後編

 オレンジ姫は、いつもの蜜柑畠ですでに待ってくれていた。

 僕に気づくとこちらを振り向き、真っ直ぐに視線を投げかけてくる。


「いらっしゃい」


「今日は早いんだね。最近は、僕が先に来るのに」


「そうね。……ちょっと名残惜しくて」


 オレンジ姫の表情が、なんだか今日はいつもと違う。

 どうしたのだろうと思いつつ、僕はもう色々なことで頭がいっぱいだった。とりあえずは彼女の隣に腰を下ろす。


 そういえば、最初は離れていたのに、座る距離もずいぶんと近くなったな。


 そんなことを考えながら、僕はどうしようかと迷っていた。臆病な心が先延ばしにしたいと悲鳴を上げていたのだ。


 しかしここで怯んではならないと己を律し、僕は彼女の方に向き直る。

 胸がいつになくドキドキしていた。


「あの……」


「何? 顔が赤いわよ」


「どうしても、言わなきゃいけないことがあるんだ。笑われるのは覚悟だけど、聞いてほしい。僕は――、僕は、君のことが好きなんだ」


 頭を勢いよく下げ、言い切った。

 臆病でなよっているこの僕が、なんと告白できたのである。

 汗はひどいし息も尋常じゃなく荒い。


 恐る恐る頭を上げて僕は、彼女の方を見た。

 少女は困惑と驚き、それ以外の様々な感情を表情に宿した後、静かに口を開く。


「ごめんなさい。その申し出は受けられないわ」


「どうして」


 わかっていたことだが、僕は聞き返さずにはいられない。心に重たいものがのしかかる感覚があった。

 なおも彼女は続ける。


「これにはわけがあるのよ。そうだわ、今まで隠してきたけれど、この機会に全部話してしまいましょうか」


 そうしてオレンジ姫が語り出したのは、僕には信じられない話であった。


 実は彼女は、この山を挟んで向こうの領地を治める、由緒正しき貴族の令嬢だったらしい。

 暇を持て余してはこの山へ来て、一人きりで蜜柑畠にいた。

 ここなら誰にも邪魔されない。本当の自分であれるから、と。


「けれどそこに邪魔者が入ってきたのよ。それがあなた。私は追い返そうとしたけれど、あなたはしつこく来るものだから、私も仕方なしに引き下がったわ。でも、あなたと少しずつ話すようになって――。楽しいと、人生で初めてそう思ったのよ」


 僕はなんだか涙が出そうになった。そこまで思ってくれるなら、何故。


「私ね、ついこの間、公爵令息との結婚が決まったの。別に私が決めたんじゃないけど、親の都合でね。貴族というのは大抵、結婚相手は選べない」


 オレンジ姫の瞳が揺れる。

 僕にはそれが、少し寂しげに見えた。


「明後日挙式で、明日出発する予定。……だから、もうここには来られないわ。ごめんなさい」


 オレンジ姫は申し訳なさそうに頭を垂れる。

 が、別に僕は謝ってほしいんじゃない。彼女の語ったことは本来であれば喜ぶべきことであると思う。

 だが僕の内心は、悲しいというかなんというか、複雑だった。


 ――二度と、オレンジ姫と会えないなんて。


「そう、なんだ。おめでとう」


 こんな気持ちになるなんて、僕はなんて情けないんだろう。

 が、そんな僕に少女はこくりと頷いてくれた。


「ありがとう。あなたと喋ることができて、本当に嬉しかったわ。気兼ねなく話せる人なんてこれまでいなかったもの。あなたは私の、たった一人の友達よ」


 そして彼女は軽く屈み込み、何やらモゾモゾと動く。

 再び立ち上がった少女が手にしていたのは、オレンジ色に輝く熟れたての蜜柑だった。


「私が愛でて、あなたが育てた最高の蜜柑。これを、一緒に食べましょう?」


 オレンジ姫は蜜柑を剥いて半分に割り、片割れを僕へ手渡す。

 僕は「うん」とだけ言って、それを受け取った。それ以上に何かを言ったら弱音を漏らしてしまいそうだったから。


 「せーの」という少女の掛け声で、僕らは同時にそれを口にした。

 口の中に広がる甘酸っぱい味。それは僕の心の奥深くまで染み渡るようだ。


「これが、私からのあなたへの贈り物で、あなたから私への贈り物。どう、美味しい?」


 笑顔で、今まで見たことのないような最高の笑顔で、オレンジ姫は小首を傾げる。

 愛らしくて、たまらなく大好きで。


 それを見て、僕の中で何かが――音を立てて千切れた。


「……どうしたの?」


「いか、ないでよ。ずっと、いて。ずっとここ、ここにいてよ……っ。ひ、引っ越しなんか。だって僕はもっと、もっと……」


 隣にいて、君の姿を見ていたいのに。君とたくさん話したいのに。


 僕の目からは、とめどなく涙が流れ出した。鼻水もずるずるで、なんともみっともない。

 けれど僕はもうどうすることもできなくて、泣いて泣いて、泣き続けた。


 そんな僕を膝の上に乗せて、オレンジ姫は困ったような笑いを浮かべている。彼女の頬にも涙が玉となって光っていた。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「蜜柑、美味しかったよ」


「そう。それは良かった。私も今まで食べた中で、一番好き」


 泣いて泣いて泣き腫らした後、僕らはそう笑い合った。

 気がつけばいつの間にか日暮れが近く、山にはひんやりとした空気が流れている。


「じゃあ、そろそろ私は帰るわね」


「……うん」


「さようなら」


 手を振り、オレンジ姫は別れを言ってそっと緑の木立の向こうへ消えていく。

 僕は思い切り息を吸い、力の限りの大声で叫んだ。


「さよなら! 元気で! 嫌なことがあったら、いつでも戻って来て! 僕はずっと……ずっと……」


 君を、待っているから。






 翌日、蜜柑畠へ行ったが、やはりそこは無人であった。

 次の日もそのまた次の日も、なんだか彼女がそこにいるような気がして足を運んだ。しかしそれは幻想で、二度とオレンジ姫が現れることはない。


 僕はそれでも毎日あの山へ登っては、蜜柑を育て続けている。あそこには、僕と彼女の過ごした日々が宿っている気がするのだ。


 何年かが経ち、立派な百姓となった今でも蜜柑が実る季節になると、僕は彼女のことを思い出す。

 オレンジのように可愛い、あの美しいお姫様のことを。


 彼女は今、幸せなのだろうか。

 いいや幸せに決まっている。あのは、いつもは凛としていて時に優しい笑みを見せる、そんな少女であり続けていることだろう。


 その幸福の中でも、頭の片隅で僕を覚えていてくれていたらいいな。


 僕は忘れない。

 冷たく追い返されたこと、楽しく喋ったこと、一緒に泣いて笑ってくれたこと。


 僕らの甘酸っぱいオレンジの思い出は、永遠に色褪せることはないのだ。

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オレンジの思い出 柴野 @yabukawayuzu

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