パール

ナナシリア

パール

 心地よい朝の陽ざしが差し込む、暖かい春の部屋で、彼はどこかセンチメンタルな情動に呑まれて涙を零した。


 彼は目覚めた直後、なぜか感傷的になって涙を流すことがしばしばあった。


 理由はわからず、目覚めた直後には感じたはずの感傷も、少し時間が経つと春の夜のように儚く消えてしまう。


「……どうしてだろう」


 春の陽気に満ちた部屋も、涙の余韻が引き起こす寂寥感によって埋め尽くされている。


 彼は疑問を胸の内で反芻させつつも、遅れたらいけないと思って誰もいない家中を駆け回って朝の準備を整える。


 そうして家の扉を開くころには朝の感傷など余韻も残さずに消えてしまう。


 それから一日は始まり、普段通りの満たされた学校生活を送る――はずだったのだが。


「……なにか、足りないような」


 本来あるべきものがないような、が記憶からすっぽり抜け落ちてしまったかのような、そんな空虚な感覚が常に彼の心の中に満ちる。


 朝の寂寥感が残していったのだろうか、普段はこんな感情を感じることはないというのに。


「この、『大粒の真珠のような涙』という表現はよく使われる表現で――」


 普段よりも集中して聞いていなかった授業の中でそんな言葉が出てきて、彼は思わず顔を上げた。


 『大粒の真珠のような涙』という言葉を聞いて、本来あるべきがなんなのか、喉元まで出かかっているのに思い出せない、そんな感覚に囚われる。


 先ほどまでは見当もつかなかったので、大きな進歩と言えるだろうが、彼は思い出せないことが歯痒かった。




 結局、彼が欠いたものが一体なんなのか、彼は気づけないままに一日を終えた。


 授業が終わっても自分がなにを思い出せないのか気になって、彼はまだ本来あるべきについて考える。


 俯き加減で通学路を歩いていると、突然誰かに呼ばれたような感覚がして、彼は思わず顔を上げた。


 顔を上げた先には、初対面のはずなのにどこか懐かしい少女が、驚いたような表情で立ち止まっていた。


「……わたしのこと、覚えてる?」


 初対面のはずの少女が声を出した。


 彼は思い違いかと思って後ろを向いたが、そこにあるのは道路を通り過ぎる車だけだった。


「きみだよ、あおいくん。きみはわたしのこと、覚えてないのかな……」


 少女は、彼――碧が自分のことを覚えていないと感づいたようで、その目元には大粒の真珠のような涙が浮かんでいた。


 碧はその涙を見て、走馬灯に襲われたかのような感覚に陥る。


 こんなに大事なことを、どうして今の今まで忘れていられたのか――碧の目からも、自責と謝罪と喜びが入り混じった複雑な涙が零れ落ちた。


真珠しんじゅ……。久しぶり、帰ってきたんだな」


 碧が真珠に向かってそう告げると、その言葉を聞いた真珠の涙はすぐに引っ込んで、笑顔になった。


「覚えてて、くれたの?」

「いや、俺は忘れてたんだ。でも真珠の涙を見て、別れた時のことを思い出して」


 碧と真珠が離れる時、真珠は涙を流していた。


 碧はそれを美しいと思って、強く印象に刻んでいたのだった。


「だから、それが思い出させてくれたのかな」


 先生の、『大粒の真珠のような涙という表現が使われる』との言葉に思わず反応したのも、その影響だったのだろう。


「じゃあ、また一緒にいてくれる?」

「真珠のことを忘れていた俺だけど、それでいいなら」


 真珠は碧の言葉を聞いて涙を流した。悲しみの涙だった先ほどとは違い、今度流したのは嬉し涙だった。

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パール ナナシリア @nanasi20090127

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