第10話 陰原園子とテス勉した

 猫カフェに行って癒やされたはいいものの、そんな長い間浸ってられなかった。

 なぜなら期末試験が迫っているからだ。うちの学校は二番手校のくせして、なぜか一丁前に厳しく、一科目でも赤点(40点未満)を取ろうもんなら、夏休み地獄の補習が待ち構えているのだった。

 なのでそれを回避したくば、意地でも良い成績を収めなければならず、そのためにのほほん気分から頭を切り替える必要があった。

 まぁもっとも、ふだんから勉強していて、交友関係のみならず学業のほうも優秀である俺からしてみれば、いまさらあわてることもないがな。

 いつもどおり過ごして、そしていつもどおり夏休みを迎えればいいのだ。

 ところが陰原はそうもいってられんくらい切羽詰まっていた。

 猫カフェに行った、さっそく次の日だ。休み時間の教室で。めずらしくあいつのほうから話しかけてきた。


「すべてにおいて敵わないと認めたようでものすごく屈辱的なのですが頼る相手があなたしかおりませんし夏休みを人質に取られてしまったら致し方ありません春田くん私に勉強を教える気はありませんか」

「途中までよかったのに、なんで最後上からになるんだよ。そんなんだったら教える気ねーよ」


 俺が冷たく突き放すと、陰原はすっかりふて腐れているようだった。

 唇をとがらせたまま、ゆっさゆっさと身体を揺すってくる。


「よせよ。そんなことしたって無駄だし」


 ゆっさゆっさ。


「だから無駄だって!」


 ゆっさゆっさ。思っていたより陰原はしつこかった。いや思っていたまんまか。

 俺はやれやれとため息をついた。なんだかんだ陰原には甘いのかもしれん。

 まぁ無理矢理折れる理由をつけるとすれば、直に相談しに来ただけでもすごいってところかな。あれはああ見えてプライド高いし、そうするだけでも勇気が要ったはずだ。

 ひとまずそういうことにしといてやるか。

 俺はもうひとつため息をついた。


「ったく、わーったよ。俺はテスト余裕だし、べつに教えてやらんでもない。ただ一個だけ条件がある。試験勉強は俺んちでやること」


 陰原はぱっと手を離し、そして身構える。


「勉強を教える代わりに私の身体を要求するってわけですか人の弱みにつけ込んでほんとあなたって人は最低ですねそしてあまりに節操がありませんよせめてテスト期間くらいは禁欲したらどうですかええ」

「いや、そうじゃねーよ。おまえんちだと物理的にスペース足りんし、かといって外でやんのもジロジロ見られて集中できんし、じゃあしょうがなく俺んち提供してやるって、どちらかっつうと陰原にとってもありがたい条件じゃねぇか」


 そうなのだ。あくまで親切心でいってやったのだ。

 なのにすぐ陰原はそっちのほうに話を持って行きたがる。そんだけこいつの中で陽キャラ=性欲モンスター信仰は深く根付いてるってことなのか。ほんと厄介な信仰だな、おい。

 なるべく早いうちに洗脳から解かれてくれると助かるんだがな。

 陰原はうんうん唸っている。


「なるほどたしかに春田くんのいうことには筋が通ってますねいやはやこれはたいへん失礼しましたですがそれでもやはり完全に信用してしまうわけにも参りません男子の部屋それも陽キャラの領域展開内に足を踏み入れるのです何が起こるかわかりませんし警戒するに越したことはありませんせめて筆箱の中にコンパスを忍ばせるくらいは許してもらいたいですしまたいつコンパスで刺されてもおかしくないくらいの覚悟はしておいてほしいですね」

「そんな覚悟できてたまるかぁ!」


 どんな強靱な肉体を持つ男でも無理だろ。

 またどんな屈強な精神を持ってたとしてもだ。不意にコンパスで刺してくるようなもうほとんどメンヘラ、いやサイコパスといっていい女が隣にいたら、誰だって裸足で逃げ出すに違いねぇ。


「警戒するなとはいわん。だがコンパスだけは勘弁してくれ。怖すぎて勉強を教えるどころじゃなくなる。もしなんだったら、もうひとりつれてくればいいじゃねぇか。それこそ世羅とかさ」


 我ながら良い代案だと思った。三人でいればそんな凶器も要らなくなるし、ついでにまとめて面倒見られて一石二鳥ってわけだ。

 というのも。どうせ世羅のことだから、お馬鹿で頼る相手もおらず、陰原と同じ選択肢を取らざるをえないだろうと踏んでいたからだった。

 ところがその当ては外れた。すでに陰原が声をかけたらしく、それでやつはひとりで勉強すると言い張ったそうだ。


「あんな馬鹿でも二人寄れば文殊の知恵といいますし一緒に勉強しませんかと誘ったのですがあんたといたら馬鹿がうつるですとか誰かを頼らざるをえないほど地頭が悪いわけではないなどとなんだかんだ苦しい言い訳をつけて突っぱねられてしまいました」

「そっか。しかしまぁ、そんな強がりもあいつらしいっちゃあいつらしいな。後で地獄を見ようともそっとしといてやるか。ちなみに触れようかどうか迷ったがいちおう、三人寄れば文殊の知恵、な。正しくは」


 二人の時点でアウトだし、そもそもこんなポカをやらかすようじゃ先が思いやられただろうな。

 どのみち俺を頼らざるをえなかった。そういった意味では世羅に断られてよかったともいえるか。

 世羅にかんしてはさっきもいったとおり、もう見捨てるしかねぇだろう。可哀想だとはいえ、それが本人の選んだ道だし、俺も頼られんかぎりはわざわざお節介焼こうとは思わんからな。

 今回は陰原と二人きりでテス勉だ。下手すればほんとに刺されて、それどころじゃなくなるかもしれんが。

 テス勉の日がまさかの命日になるかもしれん。

 予習・復習の前に遺書でも書けってか?

