第6話 遭遇

 そこはひどく寒い場所だった。日の光は陰り、深い影が視界を支配する。深い森の奥で、ファティアは孤独にさまよっていた。

 それが幼い頃の記憶だという事は分かっていた。まだ七つだったころ、家族と一緒に森に出かけ、一人で遠くに行ってしまい迷ってしまった時のことだ。

 それが過去のことであることは分かる。無事に助かったのだという事も分かっている。だがその時の恐怖は本物で、自分はこのまま一人で死んでしまうのではないかと強く思った。その事を記憶している。

 遊んでいて迷ったのか。それとも遠くに行こうとして迷ったのか。それは今でも分からない。

 私は――。

 ファティアは思い出す。当時の事を。

 私は恐れていたのだ。捨てられるかもしれないと。

 森の中をさまよう自分の姿を見ながら、その背に呟きかける。そっちじゃない。お父様とお母様は向こうにいる。どれだけ呼び掛けても幼い自分には声は届かず、森のより深い方へと進んでいってしまう。

 四女だった私は、当時から自分の立場が軽いものだと分かっていた。

 愛されていたはずだ。だが長兄の心無い言葉、お前なんか誰にももらってもらえないよ……そんな言葉に傷ついていたのだ。だから、何かを探していた。何も分からないまま、自分を求めてくれる場所を探していたのかもしれない。森の奥には、何もないというのに。

 私には何もない。全てはおさがりのもので、私の為にあつらえられたものなど何もない。私の居場所もない。私は誰からも必要とされない。

 他愛のない軽口が、重い枷となり心を縛る。私は知らず知らずのうちに、人生に絶望していたのだ。幼いながらに、それがこの世界の真理だと知ってしまったのだ。

 だから求めたのだ。何を……何を求めたのだろうか。今も求めている。自分の居場所を……自分の存在価値を。自分にしか成しえないことを探し続けている。

 寒い……寒さが体の芯まで伝わってくる。

 幼い私は森の中で動けなくなり、しかし泣くことも出来ずに立ち尽くしていた。闇はいよいよ深くなっている。陽光は遠く、木々が妖しくざわめく。何もできずに、私はただそこにいた。

 今も、そこにいるような気がする。


 目を覚ますと、そこは闇の中ではなかった。淡い光が周囲に満ちている。雨と風は相変わらずで、ごうごうと風が鳴っていた。

 ファティアはここがどこなのか、一瞬分からなくなった。ひどく体が冷たい。それで、自分は今メフィル山脈を登っていたのだと思い出す。

「……どのくらい眠っていたのかしら」

 膝を抱いていた腕がひどく冷たい。木の枝になったように強張っている。休んだつもりだったが、これではかえって体力を消耗しただけかもしれない。体が鉛のように重く、背骨に氷でも突っ込まれたような気分だった。

「行かなきゃ……王都へ……約束したんだから……」

 背中に提げた雑嚢に手を回し、硬い感触を確かめる。アクアクリスタルが、確かにそこにある。教官であるティオイラとの約束を思い出し、ファティアは体に力を入れて立ち上がる。

 槍の石突をついて杖のようにし、よろめきそうな体を支える。いつしか周囲は霧に包まれていて、一〇ターフ一八メートルほども視界が無い。進んできた方向を見失いそうになったが、勾配のついている方向へと進んでいく。道は一本だから迷うことはない。

 岩場から外に出ると、再び冷たい雨が降り注いでくる。先ほどよりも強くなった風が、ほとんど真横から雨粒をぶつけてくる。目さえ開けていられないような強い風雨に、しかし負けまいとファティアは進んでいく。

 先の見えない霧の中を進み続ける。勾配はいよいよ急になり、周囲に張り出している岩もその大きさを増していく。ファティアは坂道に手をついて登りながら、半ば朦朧としてきた意識の中でただ先を急いだ。

 やがて地形が平坦になり、台地のような地形が広がる。山の上を目指すには登らなければならないが、しかし登るべき場所がない。霧のせいで視界も悪く、周囲の状況は分からない。

 そのままうろうろとしばらく周囲を捜索するが、そして気付く。ここが山頂なのだと。足元に続いている踏み固められた道に沿って進んでいくと、今度は勾配が僅かに下がり始めていた。どうやら下りの道らしいとファティアにも分かった。

 これであとは降りるだけ。ファティアは少し安堵し、そのせいかどっと疲れが湧いてくる。しかし、しゃがみ込みたくなる気持ちを抑え込み、顔を軽くはたいて前に進む。王都までの道は長い。それに、ここで休んでも体力を消耗するだけだ。前に進み続けるしかない。

