第29話 シャンパンナイト

 熱狂的な県外ライブからしばらく経ったある日の夕方。

 ノートブックのディスプレイに明朝体の文字がカタカタと打ち込まれていく。

『私があなたに求めることは何一つない。あなたがそこにいればそれだけで十分なの』

 そこでターン・・・という音が響きわたった。

 一流の人間しか立ち寄れないバーに水本絵梨花はいた。彼女の気品のあるたたずまいをみて、スーツ姿の新鋭気鋭な男が近づいてきた。

 彼はいかにも顔馴染みのように振る舞い、常連の余裕がにじみ出ている。

「ふうん」

 あごひげを触りながら、彼女の後ろに立ち、文章を眺めていた。まるで美術館で油絵を鑑賞するような空気を漂わせている。

 その男は自分に自信があるのか、髪をかきあげると「詩的だけど、本心でもあるのかな」とつぶやく。

 絵梨香は流し目で彼を見ると、微笑を浮かべながらキーボードを打ち始める。ターンという音が店内に鳴り響く。

『消えろ』

 その文字に男は言葉を失う。

 なるほど、と苦笑いをした。過去の人生経験を回想しながらうなずく。

(態度から察する限り、後ろから覗き見したことを不快に思ったのだろう)

「フフン」

(気の強い女だ。……だが、そこが良い)

 レディに対して礼儀を欠かさないことが信条にあるこの男はパチンと指を鳴らした。

「マスター。この方にシャンパンを」

 この振る舞いこそが真の上でのジェントルマンといえる。そうすると、ほら女の顔は自然とこちらを向くはずと、彼は確信している。

 ――あれ、向かない。

(こちらを向かないだと?)

 それでも彼は焦ることはない。平素へいそよりいかなる場面でも余裕の表情を欠かすことはない。大人の落ち着きこそが、女性に安らぎを与え、真の癒しへといざなうと彼には確信がある。

(少し気取り過ぎたか。アプローチを変えてみよう)

 ハハッと旧知の友と接するようにフランクに笑いかけた。

「気にしなくて良いんだ。お詫びのしるしだよ」

 その声が耳に入っていないのか、絵梨香はディスプレイを注視しながらキーボードを叩き続けている。

 ターン! 

 今日一番の大きな音が鳴り響いた。

『通報するぞ、クズ男』

 男は読んだ瞬間、咄嗟とっさに目を閉じた。

 パシャッ。冷たい。同時にシャーと泡の音が聞こえる。顔をぬぐいながら見上げると、向けられたグラスから雫がポタポタと落ちている。その横の目は鋭い眼差まなざしだ。

「ひいい」

 頭の上からずぶ濡れの男は慌ててカバンを手に取ってその場を後にした。

 絵梨香はカクテルを飲み干して、腕時計に視線を落とす。

「そろそろかしら」

 ノートパソコンはパタンと閉じられた。


 バーを後にして、パーキングに停車した車に乗った。レンタカーで借りたセダンである。ハンドルを握りしめてささやく。

「お待たせ、可愛い子猫ちゃん」

 後部座席のシートにユズナは座っていた。彼女は目を閉じて口を開けてスヤスヤと寝息を立てている。

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