 だがそんな心配も杞憂に終わったな。

 理由は至ってシンプル。陰原がコンパスを持ってなかったからだ。なんじゃそりゃ。

 まぁしかしこれで安心して勉強に集中できるってもんだ。

 放課後、俺は自宅に陰原を招いた。

 女子を入れるのはもちろん初めてじゃなかったが、この手のタイプはこれまでにいなかったので、柄にもなく緊張しちまったな。

 陰原はいわずもがなだ。ひとりだし武器もないし、ほんとに襲われたらどうしようだなんて、必要のない恐怖と戦っていた。

 片っぽずつローファーを脱いで、家に上がった。


「お邪魔しますといっても返事がかえってこないのですがご家族の方は在宅ではないのでしょうかちょっくらコンビニにアイスでも買いに行ってるのでしょうか」

「アイスは買いに行ってねぇな。うちの両親は共働きなんだよ。いまどきの夫婦らしくな。だから職場に出払っていてしばらくは帰ってこないぞ」


 陰原が後ずさりした。おまけについさっき脱いだ靴を俺に向かって投げつけてくる。


「まままさか人払いまでしていようとは思ってませんでしたそうですか計画的犯行に及ぼうってわけですか天晴れですそこまでして私の身体を弄びたかったんですねこのド変態め」

「共働きだっつってんだろ、話聞いとけよ。あと靴投げんなよ。ふつうに痛いし、何より床が汚れる」


 ほんとやれやれだ。俺は靴を拾って玄関に戻し、床についた汚れを服の袖で拭き取った。

 こんなことさせるなんて、いったいどんな客人だよ。

 ともあれ返すわけにもいかん。そんなことしたら後でさんざん恨まれそうだからな。

 陰原を引き連れて、自室のある二階へと上がっていった。

 部屋を見て、陰原は意外そうな顔をしていた。イメージとはだいぶかけ離れていたらしい。


「思ってたよりシンプルなんですねそれに小綺麗です私はてっきり陽キャラの根城だからこのあいだのVIPルームのようなギランギランしたところを思い描いてました」

「ビリヤード台があったり、ダーツボードがあるような?」


 陰原はそうですそうですと繰り返しうなずいている。

 だが俺は対照的に首を横に振った。


「それは陽キャラというより、どちらかっつうとセレブよりなイメージだろ。残念だがうちは一般家庭なんでな。まぁこんなもんだよ」


 期待を裏切られたといわんばかりに、つまらなそうにする陰原。なんかしらんが悪かったな。

 けれど今回はあくまで勉強会なのだ。机と座布団があれば十分だろ。

 俺は陰原に座布団を渡して座らすと、いちおうお客さんだしもてなそうと思って、なんかお茶でも出すことにした。


「何がいい?」

「えっですがー」

「柄にもなく遠慮してんじゃねぇよ。勉強に集中してもらうためでもあるし、好きなもん注文しろよ」


 陰原は座布団に座り直した。


「そうですかではお言葉に甘えて熱々のコーヒーのほうをお願いしますあっでもカフェインレスのほうで頼みますよ前にもお伝えしたとおり夕方以降は気にしてますのでそれと銘柄のほうはブルマンにしてくださいねあまり安物だと口に合いませんから今回ミルクは結構ですその代わり砂糖をましましで持ってきてくださいただしカロリーオフのものですよカフェインだけでなく体重のほうも気を払ってますからねなんせ乙女ですから」

「うん、やっぱ訂正。少しは遠慮しやがれ」


 俺はここでもため息をついて、キッチンのほうへと向かった。

 下に降りてキッチンの戸棚を漁る。

 えー、なんだっけ? カフェインレスでブルマンだったか。ブルマンなんて置いてあるわけねぇし、そもそもカフェインレスのそれなんて聞いたことないんだが。ふつうのカフェインレスを手に取った。

 で、熱々と。注文多いな。だがなんだかんだ甘いところのある俺は要望どおりにしてやりたかった。薬缶でぐらぐらいわせた熱湯を注いでやる。

 最後に砂糖か。残念ながらカロリーハーフなるものは見当たらん。ましましだかなんだかしらんが、せいぜい太って後悔すればいい。どの家庭にもありそうな角砂糖の小瓶を手に取った。

 すべての支度を終え、再び自室へと戻った。

 陰原はおとなしく待っているかと思いきや、人の許可なく勝手にノーパソを開いていた。


「いや何してんだよ」

「特に何ということもありませんよ春田くんのプライベートに立ち入るようなことは断じてしてませんただブラウザを起動して検索履歴からえっちなサイトが出てこないかたしかめようとしただけですよ」


 俺はぱたんっと勢いよく画面を閉じた。そんなことされたら俺の学校生活が詰んでまう……。


「思いっきり干渉してんじゃねぇか。それで見たのか、見ちまったのか? どうなんだええ」

「それが私としたことが見そびれてしまいました最初のロック画面でつまずいてしまいました陽キャラのことだからどうせリテラシーも低いのかなと踏んでたんですがどうやら詰めが甘かったみたいです生年月日や出席番号さらには携帯番号など思いつくかぎりのパスワードを入力してみたんですがどうしても解除するまでに至りませんでした悔しいです」