 道を下り始めてしばらくして、ふと視界の端に黒い影を見つけた。気のせいかと思い視線を巡らせると、霧の向こうで何かが確かに動いているようだった。

「ひょっとして……魔物?」

 最悪の予感に、ファティアは一気に警戒心を強める。普段生活しているエルドア神殿の近くにはほとんど魔物が棲息していない。森の中での訓練中に稀に遭遇することもあるが、それは年に一回あるかどうかの頻度だ。メフィル山脈のことは詳しくないが、昔聞いた限りではそれほど魔物は出ないという話のはずだ。

 最低限の警戒はしていたつもりだった。しかし、この風雨の中では動き回る魔物はいない……その思いがどこかに油断を生んでいたのかもしれない。ファティアは自分の認知能力がかなり低下していることに気付き、唇を噛んだ。

「何……? ワーウルフか何か?」

 見えた影はそれほど大きなものではなかった。それに素早かった。大きな魔物ではなさそうだった。

 槍を中段に構え、ゆっくりと前に進む。岩肌を壁にしながら注意深く周囲を観察する。また、霧の向こう、見えるか見えないかのぎりぎりの距離で何かが動く。見間違いではない。確かに何かが動いている。しかも一体ではない。少なくとも三体程度いるようだった。

 ファティアは足を止め、背中を壁につけるようにして立ち止まった。すると、周囲で動く影も動きを止める。こちらの様子を窺いながら機会を狙っているようだった。

「来るなら来い、魔物!」

 己を奮い立たせるかのように、ファティアは声を張って霧の向こうに呼びかける。影が僅かに反応し、迷うように左右に動く。姿はまだはっきりと見えていないが、大きさからしてワーウルフに間違いないようだった。

 ワーウルフはこの地域では最も数の多い魔物だ。手慣れた戦士であればそれほどてこずる相手ではないが、群れをなして襲い掛かってこられると危険度は大きくなる。ファティアはそれを知識としては知っているし、ワーウルフを想定した戦闘訓練も行っていたが、実際に遭遇するのは初めてだった。それ以前に、魔物と戦うこと自体が初めてだった。

「来い、化け物!」

 挑発するようにファティアが言う。それを感じ取ってか、ワーウルフらしき影はファティアへの包囲を狭めるように近づいてくる。

 山道の向かい側の当たりに、放射状に三匹のワーウルフが位置している。距離が詰まり、そして霧のベールの向こうから姿を現す。黒い体に炎のように赤く波打つ毛の筋。ワーウルフに間違いがなかった。三体のワーウルフが、示し合わせたかのように徐々に近づいてくる。

「ワーウルフ……大したことない。教官の方が怖い……魔物なんて怖くない……」

 呪文のように繰り返しながら、ファティアは近づいてくる三匹のワーウルフに視線を走らせる。距離が近づいてくる。もう五ターフ九メートルと目前の距離だ。

 来るか? いつ来る? どう来る?

 頭の中でワーウルフの動きを想定しながらファティアは視線を巡らせる。

 そして、ワーウルフの一匹が動いた。真ん中の一匹が低い声で吠えながら突進してくる。他の二匹はまだ動かない。

「うわああぁぁ!」

 反射的にファティアは叫んでいた。そして訓練を思い出し、下段、ワーウルフの頭部に向かって槍を薙ぐ。強張った体で渾身の力を込め、思い切り振りぬく。

 重い衝撃が手に伝わり、体の芯が痺れる。いつも訓練で打っている丸太の人形と同じような感覚だった。ワーウルフは悲鳴のような声を上げて横に倒れていく。

「はあっ!」

 攻撃はそれで終わりではない。まだワーウルフは生きている。倒さなければならない。訓練で何度も反復したように、今度は槍を引いて思い切り突きかかる。

 ズグッと湿った感覚。骨を断ち貫く感覚。初めて感じる生々しい感触だった。そして筋肉が締まって抜けなくなる前に素早く槍を引き戻す。

 憐れな悲鳴が聞こえ、ワーウルフは地面でのたうち回る。立ち上がることはできずに、そのまま声は段々と弱々しくなり、やがて動かなくなった。

 他の二匹のワーウルフはまだ動かなかった。だが仲間が死んだことで諦めたのか、二匹揃って踵を返し霧の向こうに消えていった。

 ファティアは槍を握りしめたまま、動けないでいた。冷え切った体も今だけは熱を持っている。初めて殺した魔物の感触に吐き気を覚えながら、初めての勝利に少しだけ感慨を覚えていた。

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