第14話 招かれざる婚約者
猫の隠れ家を出たふたりは、足早にコリアード伯爵夫妻の元へと向かった。演奏会の開始時刻まで、あと少しと迫っていたためだ。
伯爵のいる広間の中央まで半分ほど進んだところで、自然とデローニが合流した。眼鏡に顎髭という変装をした彼は、一歩分の距離を保ちながら厳めしい顔つきで歩いている。
アデルが近づいていくと、伯爵の周りにできていた人だかりが自然とはけた。こちらの存在に気づいた伯爵が、よそを向いていた夫人に声を掛ける。
「こんにちは。本日はお招きいただきありがとう」
アデルがドレスを摘んで軽くお辞儀をした。そして手にしていた扇を優雅な手つきで広げる。
その扇を目にした途端、伯爵は目をまん丸に見開いて深く頭を下げようとした。しかし、隣でデローニが咳払いをすると、ハッとした様子で身を起こす。
「や、やあ、ようこそ。……いや、本日はまた、月と太陽が霞むほど大変にお美しい。ア、アド……アデ……」
デローニが何ごとかを耳打ちする。
「アデレイド様」
伯爵は禿頭を真っ赤に染めて、丸々と肥えた手を差し出した。彼は握手をする角度で手を差し出したが、それを掴んだアデルに強引に下向きに返されてしまう。伯爵はさらに顔を赤くしておずおずと身を屈め、彼女の手の甲に軽くキスをした。
目の前で繰り広げられるやり取りを、エレイナは自分だけが取り残されたような気持ちで眺めていた。アデルといると、たびたびこれと同じ、空間が傾くような気分に陥ることがある。今日はあの扇だ。扇の表面に、何か秘密の暗号でも書かれているのだろうか?
エレイナが訝しんでいると、デローニが手のひらを上に向けてこちらを示す。
「閣下。アデレイド様がお連れになっていらっしゃるご令嬢は、クロナージュ伯爵家のエレイナ様でございます」
「はじめまして。エレイナと申します。本日は父が所用で来られないため、わたくしがお邪魔いたしました。閣下と奥方様のご演奏を楽しみにしております」
ドレスを摘んで、エレイナは丁寧にお辞儀をした。伯爵は相好を崩してエレイナに近づくと、手を取って挨拶のキスをした。
「これはようこそ。こんなにかわいらしいお嬢さんをおもちになって、クロナージュ伯爵もたいそうご自慢でしょう。今日は楽しんでいかれるといい」
挨拶がひと通り済むと、伯爵夫妻は演奏の準備を始めた。同時に小間使いがわらわらとやってきて、来客のための椅子を並べていく。ほどなく支度が済んで、演奏が始まった。
まずは、伯爵が得意にしているらしい弦楽四重奏からだ。彼が奏でる繊細なバイオリンの音色と、深みのあるチェロのコントラストが素晴らしい。今日は伯爵夫妻の他に演奏家が何人か来ていて、伯爵家の広間は小さいながらも立派なコンサート会場といった雰囲気を醸している。
優雅な演奏を二曲ほど聞いたところで、エレイナは急にあることを思い出してそわそわしはじめた。そもそも、今日の目的は婚約者であるスタンフィルに会うことではなかっただろうか。会場に入ってすぐに、アデルに猫の隠れ家に連れ込まれてしまったのですっかり忘れていた。
演奏の合間にきょろきょろしていると、アデルが顔を覗き込んでくる。
「どうなさったの?」
拍手をしながら、彼女が囁き声で尋ねた。
「スタンフィル様がお見えになっているはずなんです。今日、彼とお会いする予定でいて」
「そういえばそうだったわね」
アデルはそっけなく応えて、首を伸ばしてあたりを見回す。
「確かにいないわ」
もう一度来客の顔を見渡してみるが、ほどなくして次の曲が始まってしまったので諦めた。来ていないのなら、それはそれで好都合だ。もともと気が進まないのだから、先に延ばせるならそれに越したことはない。
前半の演目が終わって、休憩時間になった。ここから先は演奏を聞きながら、ドリンクやダンスを思い思いに楽しむ時間になる。小間使いが広間の中央に並べてあった椅子を片づけると、来客たちがそこここで立ち話を始めた。やがてダンス向きのアップテンポな曲が流れだすと、一組、また一組とペアが増え、あっという間に華やかなダンス会場となった。