「よかった~。念のため複雑なパスワードにしておいて」


 俺はほっとするとともに、それの重要性についてたぶん初めて実感したのだった。

 みんなも面倒かもしれんが、長めのやつにしておいたほうがいいぞ。中にはこんな厄介なやつもいるからな。

 てか何気に個人情報押さえられててこえーよ。あきらかに弱味握ろうとしてただろ。

 自分の高校生活を守るためにも、今後はより気を引き締めていこ。

 ともあれせっかく淹れたコーヒーが冷めちまう。いやこんな人のプライベートを覗き見しようとするやつに熱々なのを与えてやることもないのだが、コーヒー自体を粗末にしたくないのでしょうがなくくれてやった。


「ほらよ。お望みどおりのあっつあつのカフェインレスコーヒーだよ。砂糖は小瓶の中からどうぞ好きに使ってくれ」


 陰原はコーヒーの匂いを嗅いでいる。


「ブルマンではないようですねまぁそこはあまり期待してなかったので妥協してもかまいませんが砂糖のほうはカロリー控えめのやつなんでしょうかそこは絶対に譲りたくないです」

「安心しろ。ちゃんと控えめのやつだから」


 もちろんうそだ。ふつうの角砂糖だ。

 陰原は訝りながらも、ぽちゃんぽちゃんと次から次に角砂糖を落としていく。

 スプーンでかき混ぜると、その言葉が真かどうか舐めるようにしてたしかめる。


「ふむふむなるほどたしかにふつうのにくらべたらカロリーが抑えられてるようなかんじがしますねええたぶん間違いありません春田くん疑って申し訳ございませんでしたコーヒーはきっちり最後まで飲み干そうと思います」

「だろ? だからいったろ」


 へへへ馬鹿め、この馬鹿舌め。俺は内心で嘲笑った。

 だいたいな、砂糖をましましに入れる時点で、違いのわからんやつだろうなって察しがついてたんだよ。

 どうぞ飲み干してくれたまえ。そして後でさんざん悔やむといい。

 俺はコーヒーをブラックでいただいた。

 さて一息吐いたし、そろそろ勉強のほうを始めるか。と思ったんだが、また陰原がよけいな話を挟んでくる。

 本棚にあった涼宮ハルヒシリーズを目にして、ラブコメであるかどうかを問うてきたのだった。

 そういやその答えを出すために、陰原から布教用のそれを譲ってもらったんだったな。いまのいままで忘れてたよ。

 よけいなこととは思うが、譲ってもらったってのもあって、さすがにシカトというわけにもいくまい。仕方なく、もうちょっとだけ陰原に付き合うことにしてやった。


「うんまぁたしかにハーレム的な要素はあるっちゃあるんだが、ラブコメですとははっきりいえんだろ。じゃあなんのジャンルだって訊かれても困るんだがな。SFと思いきやミステリ的な回もあるし。強いていえばノンジャンルだな。つまりなんでもありってわけだ」


 まぁ俺がそういったところで、意思は曲がらんだろうがな。陰原はちょっとでもラブコメらしい要素があれば、なんでもラブコメにしたがる癖があるからだ。

 しかしそんなやつにしてはかなり珍しかった。明日は大雪でも降るんだろうか。まさかの俺の答えを認めたのだった。

 べつにそんな真剣になるようなテーマでもないが、陰原は眉間にしわ寄せて考え込んでいた。


「ノンジャンルですかそういわれてみればたしかにそれがもっともふさわしいのかもしれません涼宮ハルヒはキャラクターも然り内容も型にはまるような作品ではありませんからねにもかかわらず無理矢理ラブコメに当てはめようとした私が間違ってました悔しいですがこの論争にかぎっては春田くんの勝ちですおめでとう」


 ぱちぱちと手を叩いている。


「おめでとうっていわれてもな。そして拍手贈られてもな……」


 だがまるで嬉しくねぇ。

 あいかわらずぱちぱちと手を叩き続けている。しつけーって。


「ちなみに見事勝利収められました春田くんには登場人物の中でどの子がいちばんのお気に入りでかつ将来ご自分の伴侶にしたいか主張する権利が与えられますさぁさぁ遠慮なさらず是非ともこの機会に思いの丈を熱くぶちまけてくださいな!」

「むしろ完全に罰ゲームなんだよなぁ。是非とも辞退させていただきたいんだが、でも後々引っ張られてもいやだし答えはするけど、そうだな……あの三人の中だったら長門かなぁ」

「おやおやそうきましたかじつはファンたちのあいだでもいちばん人気なのではないかと噂される長門さんを選ぶとは春田くんもなかなかやりますねぇということはやはりあれですか消失の際に見せたふだんとのギャップにころっとやられてしまった口ですか」


 陰原がいってることはわかった。

 第三巻だか第四巻だか忘れたが、シリーズの中でもいちばん評価されてるといってもいい回だ。

 そこで長門有希はそれまでの無口・無表情キャラとは打って変わって、ふつうの大人しい、恥ずかしがり屋さんな少女へと変貌を遂げるのだ。

 ギャップの大きさとあまりの可愛らしさに、消失以降ぐんと人気が伸びたとかなんとか。そして俺もそのうちのひとりだろう、と陰原はいいたいのだ。

 だが俺は違った。もちろん消失での長門を可愛くないだとか、否定するつもりはいっさいないが、どちらかというと無口で無表情な元のキャラクターのほうが好みだった。


「ギャップもいいが、やっぱオリジナルには敵わんな。一見ただの陰キャラにも思えなくもねぇが、ときには頼もしかったりAIみたいにつらつら語ったりと、あんだけ魅力的で個性の際立ってる子はそうそういないからな。可愛いし、おもしれぇよ」


