第35話 結末
鈴花が問いを発した瞬間、一瞬だけ蒼月瑛の視線が動く。
立ち上がった鈴花は、その先へ――棚に置かれた漆塗りの小物入れの方へ行き、蓋を開けた。
中には、彼女がよく身に着けていた水晶の首飾りが収められていた。そっと、手に取る。
「やはり、見事なものです。……あら? 少し短くなっていませんか?」
思ったとおりだった。
以前見たときよりも、長さが短くなっている。
蒼月瑛の横に行き、そっと首にかけるとよくわかる。
「ほら、やっぱり」
「…………」
「切れてしまったんですね。その時に、球を失くしてしまわれました?」
「…………」
蒼月瑛は何も言わない。
何も言ってなるものかという意思を感じる。
「実は私、似たようのものを拾っているんです」
――コトン。
池の中で拾った水晶の欠片を、卓の上に置く。
「水晶の加工や、こうして穴を開けるというのは、とても難しいそうですね。とても、固くて」
穴の開いた水晶玉を、指先でころころと転がす。
それを再び摘まみ上げ、首飾りの横に添える。
「――まあ、大きさもぴったり。どこで拾ったと思います?」
「…………」
「これが落ちていたのは、池の中です」
玄静麗が池に突き落とされた際、蒼月瑛の首にかかるそれをつかみ、引きちぎったと見ている。
「――実は、玄妃に一部を贈ったのです。彼女も、怖がりなところがありましたから。糸を切り、短くして、分けたのです」
やはり、彼女は隙を見せない。
鈴花は嬉しくなった。それぐらいしたたかでないと、後宮で生き抜くことはできないだろう。
「まあ……そうだったのですね。私はてっきり――ではこれは、玄妃の形見にもなっているのですね。お返しします」
水晶の珠を卓の上に置き、鈴花は姿勢を正した。
「では、そろそろ失礼させていただきます」
そう言うと、蒼月瑛の肩からわずかに力が抜ける。
ほっとする蒼月瑛の首には、赤い線のような痣があった。――首飾りを引きちぎられたときに、跡がついてしまったのだろう。
大部分は回収したが、池に落ちたものは回収しきれなかった。そこに鈴花がやってきたので、諦めて去らざるをえなかった。
「ところで、お気づきですか?」
「何をでしょうか」
「――紅妃の赤い髪が、ずっとあなたの首にかかっていることを」
激しい音を立てて、蒼月瑛が椅子から立ち上がる。
振り返って後ろを見る。だが彼女の瞳には、自分の部屋しか映っていないだろう。
もしかしたら、形を得た妄想が見えたかもしれないが。
血色の悪さを隠す化粧が無意味なほどに、顔が青ざめていた。
「私の力は霊が少し見える程度のものですが……ずっと、紅妃はあなたの後ろにいらっしゃいますよ」
蒼月瑛の身体はガタガタと震え、瞳は怯え切っていた。
それが、縋るように鈴花を見ていた。
「そんな……どうしていままで教えてくださらなかったのです?」
「言ってどうにかなるものでもありませんし、憑いている理由もはっきりできませんでしたから、怖がらせてしまうだけになるのなら、言わない方がいいと思っていたのです」
これは本当だ。紅珠蘭が死んでから、ずっと蒼月瑛の周囲に紅い影が浮かんでいた。
――おそらく、蒼月瑛が不眠に悩まされ始めたのはその頃からだろう。
日を追うごとに、痩せていっていた。堕胎薬の副作用かもしれないが。
「それに、いらっしゃるのは紅妃だけではございませんし」
絹が裂けるような悲鳴を上げ、蒼月瑛は椅子を手にして辺りに振り回す。
数度思いっきり椅子を振って棚を壊し、鏡を割る。
あまりの騒ぎに、東宮の侍女が駆けつけてきたほどだった。
「蒼妃様……! いかがなさいました」
「い、い、いるわけがない……幽霊なんているわけがない……ねえ、わたくしの首に何かある?」
