第7話 落石注意

 勝利に酔いしれる間もなく、冷たい雨と風が熱を奪っていく。ファティアは身震いをし、自分の置かれている状況を冷静に思い返した。

「……ここから離れた方がいい。魔物の死体は魔物を呼ぶ……」

 足元に転がるワーウルフの死体。雨に濡れて血が地面に広がり始めている。この風では血の臭いも拡散するだろうが、嗅覚に優れた魔物ならそれを嗅ぎつけて近寄ってくるかもしれない。さっき逃げて行ったワーウルフもそうだ。

 首尾よく一体を倒すことはできたが、今度も同じようにうまくいくかどうかは分からない。慎重になるに越したことはない。

 ファティアは周囲を確認しながら、ワーウルフの死体から離れて先を進んでいく。

 緩やかに曲がり道が続いていく。霧は晴れず、山の下の様子は見えない。正確な方角も分からないが、エルドの言ったように一本道だという事を信じて歩き続ける。

 不意に硬い音が聞こえた。石と石がぶつかるような音……風の捲く音の向こうに鋭く響く。足を止めて耳を澄ますと、音は連続し近づいてくる。そして、離れた場所に小石が落ちてくるのが見えた。

「落石……この風じゃ無理もないわね」

 ファティアは額に滴る雨粒を拭う。これだけの強い風ならば石や木が吹き飛ばされても何の不思議もない。落ちてくる石に少しだけ注意を払いながら、ファティアは気を取り直して進んでいく。

 石の落ちる音はその後も続いた。登りではほとんど気にも留めなかったが、斜面の地形が変わったのか落石が頻発するようになり、カラカラと斜面を乾いた音が転がり落ちてくる。

 その石が目の前に落ちる。小走りだった足を止め、ファティアは息を呑む。石の大きさは拳大。それが結構な速さで転げ落ち、目の前の地面に落下し跳ねていく。もし当たっていれば怪我では済まなかっただろう。

 ファティアは斜面の上の方を睨む。霧で上の方は何も見えず、かと言ってずっと斜面を睨んでいるわけにもいかない。斜面から距離を取り、なるべく谷側に寄って歩き始める。

「みいつけた」

 声が聞こえた気がした。風の向こうに、くぐもった男の声。ごうごうと鳴る風の聞き間違いかとファティアは立ち止まるが、それきり声は聞こえてこない。

「空耳……幻聴、だなんて情けない……!」

 ファティアは左手で自分の顔を叩いて気合を入れる。寒さのせいで体力を奪われ、ついには幻聴まで聞こえるようになったか。そう思い、ファティアは震える体に力を込める。

 カツン、カラカラ……また音が聞こえる。石の転がり落ちる音だ。ファティアは斜面の上方に視線を向ける。

 石が落ちてくる。それも、一個ではない。堰を切ったように、たくさんの小石が雨のようにバラバラと降り注いでくる。

「鉄砲水? でも、川なんてどこにも……?!」

 山で異様な音が聞こえたり、石が流れてくるのは土石流の前兆。その知識をファティアは持っていたが、しかしメフィル山脈を登っている限りでは川に遭遇していない。乾燥した岩山だと聞いている。これだけ雨が降ればどこかに川が出来ていてもおかしくはないが、しかし、それにしても急に小石が降り注いでくるのは妙な話だった。

「おいさ」

 地の底から震えるような声が、また聞こえた。聞き間違いなどではない。風の空耳でもない。確かな声だった。

「……はっ?! 危ない!」

 斜面の上に黒い影が見えた。また魔物かと身構えたが、それは岩だった。それが斜面を転がり猛烈な速度で落下してくる。

 すんでの所でファティアは横に飛び、そして前転するように倒れ込み立ち上がる。落下した岩は、ファティアがいた場所を押し潰すかのようにそこに鎮座していた。

「大きな岩……こんなの当たったら死んじゃう……!」

 斜面の上で土砂崩れでも起きているのだろうか。起こっていても不思議ではない気象にファティアは焦る。

 その焦りを助長するように、再び斜面の上から音が響いてくる。一つや二つではない。無数だ。無数の岩が斜面の上から転がり落ちてくる。

「なにこれ?!」

 目の前で起こる現象に信じられない気持ちを向けながら、ファティアは落ちてくる岩を睨んだ。当たればただでは済まない。避けなければ。

 落ちてくる岩をよけ、右に左に飛ぶ。転がり、身を伏せ、槍で払い岩をよける。どう考えても異常な状況だった。自然現象とはとても思えない。

 では、一体なんだというのか。

「がんばるのう」

 斜面からの落石がなくなった頃、また声が聞こえた。どこからというのではない。まるで岩山全体から声が響いているような感覚だった。ファティアは警戒を強める。

「魔物……? 一体何?」

 何か奇妙な幻覚でも見せられているのだろうか。ファティアはそんな感覚に襲われるが、身を切るような寒さは本物だ。まやかしを見せられている訳ではない。周囲に落ちている無数の岩も本物で、そして、聞こえている声も本物だ。