 すると陰原は感心したかのように、口笛を鳴らした。そういうこともするんだな。


「おそらく今後も繰り返し言い続けるんでしょうが春田くんをすこし見くびってましたごめんなさいたしかにあなたのいうとおりかもしれませんねギャップから感じる魅力はやはり元の魅力あってのものですしそれが唯一無二にして頂点であるのはもはや自然の理ともいえますね」

「だろ? だからこれを機に反省して、もう俺のことを見くびらないでくれると助かる」


 しかしそれは都合良く聞こえなかったふりをされた。いや一昔前のラノベ主人公かよ。


「それはそうと面食いの春田くんはたとえ女の子が陰キャラであろうと可愛ければ魅力を感じるものなのでしょうか挙げ句の果てに性欲の捌け口としてしまうのでしょうか」

「いろいろと失礼な訊き方するなぁ。そしてきっぱりと否定できんところをピックアップするのも腹立つなぁ。ああ、そうだよ。なんだかんだ可愛いは正義だからな。そこに個性とか面白さが加わればもういうことねぇな。ぺきかんだ」


 なるほど完璧ですか、とわざわざ言い直された後、陰原は何を想像したのか、にたにたといやらしい笑みを浮かべた。

 薄気味わりー。

 この場は流してもよかったが、後になって気になるのもいやなので、いちおう訊いてやった。


「んだよ」


 陰原はにたにたしたまま答える。


「いやあのですね春田くんの理想像を聞いてふと閃いたんですけどね陰キャラで可愛くて面白いこの三拍子が揃ってる子は誰でしょうか身近にいたでしょうかと探りをかけてみたらいるじゃあありませんかそれもすぐ目の前に」


 は? 当然俺はぽかんとなる。そりゃあいきなりそんなこといわれたらな。

 陰原に向かって指差した。


「まさかとは思うが……それって自分のこといってんのか?」


 人違い、もしくは冗談だよな。ちょっぴり笑いを取ろうとでも思ったんだよな。

 そんな気持ちで訊いたんだが、陰原はというと、にたにたと笑ったままうんともすんともいわなかった。

 無言。かつ否定もせず。

 それすなわち肯定(本気)を意味していた。

 陰原は本気で俺の理想像、理想の女子が自分自身であると思い込んでいる。そしてそれが可笑しいと感じているのだろう。

 しかしそれはこっちの台詞だ。陰原が俺の理想像だなんてちゃんちゃら可笑しいぜ。

 このまま黙ってるわけにもいかんだろ。俺はそんな熱い気持ちをぶつけた。


「たしかにおまえは陰キャラだし、まぁぶっちゃけすげーおもろいやつだとは思う。それは白状してやる。だがな、可愛いってのはちげーだろ。いったい、おまえの、どこに、そんな要素が詰まってるってんだバーカ」


 ちょっと乱暴な言い方になっちまったかもしれん。だがそれも無理ないだろ。そういいたくなるようなでかい勘違いされたらな。

 しかしそれでもなお陰原は余裕こいている。その自信がどっから湧いてくるのかわからんが、とりあえずいやらしー笑みは絶やそうとはしなかった。いや絶やせ。そんな不快なもん、すぐにでも消し去っちまえ。


「バーカといわれても困りましたね勉強が苦手という意味ではバーカなのかもしれませんが本質的な意味でいくとバーカなのはあなたのほうですしだいたい事実にバーカも何もありませんしねしねこのバーカ後で泣いて謝っても知りませんからねー」

「バーカ連発しすぎだろ」


 あと俺じゃなきゃ見逃すところだったが、しねこのバーカは言い過ぎだろ。さすがにぐさっと刺さるて……。

 胸を押さえながら続けた。


「可愛いのは事実っていったけどよ。じゃあその証拠出せんのかよ。何でもいいからさ。もし何も出てこんかったら、そんとき泣きを見るのは陰原のほうかもしれんぞ」

「ええまぁ心配には及びませんきちんと証拠は出せますので逆に尋ねたいのですがなぜいやいつから私が可愛くないのだと思い込んでたのですかまだぐるぐる眼鏡を外したその先にある真の瞳の輝きを知らぬというのに」

「おまっ……まさか!?」


 俺は反射的にのけ反った。その勢いでテーブルは揺れるし、てなると必然上に置かれたコーヒーの中身も飛び散る。くそう、後でティッシュで拭かんとな。

 だがいまはそれよりもだ。陰原がとんでもねぇことを言い出しやがった。

 まさかおまえもなのか。恋愛物なんかでちらほら、ふだん学校では眼鏡かけていて地味で目立たんタイプなんだけどでもじつは眼鏡外すと垢抜けてとびきり美少女になる系のヒロインを見かけるが、おまえもそれだったのか。

 にわかには信じがたいな。そういうのはフィクションの中だけの話かと思っていた。

 だが裏付けは、つうかある程度信用に足る理由ならある。なるべく思い出さんようにしていたが、茶柱さん、茶柱紗枝さんの言葉だ。彼女の審美眼なるスカウターをもってして、陰原園子のことを地味かわと表現したのだった。

 しかも当の本人がここまでメンチ切っているのだ。これはまじでワンチャンあるかもしれんぞ。

 音もなくすっ……と陰原が立ち上がった。びくぅ! と俺の肩は震える。

 わずかなカーテンの隙間から、大御所タレントを照らすかのように後光が差し込める。地震か、幻聴か、あるいは自分の鼓動なのか判然とはしないが、ゴゴゴ……と周りが揺れるような音が聞こえた。

