第20話 全ての始まり

 ある日のことだった。ユウタはみんなよりも一足早く基地に着いたと思った。物音が聞こえないからだ。そうではなく、先にいた沼崎恵梨香はかがみみ込んでいた。

 ミーンミーンミーン。蝉の鳴き声が続いている。日差しが差し込み、鼠色ねずみいろのコンクリは真っ白に光っている。

「沼崎さん?」

 蒸し蒸しとした熱気が辺りを充満していて、汗の粒が額から流れていく。この日は異常な猛暑日で緊急警報が出ていた。

 スニーカーがジリジリとした音を立てて後ろ姿に近づく、白い砂埃が舞い、生暖かい風がそれを上に運びあげる。

 そのとき彼女の小さな声が聞こえた。

「リリが死んじゃう」

 座り込んだ後ろ姿。膝の上から猫の前足がぐったりと垂れ落ちている。

 彼女の胸に抱えていたのはリリだった。

 ユウタはカバンを投げ捨て、リリの元に駆け寄った。

 閉じた口を指で押し上げると歯茎はぐきが乾いている。

「熱中症だ」

 ユウタはペットボトルに入った水を与えようとするが、口をつけようとしない。

「ねえ、死んじゃうよ」

 沼崎恵梨香は叫び声をあげる。パニックになっている。

 ユウタは彼女とリリを見下ろしながら自分の無力さを知る。

 どうすれば良い。

(救急車? ダメだ! 猫は利用できない)

(動物病院に連れていくのか? 間に合わない)

 スマホで急いで対処法を検索する。その一つを見つけた。

「水を含んだタオルを絞る……これだ」

 ユウタはタオルを絞ってソファーに寝かせたリリの身体に水をかけるが反応がない。後ろに立ち尽くす恵梨香に絞ったタオルを向ける。

「水、もっと。早く! 水、もっと!」

 ユウタの声は廃墟内に空しく響き渡っていた。


         *

 

「今までありがとう」

 リリの墓を作り三人で見送った。

 突然のリリとの別れ、それと同時に、悲しくなるから、これから廃墟には立ち寄らないことを三人で決めた。

 突如とつじょ、声をあげて沼崎恵梨香は泣き崩れた。涙声で謝っている。

「……あの子を守れなかった。リリ、ごめんね、ごめんね」

 沼崎恵梨香は顔を手でおおって泣き続けている。

 ユウタは「沼崎さん」とうつむいたままささやいた。

「リリは最後まで水をなめなかった。それでも最後に力を振り絞って、あなたの手のひらをなめた……」

 見上げた恵梨香の瞳は赤くうるんでいる。

 ユウタは鼻をすする。

「たぶん、リリからの最後のエールだよ」

 地面に膝をつけて顔を近づけて「だから自分を責めないで」と伝えた。


 学生バックを背負う二人が夕焼けに飲まれていく。

 沼崎恵梨香はずっと手を振り続けていた。

 そして別れたあと、表情を変える。

 大切なリリがいないこの世の中でどこに希望があるのだろう。


 頭の中に浮かぶのはユウタだけだった。懸命にリリを救おうとした彼はまさに彼女にとってかけがえのないわかり合える運命共同体であった。

 また彼の純粋無垢に澄んだ心はこの世界を照らすまぎれもない真実の光であり、吹雪の中でも暖かく寄り添ってくれる人であった。最後の優しい言葉は胸に刻まれ、あの瞬間は心の底から安らげた。

「……私にはあなたしかいない」

 それからユウタをつきまとう日々が始まる。

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