 今度は遠くに獣の声が聞こえた。登山道の下の方を見ると、何かが駆けてくる。それはワーウルフのようだった。さっき逃げて行った個体と同じかどうかまではファティアには分からないが、とにかくワーウルフが走ってくるのが見えた。

 ファティアは再び槍を構え戦闘態勢を取るが、奇妙なことが起こった。

 ワーウルフがファティアから一〇ターフ一八メートルほどの距離で、その周囲にある岩が動いた。まるで巨大な見えない手が積み木でも動かすように、地面の岩が動いたのだ。

 その岩はワーウルフの体を打つ。衝撃でワーウルフは岩肌に叩きつけられ悲鳴を上げる。

「おっしょい」

 岩が次々と動いた。ワーウルフを覆うようにいくつもの岩が動き、飛び掛かるようにして襲い掛かっていく。まるで岩が意思を持っているかのようだった。ワーウルフの憐れな悲鳴が聞こえていたが、それもやがて聞こえなくなり、岩のぶつかり合う音だけが響いた。

 ワーウルフのいた場所には岩が積み重なっていた。だが均衡が破れるように、不意に岩は転がり落ちて崩れていく。そしてその下から赤黒い肉塊と化したワーウルフの姿が見えた。全身を岩に叩き潰されて死んでいるようだった。

 間違いない。

 ファティアは思った。これは攻撃だ。何者かが意図的にワーウルフを殺したのだ。そして恐らく、本当の狙いは自分に違いないと思った。落ちてきた岩も、聞こえてくる声も、それは自分に向けられたものなのだ。

「なんか違うのう。外したか」

 どこか気の抜けるような声だった。ファティアは息をひそめ、ゆっくりと動いていく。もしワーウルフと同じように岩の攻撃を受ければひとたまりもない。同じように物言わぬ肉塊になるのは目に見えていた。

(魔人……なの?!)

 山を登る前に遭遇したのはセスチノという魔人だった。水を操る力を持っていたが、今ここにいるのは岩を操る魔人という事だろうか。魔人にはそのような超常の力があるという事は聞いているが、それを目の当たりにすると信じられない思いだった。

 だが、その力も万能ではないらしい。その証拠に、無関係なワーウルフが襲われている。

 恐らくこの魔人は直接的に自分の位置を把握できていない。ファティアはそう考えた。そうでなければ、自分と間違えてワーウルフを叩き潰したりはしないはずだ。

「逃がさねえぞ」

 周囲の岩が突然跳ね始めた。まるで焼けた栗が弾けるように、勢いよく飛び跳ねる。その滅茶苦茶な動きは、ファティアを探る為らしかった。ファティアは冷や汗を流しながら、またも岩を避け続ける。

 だが大小無数の岩の全てを避けることは不可能だった。足に、体に、腕に、岩が掠めぶつかっていく。

「そこかい」

 無情な声が聞こえた。そして、ファティアの周囲の岩が一斉に飛び掛かってくる。

「きゃああ!」

 ファティアは咄嗟に槍を立てて自分の身を守る。槍に重い衝撃が走り、そして槍ごと背後の壁に叩きつけられる。体に岩が叩きつけられ、そのまま覆いかぶさってくる。

「ぐ、くぅ……!」

 ファティアは渾身の力で抵抗するが、のしかかってくる岩塊をはねのけることはできない。それどころか、徐々に押されて体が潰されていく。今はまだいいが、その内呼吸も出来なくなり、体も骨ごと潰されてしまうだろう。さっきのワーウルフのように。

「く、そ……正体を現せ! 魔人!」

 戦おうにも姿が見えない。力を振り絞るように声を絞り出すが、一言がやっとだった。

「現せってなあ」

 声が、ごく近い所から聞こえた。ファティアは辛うじて動く首を右に向ける。すると岩壁と目が合った。目、鼻、口がそこにある。

「俺はここだよお」

 岩の魔人が、どこかとぼけたような口調で言った。

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