 陰原がぐるぐる分厚い眼鏡に指をかけた。それに応えるかのように、「すちゃ」っと眼鏡が返事した。

 俺は息を呑んだ。

 ついに謎に包まれていたヴェールが脱がされるのか。


「……ごくり」

「……すっ」


 いや脱がされなかった。ヴェールは眼鏡のレンズ以上に分厚かった(誰がうまいこといえと)。

 なんとここまで過剰な演出を挟んでおいて、陰原は一言も告げずに腰を下ろしたのである。なんじゃそりゃ。

 これには俺も拍子抜けだったし、目の前にあったテーブル、いやここはちゃぶ台ってことにしとこうか、それを盛大にひっくり返してやりたくなった。

 まぁもちろん実際にはやらんが。だってここ俺んちだしな。これ以上大事にはしたくなかった。

 せいぜい後ろの壁にもたれかかる程度に留めた。


「んだよ、結局眼鏡取らないんじゃねぇか。期待した俺が馬鹿だったぜ」

「私も取るつもり満々だったのですが眼鏡さんに尋ねたところいまはまだそのときではないのじゃと忠告されましてね眼鏡さんのいうことは絶対ですしおとなしくそれに従ったまでです」

「すげーな。俺の耳にはすちゃ……とたんなる環境音にしか聞こえなかったんだが、おまえはそこまで読み取れたんだな。耳鼻科に看てもらったほうがいいんじゃねぇか。それはそうと、その眼鏡さんとやらはいつになったら外してもいいか、いってなかったか?」

「少々お待ちくださいね今一度確認して参りますのでええいめんどくさい」

「めんどくさいってなんだよ」


 いい加減にしろよ。こっちはくだらんやりとりに付き合ってあげてるんだぞ。

 陰原はもう一度眼鏡さんに触れた。やはり「すちゃ……」という音にしか聞こえなかった。当たり前だ。物が声を発するわけがないからな。

 それでも陰原はまるで交信がうまくいったかのように、ふむふむとひとり納得している。


「とりあえず春田くんに性欲があるうちは素顔を見せないほうがいいようですね理性が崩壊して襲われる危険があるので具体的な年月までは応えられませんが少なくとも向こう70年間は様子見したほうがよいのではないかのと眼鏡さんは考えてますし私もそう思いますね異論なし」

「いやいや、異論しかねぇだろ。俺の性欲があと70年も続くとは思えんし、だいたいおっ死んでる可能性だって十分すぎるほどあんだろうが。仮におまえが美貌の持ち主だったとして、それが長年維持できるとも思えんし。それらを踏まえて、陰原も眼鏡さんも、絶対俺に証明するつもりないよな」

「そんなことありませんよ失敬な繰り返しになりますが私は見せる気満々なんですよそして一刻も早く春田くんをわからせてやりたいのですこの老害眼鏡さえいなければね」

「尊敬してんのかしてねぇのかいまいちはっきりしねぇな。もし後者であれば、もういっそのことゴミ箱に捨てるなり買い替えるなりしろよ」

「ふむ苦渋の決断ですがそれもひとつの手かもしれませんねあるいは春田くんのあそこを大バサミでちょっきんと切断して性欲のない状態にするかの二択ですね」


 唐突にそんな恐ろしいことを口にしたので、思わずあそこが縮こまるような感覚に襲われる。いわゆるあれだ、玉ひゅんってやつだな。

 反射的に股間を守っていた。


「頼むから切断だけは勘弁してくれ、新しい眼鏡代くらい喜んで出させてもらうからさ……」

「ふむそうですか陽キャラが無性になったときいったいどんな反応を示すでしょうかなどとサイコパス的な思考に囚われていたばかりに少々残念ですねでは平和的に前者のやり方で解決することにしましょうかとはいえまだこの眼鏡さんも新しいのですぐに交換してしまうというのもいささか勿体ないような気がしますね焦らすようで恐縮なのですがどこかおかしくなったり適切な交換の時期がやってくるまで座して待ってやくれぁせんかね」

「なんで座ってなきゃいけねぇんだよ。ふだんどおりにして待ってるよ」


 何かしらに付けて上からなんだよなぁ。

 それから、くれぁせんかね、みたいな微妙に小ネタ挟んでくるのもやめてくれんかな。それはちょっと世間は許してくれぁせんよ。

 ともあれだ。陰原園子の素顔はしばらくお預けってことになったし、そろそろ本題に戻らにゃならん。

 まぁ戻るも何も、いまだ始まってすらいないんだけどな。

 テーブルとカーペットに飛び散ったコーヒーの水滴をティッシュで拭き取ると、卓上に教科書やらノートやら参考書やらをひととおり広げた。

 陰原の注意を促すように、それらのうちの一冊の角を使って、こんこんと音を鳴らした。


「そんときまで待っててやるからさ、ひとまずいまはテス勉のほうを進めていかねぇか」


 そこでようやく陰原も思い出したようだ。はっとした顔をしていた。


「そういえば春田くんのおうちにお邪魔した本来の目的はそれでしたね涼宮ハルヒや私の素顔についてついつい夢中になって忘れてましたまったく何をやってるんでしょうかね」

「ほんとそれだよな。おまえから勉強みてほしいって頼み込んでおきながらな」


 てへっと舌を出し、こつんと自分のおでこを叩いている。

 だがそんなぶりっこされてもきゅんとこねぇし、ただただむかつくだけだ。たとえ陰原が可愛かったとしてもな。

 俺は教科書で陰原の頭をぽんとした。

 ついでにもうひとつため息。


「んで、まずは何から手ぇつければいいんだ?」

「何からと訊かれても非常に困ってしまいますなんせほとんど全教科ピンチといっても過言じゃありませんからねしかしその中でも強いていちばんまずいとしたら英語ですかねどうにも外国の言語は受け付けません国語も危ういところだというのにそれ以上に読んでいて目が滑ってしまいます」

