ。

「あーー、」

 ケイは視線をそらす。ソファの所まで行って座る。俺も何となく、となりに座る。

「初めて会ってから、どれくらい経ってる?」

 ケイは全然意味のないような事を聞いてきた。

「五月だから六ヶ月くらいかな。そのうち、ケイが俺とリノの関係を知ってたのは一ヶ月ちょい」

 言いたいことはわかってる。リノと俺との関係を知ってからも、ケイは全然変わらないでリノと接してる。いいことだ。たぶん。

 俺はリノに一つだけ秘密があるけど、それ以外はみんなリノに話してる。でもリノに、ケイが俺とリノの関係を知ってるってことは、絶対に話せない。これだけはリノに秘密にしておかなくては。でも、それ以外の秘密を作ってはいけない。だからケイと二人で会うこともなかったのだ。

 でも今日、会ってしまった。

 どうして来ちゃったんだろう。

 悲しい雲は、青空を完全にかくしてしまった。

「今、リノちゃんが来たら、何て言うかな……」

――― 何言ってんだよ。

「何がだよ」

「今、リノちゃんが来て、セリが何も言わずにか、もしくはウソをついて僕の部屋に来てたってわかったら何て言うかな」

 ケイはゆっくり俺を見る。どうなっちゃってるんだ、こいつは。

 変な感じがした。何かがわかりかけてる。

「ケイ、」

「本当は、僕がセリたちがレズだって知ってて、その上で付き合いを続けてるって知ったら、どうするかな」

 ケイは俺に近づいてくる。

 何かが、はっきりしてくる。何だろう。でも俺は、そんな事を知りたいんじゃない。

 俺は動かずにいる。

「僕たちがこんな風にリノちゃんやセツくんに黙って、二人で会ってるって知ったら、何て思うかな」

 俺は動けない。

「別れちゃうかな」

――― わかった。ずっと、ハンカチをもらってから変だと思ってたこと。

 ケイは俺にキスをした。俺は目を閉じなかった。

 ケイは俺のためにハンカチを買ったんだ。リノよりも、俺の方が先だったんだ。

 ケイはゆっくりと離れた。それから俺の肩に寄りかかって、俺と同じ方を見た。

「好きだ」

 まるで他人事のように、ケイはそう言った。

 きっと俺は知ってた。俺は目を閉じてみた。思い出せ、いつからだ?

「ずっと、たぶん会った時から」

 そんな、俺は、ずっとリノを裏切っていたのか? 俺が、こいつと会ったから、狂ってしまったのか?

 すべて、俺のせい?

 ケイがリノと会う前から、少しずつ狂っていたのか? 俺がケイに会ったから?

「…………リノ、」

 ずっと変わらないと思っていたのに、リノと俺を傷つけたくなかったんじゃないのか。傷ついたぞ、バカヤロー。

「言わずにいられなかったんだ、もう、」

「知らない」

 俺は、リノに隠すべき最大の秘密を持ってしまった。こんなはずじゃなかったはずだ。

 でもケイを狂わせたのが俺だとしたら、俺はどうすれば良かったんだろう。 リノはどうするんだろう、リノは…………あっ。

 リノは、ケイのことを好きになりはじめてる。

 そうだ、リノは、ケイのことを好きになってる。だから俺はリノが冷たいなんて思ったんだ。

 リノの、俺に向けてある愛が、誰にも気付かれないくらい少しだけ形を変えたから、俺はそれに気付いてしまった。リノが離れてく。

 変わっていく、全てが変わっていく。俺はどうすればいいんだろう。

「ゆるさない、そんなの、ケイは、リノと結婚する」

「セリ……」

「絶対に、リノと結婚する」

「…………それは、セリの答え?」

「答えとか、そんなんじゃなくて、そうなってるんだ」

 リノを不幸にするのは、許さない。俺がどうなっても、リノが不幸になってはいけないのだ。

「……わかった」

「リノを不幸にしたら、許さない」

「もっと早く言ってたら、変わってたかもね」

 ケイはティーカップを持って立ち上がる。何が?

「リノちゃんと離れて、セリに告白できたかもしれない」

「そんなことは許さない」

「言うと思った」

 ケイはティーカップを台所へ持っていく。シンクに置く音がする。

「でもね、僕が好きなのはセリなんだよ。それでもリノちゃん、幸せになれるのかなぁ」

 台所から声を掛ける。ケイは最終兵器を持っているかのように自信がある。

「ねぇ」

「……リノはケイのこと、好きになってる」

 俺は一番言いたくなかったことを口にした。ケイは驚いてる。

「それ……は、」

「リノもほとんど自分で気付いてない。でも、本当のことだ」

「……でも、それって、」

「もちろん、全部ケイのことを好きになってるわけじゃない。ただ、俺だけを見てたのが、ケイも入ってきただけだ」

「セリは、それでいいの? そんな、」

「どうしろっていうんだよ。そんなの、俺が止められるわけないじゃないか」

「…………そうだね。それは、僕と同じだよね」

 頭がガンガンする。悲しい雲が、雨を運んできた。静かな雨音。

 砂漠の残像が、全く形をなしていないものが、何かうったえている。俺に何かを言わんとしている。それは、何?

 リノを幸せにしてよ、そう言いたいのに、うまく口が動かない。いろんな思いがこの部屋の中を泳いでいる。そして俺はその中で溺れているのだ。うまく動けない。

 無意識に張り巡らした神経の先で、砂漠の残像が答えのような気がしてきた。

 答えを出さなくては。

 長い時間が過ぎたような気がした。

「…………リノちゃんと、結婚するよ」

 ケイはそう言って、俺の方を見た。でも俺は、顔を上げなかった。

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