第5話


 心の声が聞こえてしまう僕にとって、電車の中は地獄だ。

『あーぁ。今日からまた仕事か』

『あー眠い。仕事休みてぇ』

『今日ミシマさん休みなんだった。ラッキー』

『会社に行ったら、またあの人に顔を合わせるのか……いやだなぁ』

『あ、あのひと可愛い。大学生かな。電車降りたら声かけようかな』

『あーぁ。今日のテストなくならないかなぁ』

『会議ダル……』

 会社員。老人。学生。主婦。

 電車は、不特定多数のいろんな人の心の声で溢れている。

 久しぶりに満員電車に乗ったけれど、ヤバい。ダメだ。頭ががんがんする。

矢峰やみね、矢峰です。お忘れもののないよう、お降り下さい」

 電車が学校の最寄り駅に着いた瞬間、僕は口元を押さえて逃げるように電車から降りた。そのままトイレに駆け込む。

 個室に入って、乱れた息を整える。

「……はぁ。最悪」

 いつもなら、なるべく人が少ない早朝の電車に乗るのだが、今日はうっかり寝坊してしまったのだ。

 深呼吸を繰り返しながら、便座に座り込んだ。

 登校時間ギリギリの電車で、今日に限っては休んでいる時間なんてない。……けれど、またあの人波に巻き込まれる勇気はない。

 もう遅刻してもいいや。人の波が引いてから行こう……。

 登校を諦めて、僕はしばらくトイレで混雑をやり過ごすことにした。


 しばらくして、動悸が落ち着いてからトイレを出ると、すぐ近くに人がいた。危うくぶつかりかけ、慌てて足を止める。

 ――と。

「……あ」

 トイレの前に立っていたのは、花野だった。

「え、あれ、花野? なんで?」

 花野は僕に気が付くと、ぺこりと小さく会釈をした。

 ホッとしたような顔に、思わず心臓が跳ねる。

「あ……もしかして、花野も同じ電車にいたの?」

 訊ねると、花野はこくこくと頷いて、スマホ画面に文字を打って見せてきた。

『顔色が悪かったから、気になった。大丈夫?』

 彼女は時折、こうやって自分の意思を伝えてくれる。

「そっか。うん、でももう大丈夫。それより、もしかして心配して待っててくれたの?」

 訊ねると、花野はこくんと頷いた。

「……ごめん。僕のせいで遅刻になっちゃったね」

 ちらりと時計を見る。今からでは、走ったとしてもとてもホームルームには間に合わないだろう。

『大丈夫。事情を言えば、きっと先生も許してくれるよ』

 彼女はまっすぐな視線を向けてくる。

「……そうだね」と、僕は曖昧な笑みを浮かべた。

 ……どうだろうな。うちの担任は心の声を聞くに、あまり生徒を信用していないようだから。

 駅を出ると、僕たちと同じ制服を着た生徒の姿はなかった。僕と花野は、すっかり人気のなくなった通学路を歩いていた。

 ちらりと花野を見る。

 昨日から気になっていたことが、僕の脳裏をちらついていた。

「あのさ……花野。昨日のことなんだけど……」

 宮本とはどういう関係なの?

 そう訊ねようとして、けれど言葉は途中で詰まって出てこない。 

 黙り込んでいると、花野がスマホをいじり出した。花野は文字を打ち終わると、僕にスマホをかざした。

『お母さんが死んでから、お母さんの姉の宮本家にお世話になってるの。優里花は従姉妹いとこ

 “お母さんが死んでから”

「…………」

 言葉が出なかった。

『みんないい人なんだけど、私、突然喋れなくなっちゃったから、コミュニケーションとるのが難しくて……上手く馴染めなくて。今も、どう接していいか分からない。だからいつも、公園で時間潰してる』

 寂しげな横顔に、ハッとした。

「……もしかして、声が出せないのって」

『お母さんが死んでから。病院の先生に診てもらったら、喉には特に異常はなくて、心因性だって。そのうち治るだろうって言われてる』

「そう……だったんだ」

 やっぱり、軽々しく聞くようなことではなかったと思って反省する。

「ごめん……言いたくないこと言わせて」

 小さく謝ると、花野は首を振り、微笑んだ。

『体調はもう平気?』

「……うん」

 花野はスマホをカバンにしまうと、歩き出した。その背中を見つめたまま、僕はぼんやりと立ち尽くしていた。

 花野は、どんな思いでこのことを僕に打ち明けてくれたのだろう。きっと言いたくなかったはずだ。お母さんの死についても、それがきっかけで声を失ってしまったことも。

 悪意のない興味や好奇心は、ときに残酷な形で本人の心を抉る。

 ……それでも、花野は答えてくれた。僕が、知りたがったから……。

「花野。ありがとう……話してくれて」

 僕の声に気が付いた花野が、不思議そうな顔をして振り返った。

 僕がまだ立ち止まったままでいることに気が付くと、花野は慌てて僕の傍らに戻ってきた。

「……あのさ、花野。……僕、心の声が聞こえるんだ」

 気が付くと、僕は花野にそう漏らしていた。

「中学のとき、突然そうなったんだ。それからちょっと人間不信になりかけて……友達とかも作らなくなった。裏の顔っていうか……みんなの本心に怖くなって」

 でも、と、僕は花野を見つめる。

「花野の心の声だけは、聞こえなくて。だからどうしてか気になってて……」

 言いながら、彼女の戸惑うような表情に気付いてハッとした。

 冷水を浴びせられたように、頭の中が一瞬でクリアになる。

「な、なんて、ごめん。今のは冗談だから……」

 忘れて、と言おうとしたとき、花野が僕の手を取った。

「……?」

 花野はじっと僕を見つめたまま、動かない。

「……信じてくれるの?」

 おずおずと訊ねると、花野は一度だけ頷き、手を離した。もう一度カバンからスマホを取り出し、文字を打ち始める。

『私も、蓮見くんのこと、いつも不思議なひとって思ってた。みんなに好かれる人気者なのに、どこかちょっと、距離を置いた感じがしてたから』

「人気者って……そんなことないよ。僕はただ、嫌われるのが怖くて当たり障りなく接してるだけ。ただの臆病者だよ」

 そう返すと、花野は一度瞬きをした。

『心の声、怖い?』

「……少し。心の中は、みんな容赦がないから。だから……だれかと仲良くなるのが怖いんだ」

 ……心の声は残酷だ。家族ですら、信じられなくなる。

『分かるよ。私も、お母さんが死んじゃってから、大切なだれかを作るのが怖くなったから』

「……そっか」

 彼女もまた、孤独なのだ。家庭に居場所を見つけられなくて、ひとりぼっち。だけどだれにも頼れなくて、ひとりで彷徨さまよっている。

「……ねぇ。僕も、あそこを居場所にしてもいいかな」

 花野は僕を見上げ、首を傾げる。

「あの東屋。すごく落ち着くんだ。あそこは自然の音しかしないし……だれかの声に怯えなくて済む」

 すると、花野は嬉しそうに微笑んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る