「なるほどな。たしかに苦手そうだもんな、おまえ。そんで目が滑るってのから察するに、おもに長文読解ができんってことでいいんだよな」


 陰原はそのとおりですと首を縦に振っている。

 俺もそれに頷き返す。


「あいわかった。リーディングは配点もデカいし、英語の要といってもおかしくないから、とりあえずそこを押さえてりゃなんとか乗り切れるか」


 英語のテキストを広げた。


「そんじゃまぁさっそく始めていくかぁ。現状の実力も知っときたいし、この英文を和訳してみろ」


 テキスト内に載ってある比較的簡単な英文を指で示した。秀才である俺が和訳したら答えはこうなる。

 キャサリンは彼女の友人と放課後マクドナルドへ行った。そこで友人に一緒にフライドポテトをシェアしようと誘われたがキャサリンは断った。彼女の手持ちは少なくて、コーヒー代を払うのがやっとだったからだ。

 簡単といっておきながら少々難しかったか、それとも陰原が馬鹿だからか、やつはそれを険しい顔して懸命に読み解こうとしていた。

 まるで宝の地図のヒントから、その在処を探そうとしているみたいだったな。

 思ったよりも時間がかかった。そして陰原が出した答えはこうだ。


「キャシーはガールフレンドと放課後マックに行きましたそこでフラポテをシェアしませんかと頼まれたのですがキャシーはノーと返事しました手持ちが少なかったからですというのはじつは建前で本当はダイエット中だったからです」


 陰原は訳し終えると、顔を上げてどうですかと尋ねてくる。彼女なりに手応えを感じているようだった。

 だが俺は首を捻った。そりゃまぁ突っ込みどころはいくつかあるからな。

 陰原の和訳を反芻しながら回答した。


「引っ掛かったのは二点あって、ひとつはなんで勝手に省略してんだってこと。キャシーとかマックとか。ふだんいいもしないフラポテとかさ。そんなことしたら減点されてもおかしくねぇぞ。それからもっとひどいと思ったのは二つ目な。これまた勝手に設定変更してんなよ。友人をガールフレンドっていってみたり、じつはダイエット中だったとかいってみたり。これはもう減点じゃ済まん。ふつうにペケだ。回答者の主観が入りすぎてるからな」


 至極真っ当だと思ったが、それでも陰原は腑に落ちんようだな。いちおう言い訳を聞いといてやるか。


「省略についてはいちいち細かい野郎ですねと思うところはありながらも私も子どもではありませんしまぁたしかに調子に乗ってやりすぎた部分もあるかもしれませんねと反省してあげてもいいのですが二点目の指摘にかんしてはどうにも認められませんねやれ主観だのやれ設定変更だのほざかれてましたがたんに私は間違った答えを正したまでです恋仲でもないかぎりは放課後二人きりでデートするわけありませんし全人類が愛するフラポテ失敬フライドポテトを断るとしたらダイエット以外考えられませんからね」

「仮におまえの偏見が正しくて、答えのほうが間違ってたとしても、もうそれでもいいんだよ。あくまでテストなんだし、出題者も答えが矯正されることを求めてねぇだろうからな」

「要するに間違いは間違いのまま受け入れろということですかいやはやいくら教育とはいえどもこれは由々しき問題ですよほとんど洗脳のようなものじゃないですか生徒があまりに可哀想です」

「洗脳でも可哀想でもなんだっていいんだよ。赤点回避して、晴れやかな気持ちで夏休みを迎えたいってんならなぁ」


 そのパンチラインはさすがに響いたみたいだな。

 陰原は苦悶の表情を浮かべた後、小さくしかしたしかに首を縦に振ったのだった。

 そう、それでいいんだ。大事なのは本人がしあわせに感じるか否かなんだ……ってなんかしらんけど、いつの間にか俺教祖みたいな立場になってんなぁ。なんでだ?

 ただテストを受けるのに、よけいなことせんでもいいって伝えたかっただけなのにさ。

 ま、いっか。そのほうがお互いにとっても好都合だし、陰原には洗脳されたままでいてもらうか。

 俺は筆箱からボールペンを取って、それで催眠術でもかけるかのように、ゆらゆらと振り子みたいに左右に動かした。


「そんじゃまぁ、その調子で次の英文もいってみようか……」


 それを天才である俺が和訳すると以下。

 キャサリンは友人とのひとときを過ごした後、家路についた。運の悪いことにその道中で雨が降ってきた。雨宿りできる場所を探していると不意に雨が止んだ。偶然通りかかったボーイフレンドであるダニエルが傘に入れてくれたのだ。こんなところを同級生に目撃されたらと思うと恥ずかしかった。けれど彼の大きな傘に隠れてしまえば大丈夫かもしれない。キャサリンはちょっぴりどきどきしながら、ダニエルに自宅まで送迎してもらったのだった。

 おっと、これはなかなか難問だぞ。なんかちょっとした恋愛ドラマ始まっちゃってるし。

 しかし前問のかんじからして、まったく手も足も出ないってこともないだろう。よけいな口さえ挟まんでくれたら及第点は出せそうだ。

 で陰原はっていうと、さっきとは一転して、無表情で英文に目を通している。またなんとなくだが、レンズの奥にある瞳の輝きも消えてそうな気配がした。

 これはこれで不気味だった。まだ険しい表情を作ってくれたほうがましだぜ。

 肩も小刻みに震えてきちゃってるしな。ほんとに大丈夫かよ。

 だが不安に思ったところでもうどうにもならん。しばらく待って、ようやく陰原が口を開いた。


「……キャサリンはガールフレンドとの時間を過ごした後家路につきました不幸なことに途中で雨が降ってきました雨宿りできるところはないかと探していると不意に雨が止みましたたまたま通りかかったボーイフレンドのダニエルが傘に入れてくれたのですこんなところをガールフレンドに見られたら非常にまずいですですが彼の大きな傘に隠れてしまえばバレずに済むかもしれませんキャサリンはそんなスリルを楽しみながらダニエルと浮気デートをしましたこのクソビッチめっ!」