「あ……はい……赤い線のようなものが……」
「いやあぁああぁぁ! あの女……あの女ぁ……!」
「蒼妃様!」
二人の侍女に宥められながら震える蒼月瑛に、鈴花は言う。
「矛盾した心をお持ちのようですね。ですが、人間とは得てしてそういうものです。それに心の底ではわかっていらっしゃるのでしょう? だから私にも親切にしてくださったのでしょうから」
その言葉に、蒼月瑛は何かを思い出したように大きく息を吸った。
「――だって、だってあの娘、白妃様を殺そうとか言うから」
「…………」
「許せなかったんです……わたくしの白妃様を、手にかけようとするなんて……ええ、玄妃を池に突き落としたのはわたくしです。でもそれは、白妃様をお守りするため。正義ゆえの行動です」
その経緯は、もしかしたら本当かもしれない。
龍泉水が原因かもと玄静麗が言い出したから、証拠隠滅か――犯人に仕立て上げるために、殺したのかもしれない。
鈴花には真実はわからない。
わかるのは、蒼月瑛が玄静麗を殺したという事実だけだ。
「助けて――助けてください、白妃様」
縋るような、媚びるような視線を、鈴花は静かに見つめ返した。
「紅妃のことは?」
「わたくしはただ、黒家の侍女と世間話をしただけです!」
激しく叫んだ直後に大きく咳き込む。
鈴花は静かに、卓の上で無事だった茶碗を持ち上げた。茶は既に冷めきっていた。
それを、蒼月瑛の前に運ぶ。
「喉が渇いているみたいですね。どうぞ、お飲みください」
蒼月瑛は大きく目を見開き、目許に涙を滲ませて首を横に振った。
「蒼妃が淹れてくださったお茶ですよ。ぬるくなっていて、飲み頃です」
身体が怯えて震えている。毒を入れているのだと自白しているようなものだ。
やはり蒼月瑛は、鈴花も葬ろうとしていたのだろう。
無色教への信心の元にか、あるいは保身のためか。
鈴花は無言で茶碗を卓の上に戻し、部屋の外へ向けて歩き出した。
「待って――助けて!」
去る鈴花の背中に、悲痛な声がかかる。
「あなたは既に黄泉路の中。死者を連れ戻すことはできません」
心が黄泉に引き寄せられている者は、もう帰ってこられない。
彼女はもう、首まで浸かってしまっていた。
翌日、自室で死んでいる蒼月瑛が侍女により発見された。
服毒自殺だったという。
机の上には、何通もの文が置かれていた。
自分の犯行のすべてと、そして死者に許しを請う文が書き連ねられていたという。
それを聞いたとき、鈴花は思った。
きっと書き終わった瞬間、蒼月瑛は解放されたような気持ちになっただろう。
許されたような気持ちになっただろう。
そしてそのまま、自ら命を絶った。
(――繊細な御方だ。よく、このような恐ろしいことを、よく次から次へと出来たものだ)
走り出してしまったら、それを最善と信じて進み続けるしかなかった。そして、黄泉路に足を踏み入れた。
もう帰ってこられない場所まで。
文の中には、鈴花宛の手紙もあった。
『お先に失礼いたします。いつかまた、あなた様と出会う日を、楽しみにしております』
鈴花は蒼月瑛を探してみたが、彼女の姿はもうどこにもなかった。
その後、皇帝は無事に回復した。
黄龍の出現もあっての、復活。これにより皇帝の威光はますます強まるだろう。少なくとも皇帝・黄景仁が生きている間は、安定した御世になるだろう。
龍泉水は永遠に禁止されると共に、水が湧き出る地の周囲は立入禁止区域となった。
その際、龍泉の調査もされたが、特に異常を示すようなものはなかったという。
水はいまも、湧き続けている。
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