第15話 不埒な男
スタンフィルが隣で咳払いをしたので、エレイナはアデルを追っていた視線を彼に戻した。
「エレイナさん。いや、エレイナ……と呼んだ方がいいかな?」
急に馴れ馴れしくなった彼の態度に、瞬間的に不快な気持ちがもたげる。しかしそれを心の隅に押しやって、エレイナはよそ向きの笑顔をこしらえた。
「なんでしょう、スタンフィル様」
「まずはダンスでもいかがでしょう。お話はそのあと、どこかでゆっくりするとして」
「かまいませんわ」
そう応えると、スタンフィルはいそいそと手を差し出した。彼の手に自分の手を重ねたところ、小刻みに震えが伝わってくる。エレイナが踵の高い靴を履いているせいで、横に並ぶと背丈がそう変わらないようだ。
ふたりが広間の中央へ向かって歩き出したところで、ちょうど演奏が終わった。すぐに新しい曲が準備され、ダンスの集団に紛れる頃にふたたび演奏が始まる。
ややアップテンポの明るく踊りやすい曲だ。しかし、ふたりは華麗にステップを……というわけにはいなかった。エレイナ自身、ダンスにはあまり自信がないが、スタンフィルの腕前はもっと酷い。
彼のダンスはどことなくぎこちなかった。ふつうは女性の体格や動きに合わせて、無理のない姿勢で踊れるよう男性がリードをするが、彼の場合、力が入り過ぎているのかちっとも融通が利かない。会話をするどころか、視線を合わせる余裕すらないようだ。そのうえ足を踏み出すタイミングが毎度ワンテンポ遅れるので、いつ足を引っかけるかと気が気でない。
――なんだか、板切れと踊ってるみたいだわ。
彼が他の客の動きを目で追っていて余裕がないのをいいことに、エレイナは眉をひそめた。これからは彼と何度となく踊ることになるのだから、ダンスの先生をつけてもらわないと。
長く感じた曲が終わって、エレイナは彼に気づかれないよう、ほっと息をつく。スタンフィルはエレイナの手を取ったまま、次の曲が始まる前にと、急いで広間の端へと誘導した。一曲踊っただけで疲れてしまったのだろうか? ダンスに誘ったのは彼の方なのに。
ちょうど給仕が通りかかって、ふたりでグラスに入ったパンチを受け取る。彼はそれをぐっとあおり、喉を鳴らして一気に飲み干してしまった。思わずエレイナは目を丸くする。
「豪快ですわね」
「そうかな。ちょっと、喉が渇いてしまって」
彼をよく見ると、真っ赤に上気した顔には玉の汗が浮かんでいた。空になったグラスを持つ手は震えているし、やたらとそわそわしているので心配になってしまう。
「あの……大丈夫ですか?」
彼はどんぐりのように小さくて丸い目をこちらへ向けたが、すぐに視線を外した。
「いや? 何も問題はありません」
「でしたらいいのですけど――」
少し様子がおかしい。今日はじめに会った時にはずいぶん堂々として見えたが、やはり緊張しているのだろうか。
「エレイナ」
こほん、と小さく咳払いをして、彼がかすれ声で言う。
「居間に行って、軽く食事でもしようと思うのだけれど、どうだろう?」
「そうですね。行きましょうか」
スタンフィルに手を引かれて、広間の端にある扉から廊下へ出る。途中、アデルがどこかにいるかと気にしていたが、ついに彼女を見掛けることはなかった。火急の用件と言っていたが、まさか離宮へ帰ってしまったのだろうか?
赤い絨毯が敷かれた大理石の廊下には、右手から明るい日が差し込んでいた。左側には大小さまざまな紫檀製の扉がずらりと並んでいて、コリアード伯爵の権威が窺える。その扉ひとつひとつを、スタンフィルが開けて中を確かめていった。
その彼のうしろ姿に、エレイナは不穏な気持ちを抱えたままついていく。
何か様子がおかしい。いくら来客たちが広間でダンスに興じていたとしても、食事が用意されている居間の付近に誰もいないというのはどういうことだろう。本当にこの場所で合っているのだろうか?
「ここだ」
スタンフィルが言って、両開きの扉を開けた。少し安堵したエレイナが、彼に促されて先に中へと入る。しかし、部屋の中には誰もいない。それどころか――
がちゃり、と後ろで鍵を下ろす音がして、エレイナはハッとした。
「スタンフィル様?」
思わず振り返った先には、頬を赤く染めつつ、平凡な茶色をした両目をぎらぎらと輝かせたスタンフィルがいる。奇妙な表情を浮かべた婚約者に気圧されて、エレイナは後ずさりした。
「誰かに入ってこられたら困るのでね。私はあなたとふたりきりで過ごしたいんだ」
彼はそう言って、エレイナが恐れをなしているのにも構わず、じわじわとにじり寄ってくる。エレイナは唇を噛んだ。この部屋にはテーブルがひとつと、長椅子が二脚あるだけで、料理なんて用意されていない。騙されたのだ。
彼に迫られるがまま、エレイナは長椅子に尻もちをついた。が、彼が足を止める気配はない。
このままではまずいことになる――椅子から立ち上がって逃げようと思うものの、恐怖ですくみきった足は役立たずの棒きれのようだ。
「や、やめて。お話をするんでしょう?」
がたがたと震えながら、虫のような声で懇願する。
「そんな子供じみたことを。君は僕と結婚するんだから、その前にキスのひとつくらいしてみてもいいだろう?」
スタンフィルが上ずった声で言って、エレイナのドレスのスカートを膝で跨いだ。上から覆いかぶさるような形になって、短く悲鳴を上げる。両手を掴まれると同時に、欲望に駆られた目がすぐそこに迫った。
「誰か!」
唇を奪われないよう、首を振って必死に抵抗する。
「じっとしてろ」
ドレスの胸元から覗いた胸の谷間に、彼は鼻をうずめた。ざらりとした髭の感触に、全身の産毛が逆立つ。
「いや! 助けて……!」
その時、誰かが廊下を走ってくるような音が聞こえた。その人物は、ひとつひとつ部屋の扉を開けながら、衣擦れの音をさせて近づいてくる。スタンフィルも動きを止めた。聞き耳を立てていると、廊下にいる人物が確かに自分の名前を呼んだ。『エレイナ』と。
「ここよ! 助け――」
叫んだ瞬間に手で口を塞がれた。
「黙れ! 声を出すな!」
エレイナは嫌々をするように首を振って振りほどく。
「助けて! ここにいます! んっ――」
ふたたび口を塞がれたが、今度は先ほどとは比べものにならないほど強い力だった。おまけに鼻まで塞がれて、苦しさのあまりスタンフィルの手首を掴む。このままでは死んでしまう――そう思った矢先、部屋の扉ががたがたと鳴った。
「エレイナ! 待ってて、すぐに助ける!」
外に響いたのはアデルの声だ。どすん、どすん、と体当たりするような音が何度も聞こえる。しかし、もう息が続かない。そろそろ限界だ――そう思った瞬間に、ドアが蹴破られてアデルが飛び込んできた。
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