 そこであろうことか陰原はちゃぶ台をひっくり返した。

 教材は散乱するわコーヒーは一滴残らずこぼれるわで、もはやカオス状態といっても過言じゃなかった。

 もちろん俺は困惑したし苛立ちもした。

 ボールペンを振りながらそのときの気持ちをぶつけた。


「うわっ! ひとんちで何してくれんだよ!? コーヒーでカーペットびしょびしょだし。さっきあんだけ釘刺しておいたよなぁ? よけいなことすんなよって! なんでその約束守れなかったんだ!?」


 陰原は息切らしながら、ギロリと鋭い目で俺をにらんできた。

 お、なんだ、逆ギレか? やんのかああん?

 と身構えたのだが、さすがにいけないことをしたと自覚したのか、そこは素直に謝ってきた。

 そう、謝ったのは謝ったんだが……。

 問題はその謝り方だよな。

 陰原はすぅーっと深く息を吸い込んでから、こうシャウトしたのだった。


「我慢できませんでしたぁあああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

「叫べば許されるって問題じゃねーよ!」


 まったくやれやれだぜ。

 まぁしかしやっちまったもんはしょうがねぇからな……(甘いか?)。せめて陰原にもきっちり手伝わせるか。

 俺は箱ティッシュを投げて渡した。


「染みが残らんうちに拭き取ってくれ」


 そのあいだ俺は教材を整頓することにした。

 頁にもコーヒーの粒が飛び散っている。ああ、これはもう自然に乾くのを待つしかねぇな。

 俺は深くため息をついたのだった。

 それからしばらく掃除を続けて、ある程度は綺麗になった。最後にちゃぶ台を元どおりにして、テス勉のほうを再開させる。


「気を取り直して、次の英文訳してみようか。ちなみにいっとくけど、次また同じことやったら帰ってもらうからな。わかったか」


 陰原は力なくうなずいている。

 まぁ今度こそは大丈夫だろうと俺も信じたいぜ。


「よし。それならいってみよう」


 次の英文をボールペンの先で示した。

 ところが陰原はそれを目で追おうとはしない。

 俺はいぶかしんだ。


「ん、どうした?」

「うーむどうやらスタミナ切れのようです先程むかついたり慣れないシャウトをしたものですからそれで思いのほかゲージが削られたんでしょうね満タンにさせるにはお腹をいっぱいにするしかありませんなので我は食事を所望します是ただちにメシを持てい」

「おまえは王様か何かか?」


 図々しいにも程があんだろ。

 たしかに腹が減っては何とやらなんだが。

 メシを作ろうにも作るやつ(母ちゃん)がいない。

 もちろんインスタントラーメンとか簡単なものでよかったら、俺でも出せるんだが。

 しかしそれじゃあ陰原は満足しないんだろうな。超絶わがままだからな。

 だからいまはこうしかない。


「そのうち母ちゃんも帰ってくるだろうし、それまでおとなしく待ってろ」


 陰原は不服そうだ。

 腹を押さえながら抗議してくる。


「そのうちって具体的にいつですか人によって時間的な感覚は異なりますからねしかしながら実際は五分後と一時間後ではわけが違いますそのずれによって生じる軋轢場合によっては戦争の火種にもなりえますよ?」

「戦争って、んな大袈裟な……」


 大袈裟だし馬鹿げてるとさえ思う。メシ如きで。

 だがそこまでいうんなら、いちおうはっきりさせとくか。これ以上俺んちで暴れられても困るし。

 俺は壁掛け時計に目をやった。


「そうだな、だいたいいつも帰ってくるのが七時頃だから……あと一時間弱ってところかな」

「そんなに我慢できませんよぉおおおおおおおおおおおおおおお!?」


 せっかく片づけたばかりなのに、またちゃぶ台をひっくり返そうとしやがる。

 そうはさせん。俺は台の縁をがっと掴んでそれを阻止した。がたがたがたっ……!


「おまえまじでいい加減にしろよ! ひとんちをいったいなんだと思ってんだ!?」

「がぁああああああああああああああああああああ僕アルバイトぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

「いや意味わかんねーよ!?」


 誰か、誰でもいい。

 早くこいつのキャラ崩壊を止めてくれ!

 と俺が願いを込めたそのときだった。

 一階の玄関が開く音がした。続けてかつかつとヒールの音。

 ラッキーなことに、いつもより早く母ちゃんが帰ってきたのだ。

 俺は荒ぶる陰原をなだめた。


「よかったな、アルバイト。店長(母ちゃん)が帰ってきたぞ。まかないを作るよう急かしてくるから、それができるまでどうか部屋を荒らさずに待っててくれ!」

「あああああああああああああああああああ」


 もはや不安しかなかったが、俺は手を付けられん陰原を残し、階段をダッシュで下った。

 そしてちょうど上がり込もうとしていた母ちゃんと対面した。


「店長!」

「誰が店長やねん。ただいま~」

「おかえり! 帰ってきたとこすまんが、なる早で飯作ってくれねぇか」

「え~べつにかまへんけど。ほなお好み焼きでもええかなぁ」

「もうなんでもいいよ」

「なんでもええってなんやねん。自分から頼んどいて」


 ふて腐れながらも母ちゃんはそのまま台所に向かった。なんだかんだ優しいとこあんだよな。

 だがここでいちおういっておくと、ぱっと見はそんなかんじでもない。髪は明るいし、スーツの下に着用しているシャツも豹柄だ。メイクもギャル顔負けの派手さだし、それでいながらふだんは気の弱いサラリーマンや老人にほとんど詐欺紛いの生命保険を売りつけてるっていうね。プライベートを知らん人からしたら、完全にヤクザだ。もしくは不良OLとか。