「エレイナは踊らないの?」
アデルが尋ねて、給仕から受け取ったパンチをひと口含む。
「私はあまりこういうのは得意ではなくて……アデル様は?」
「私もいいわ。だって、踊りたい殿方がいないんだもの」
つんと澄ました横顔を見て、エレイナは思わず噴き出した。
「私もです。アデル様が男性だったらよかったのに、とは思いますけど」
思わず言ってしまってから、あっと口を押える。そう心の中で考えたことはこれまでに何度もあったが、まさか口を突いて出てしまうとは自分でも思わなかった。
「す、すみません」
慌てて謝罪を述べると、アデルが楽しそうに声を立てて笑う。
「私も同じことを何度も考えたわ。……ねえ、女性同士でも踊っても構わないと思わない? そうよ、踊りましょう、エレイナ!」
そう言って振り向いたアデルの顔から、一瞬のうちに笑顔が消え去った。彼女のサファイアのような瞳は、エレイナの肩越しにある何かをまっすぐに捉えている。
エレイナが振り返ると、そこには一番会いたくなかった顔があった。スタンフィルだ。
「やあ。やっと会えた」
小柄で地味な男は、上着の前を両手で引っ張って背筋をぴんと伸ばした。緑色のビロードの上衣には金モールで刺繍がされていて、ウェストコートから飛び出たクラヴァットがしゃれたかたちに結んである。
以前に会った時とは違って、だいぶ堂々たる姿だ。このひと月のあいだに一体何があったのだろう。
スタンフィルは足を一歩前に踏み出して、エレイナとの距離を詰めてきた。そして左手でエレイナの右手を取って、片膝を曲げて口づける。
「遅くなりまして申し訳ありません。道が混んでおりまして」
「お久しぶりです、スタンフィル様。ごきげんよう」
エレイナは抑揚のない声で言った。思った通り、彼の着飾った姿を目にしても、口づけを受けても、まったく心が動かない。むしろ少し腹立たしい気分だ。せっかくアデルがダンスに誘ってくれたのに。
「そちらは?」
顔を上げたスタンフィルが、エレイナの後ろに視線を向けた。アデルを紹介しようと振り返ってみて、ハッと驚いた。彼女はこういった類の催しには最も不釣り合いな、厳しい表情を浮かべている。
「エレイナ。こちらの殿方は?」
つんと取り澄ました顔でアデルは尋ねた。彼女が怒っているように見えるのは、スタンフィルがマナー違反を犯したからだろうか。
本来、こういったパーティーのような場では、先に身分の低い者から、高い者へと挨拶をするのが常識だ。彼女の素性を知らなかったとはいえ、今スタンフィルがやったことは、そのルールに反している。エレイナは戸惑いつつも、ふたりに作り笑いを向けた。
「アデル様。こちらダエン侯爵家のご長男でスタンフィル様です」
「はじめまして。スタンフィルです」
彼はアデルが手を差し出すと思っていたらしい。しかし、彼女が一向に挨拶を受ける様子を見せないので、訝しげな視線を向けた。
「エレイナの親友で、アデレイドと申しますわ」
アデルは手を差し出す代わりに、スタンフィルに近づいてぐっと背中を反らした。スタンフィルがあからさまに嫌な顔をする。彼が背筋を伸ばしても、アデルの肩の上に頭の先すら出ない。
両者が睨み合ったまま、時間だけが過ぎていった。エレイナがおろおろしはじめた頃、デローニが急ぎ足で近づいてくる。
「アデレイド様」
「なによ」
「火急の用件がございます」
「あとにできないの?」
「できかねます」
不愉快そうに口を曲げて、アデルは踵を返した。彼女の姿が雑踏の中に紛れてしまうと、エレイナはほっと息をつく。どういうわけか、彼女とスタンフィルの相性はすこぶる悪そうだ。ここは一旦離れた方がみんなのためになるだろう。
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