第36話 皇帝の来宮



 鈴花は西宮の自室の窓から、ぼんやりと花見をしていた。

 まだ咲いていないが、桜のつぼみが膨らみかけているのを見るのも風流なものだった。


 怠惰だとは思うが、いまは何かをする気になれない。まるで蝉の抜け殻だ。

 むしろ、この半年近くが怒涛すぎた。少しくらい休むべきだろう。


 ――白鈴花は、後宮妃としては一番の古参だ。


 皇帝である黄景仁コウケイジンが即位した翌年に、紅珠蘭と共に後宮入りした。

 その翌年には蒼月瑛と黒雪慧が後宮入りし、四妃の体制が整った。そして紅珠蘭が死に、黒雪慧が去り。

 紅明璃が訪れ、玄静麗が訪れ――玄静麗が死に、蒼月瑛が死に。


(……後宮は、兄様が言っていた通りだった……黄泉よりも暗くて淀んでいる)


 現在、白家の当主である兄は、鈴花を後宮に送る際「龍の子を産んでもいい」と笑っていた。


 ――そんなことはありえない、と鈴花は思ったものだが。


(本当に、何が起こるかわからないものだ)


 後宮――いや、宮廷という場所は、内側でも外側でも、様々な思惑が渦巻いている。


(だがやはり、有り得ないな。いまだ、皇帝の顔すら知らないのだから)


 それにしても、皇帝も難儀なことだと思う。

 次代の龍器をつくらなければならないのに、後宮がこの調子では、いったいどうなることか。


(まあどうせまたすぐに、新しい妃が入ってくるのだろう)


 散った花のことなど、誰もがすぐに忘れてしまうだろう。

 どんな色だったかも、どんな香りだったかも、誰も思い出さない。名前だけが墨で書き残されるだけ。儚い花だ。


「――白妃さまっ」


 黄昏ているところに、琳琳が部屋に飛び込んでくる。

 何故かとても興奮した様子で。


「ついに、ついにです」

「何がだ」


 問うと、わずかに声を潜めて。


「――今夜、陛下がいらっしゃられます」

「……………………は?」

「早く準備なさってくださいいぃぃ」

「……え?」




 それからは、怒涛の準備が行なわれた。


(気合いが入りすぎじゃないか……?)


 鈴花は磨きに磨かれた。応援の女官もやってきて、髪も肌も磨き抜かれた。色々と塗り込まれ、鈴花はずっとされるがままだった。


 そして、部屋に一人取り残される。

 いつも暮らしている部屋なのに、ひどく落ち着かない。


 そういうことにはならないとわかりきっているから、余計に落ち着かない。

 何を勘違いしているのかと皇帝に呆れられるだろう。


(いいえ、私は勘違いしていません。ですが私の可愛い女官が張り切ってくれたものですから、水を差したくなかっただけです。さあ、今度はいったい何を調べろと? ――こんな感じか)


 心の中で台詞の練習をしながら、その時を待つ。


 ――人が宮に訪れる気配を感じて、鈴花は寝台の上に座りなおした。

 頭を下げて、顔を伏せて、扉が開くのを待つ。


 ちゃんと弁えている。

 そういうことにならないのに、顔を見てはいけない。玉体を見てはいけない。


 扉が開き、男の気配が入ってくる。そして、ゆっくりと扉が閉まる。

 そのまま、練習していた台詞を言おうしたとき――


「鈴花」


 聞き覚えのある声で名前を呼ばれ、どきりとする。

 どうすべきかわからなくなり固まっていると、更に声がかかる。


「顔を上げてくれ、鈴花」


 少し緊張したような、懇願するような。

 声に応じてゆっくりと顔を上げる


 そこにいたのは、皇帝の装いをした焔だった。


「…………」


 ――ただ。

 彼が身に纏う空気はいままでとは違った。

 あたかも、火焔が身を包む龍のような堂々たるものだった。


 その姿を見上げ――鈴花は肩を落とし、深くため息をついた。


「……鈴花?」

「……いや、すまない。こんなときまで影武者を寄越すのかと思っただけだ――」


 気を取り直し、姿勢を変えて座りなおす。


「お前も大変だな。それで、今度は何を調べろと?」

「鈴花」

「ん?」

「俺が、皇帝黄景仁コウケイジン……いや、この名前は、やはり違うな……俺は、黄焔コウエンだ」


 ――理解が追いつかない。


(どういうことだ? 焔が、皇帝? 影武者ではなく? 黄景仁でないとは、いったい――……)


 鈴花は顔を両手で押さえ、細く呻いた。


「わけがわからない……」

「最初から話させてほしい。かなり、長くなるかもしれないが」


 その瞬間、鈴花は悟った。

 話を聞いてしまえば、もう戻れないだろうと。知らなかったころとはまったく別の場所に行くことになるのだろうと。


 だが、焔が話したいと思っているのなら、聞きたい。


「――いいさ。夜は長い。朝までだって付き合うよ」


 そしてここには二人きりだ。誰にも話を聞かれる心配はない。

 笑いかけると、少し安心したような笑みを浮かべる。


「その前にひとつ確認しておきたいのだが」

「何だ?」

「本当に、皇帝なのか?」

「そうだと言っている」


 頭がくらくらする。そのまま倒れてしまいそうになるところを、ぐっと堪える。


「私が皇帝だと思って話していた皇帝は――お前だったのか……?」

「そうだ」


 ――いったい、いままでどれだけの無礼を働いてきたか。

 鈴花は今度こそ、倒れる代わりに頭を下げた。


「忘れてください」

「えっ?」

「私の所業をすべて忘れてください」

「いまさら他人行儀にならないでくれ」


 少し困ったように言う。


「俺はいま、焔だ。景仁の名は、天にいる従兄に返す」


 焔が微笑む。

 その笑顔には間違いなく、市井育ちの柔らかさがあり、けれどその瞳には新たな炎が灯っていた。


 鈴花の胸を熱くさせる炎が。



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