 そんな母ちゃんは流しで手を洗っている。ネイルが取れたりしないかが心配だ。母ちゃんの心配じゃねぇぞ。誤って飯に混入するとかなったら勘弁だからな。

 きゅっと水道の蛇口を閉めた。


「ああ、わかったわ。しれっとうちに連れ込んどる女の子に振る舞いたいんか」


 玄関の三和土にあるローファーを見たんだろう。

 俺は思わず舌打ちする。


「バレたか。でもへんに疑ったりはせんでくれよな。やましいことは何ひとつしてねぇから」

「とかいうて~。ほんまは二人で乳繰りおうてたんとちゃうかぁ」

「いやまじでしてねぇから。だいたい陰原をそういう目で見たこと一度もねぇから、たぶん」

「へぇ、陰原さんっちゅうんか。その子。人を名前で判断するのもなんやけど、暗そうなイメージやなぁ」

「まんまそんなかんじだよ。ザ・陰キャラってかんじ」


 昔から名は体を表すとかいうけども。あいつほどそれがしっくりくるやつはいねぇよな。

 陰キャラと聞いて、なぜか母ちゃんは感心したような素振りを見せていた。


「知らんまにあんたも守備範囲広がったんやな~」

「そんな息子が成長したみたいな言い方すんなよ」


 嬉しくもねぇし、守備範囲広がってもねぇしな。

 それよりもだ。早くしないと陰原が暴れ出しちまうかもしれん。

 俺は母ちゃんを急かした。


「もうお喋りはいいから手を動かせって」

「なんやもう、せっかちやなぁ」


 母ちゃんはハンドタオルで手を拭いている。


「まぁええけどさ。そない急かすならあんたも少しは手伝うてやぁ」

「何すればいいんだ」

「いちばん下の戸棚からホットプレート出してセットしといて」

「えっまさかリビングで食うつもりなのか?」


 正直三人で食卓を囲む絵面を想像するだけでもきついぜ。

 出来ればテイクアウトして自分の部屋で食べたいんだが……そうもいかんらしい。


「当たり前やろ。うちもその陰原ちゃんいう子とおうてみたいし、除けもんはいややで。もし断るっちゅうんなら作ってやらん」


 とどうしても譲るつもりはないようだった。

 いやはや参ったぜ。

 飯抜きにされて、陰原に暴れられても困るし……ここは背に腹は代えられんか。

 俺はしぶしぶうなずいた。


「わーったよ」


 ホットプレートをセットし、下ごしらえのほうも整ったところで、陰原を呼んでくるようにいわれた。俺は再び階段を上って、おなかぺこぺこモンスターが待ち構える自室へと戻った。がちゃり。


「あああああああああああああああああああああああああああ」

「まだやってんのかよ。メシの支度ができたぞ。だからいい加減静まれよ」


 そしたらようやく理性を取り戻した。まぁそれはそれで厄介なんだが。

 きょろきょろと辺りを見回している。


「はぁそういう割には肝心のご飯がどこにも見当たりませんがいったいどういうことなんでしょうかまさかはったりこいたわけじゃないでしょうねまたはらぺこモンスターに戻っても責任取れませんよ」

「メシはリビングにある。母ちゃんがおまえが降りてくるのを待ってる。お好み焼きだぞ。エセ関西人の作るモダン焼き。もう設定がぐちゃぐちゃだけど、味のほうは俺のお墨付きだぞ。うまいぞ、熱々だぞ。どうだ食べたくなっただろ。なら黙って下までついてこい。よけいなこと考えずにな」


 早口でいって誤魔化す作戦だったんだがダメだった。陰原に警戒されちまった。


「考えるなっていわれても無理ですよだって春田くんのお母さんがいらっしゃるんですよねそれってもはや彼女として紹介されに行くようなものじゃないですかさすがに気まずいですよ」

「俺だってめちゃ気まじーよ! でもしょうがねぇだろ。おまえをつれてこんと飯作らんとか言い出しやがるからさ」

「ぐぬぬまさしく背に腹は代えられないというやつですかお母さんもなかなかやりますねぇならばわかりました私も腹をくくりましょうついでにモダン焼きなるものをたらふく平らげて差し上げましょうただし勘違いしないでくださいねお母さんの前で彼氏面できるのは食事のときだけですからくれぐれも本当に自分のものにできたと思わないように」

「んなのこっちから願い下げだわ」


 誰がおまえの彼氏面なんてしてやるもんか。

 母ちゃんの前でも、せいぜいへんな女として面白おかしく紹介してくれるわ。

 と半ばぎすぎすした雰囲気で連れ出したのだった。

 食事会のことはあえて語るつもりはない。本来の趣旨とはあまりにずれてるからな。そこらへんは想像に任せる。

 その後のことでいえるとすれば、腹を満たした後、陰原とめちゃくちゃテス勉したってこと。そしてなんとか無事、赤点を取らずに切り抜けられたってことだな。

 俺勉強教えるのもうめーわ。

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