第34話 蒼妃
――翌朝、後宮は騒然となっていた。
入内してきたばかりの玄静麗が死体となって発見されたのだ。しかも場所は紅珠蘭が死んでいたのと同じ池。
衝撃的な事件は瞬く間に後宮を駆け巡った。
「玄妃さま、自殺なんですってね……何でも、遺書が見つかったとか……」
朝餉の時間に、琳琳が暗い顔で言う。
「遺書の内容は?」
「病を持ち込んだことを気に病まれていたみたいです……」
鈴花は嘆息した。
遺書が見つかったことも、その内容も、これほど早く女官たちの間にまで出回るとは。それだけ関心が高いということなのだろうが。
(生者の口は軽いな)
遺書の内容は知っている。
あの後、鈴花は北宮にこっそりと忍び込み、机の上に一通の文を発見した。
(何の変哲もない遺書だった)
それはそのまま同じ場所に戻し、髪と目を黒く染めて女官に変装して、警備の人間に池に誰かが浮かんでいると伝えた。
(――他に、文はなかった。あのときの焚き火で燃やされたのだろうな)
そこには真実に繋がるものがあっただろうが、燃えてしまえば二度とわからない。
朝餉を食べ終わり、立ち上がる。
「出かけてくる」
「どちらへ? しばらくはおとなしくされていた方がいいかも――」
「蒼妃のところだ」
「お供いたしましょうか?」
「いや、琳琳はここで待っていてくれ。きっと、長くなるだろうから」
鈴花は、琳琳の心配そうな顔をほんの一瞬だけ見つめた後、部屋を出た。
東宮の庭では、白く細い煙が立っていた。
近づいて覗いてみると、焚き火をしている蒼月瑛の姿があった。その背中は、疲れと悲しみに包まれていた。
「おはようございます、蒼妃。何をなさっているのですか?」
「白妃様……おはようございます。反故を、燃やしていたのです」
「まあ……」
鈴花の表情の意味を、蒼月瑛はすぐに理解したようだった。
「庭で焼くのは良くないとわかっているのですが、私的なものを誰かに任せる気にはなれなくて」
言いながら、近くに置いていた水をかけて消火する。
もう、ほとんどが灰になっていて、読めそうなものは残っていなかった。
「せっかく来られたんですから、お茶をどうぞ。是非飲んでいただきたいお茶があるのです」
――いつもの、蒼月瑛の部屋。いつもの席。いつもと同じように丁寧に淹れられていく茶。
茶が入った青磁の器が、鈴花の前に置かれる。白い湯気がふわりふわりと漂っていた。
蒼月瑛は深く息を吸った後、ゆっくりといつもの席に座った。
鈴花は、蒼月瑛の顔をじっと見つめた。彼女の目には、深い疲れが滲んでいた。
「蒼妃、大丈夫ですか?」
「はい……」
「……二人きりでお話しさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
鈴花が頼むと、蒼月瑛は侍女を下がらせた。
部屋の中にも、近くにも、誰もいなくなる。
本当に二人きりだ。
「ありがとうございます。それでは……蒼妃のところに、玄妃からの手紙が残っていませんか? よく文を交わしていたのでしょう?」
「……申し訳ございません。つい最近、ほとんど処分してしまっているのです。ほら、あまりにも量が多くて、かさばってしまうものですから。こんなことになるとわかっていたら……」
「そうですか……彼女の人となりが少しでもわかれば、と思ったのですが」
「申し訳ございません」
蒼月瑛は静かに頭を下げる。
「――蒼妃は、玄妃のことをどう思っていましたか?」
「妹のように思っていました」
「変なことを訊きますが……恨みはなかったのですか?」
「あるわけがございません」
強い語調で言い切る。
「そうですか。玄妃はどうやら、蒼妃に負い目があったようでしたので」
「……白妃様にそこまでお話ししていたのですか……」
蒼月瑛は力なく言い、俯き、肩を落とした。
「――父が、死病に臥せった時、玄家に龍泉水を頼んだことがあるのです」
「まあ……」
「ですが、効果があまり出ず、父はそのまま亡くなりました。わたくしどもは天命だと思っていますが、そのことを気に病んでいたのでしょうね」
「――蒼妃は、どうして玄妃が身投げしてしまわれたと思いますか?」
「……わたくしには、彼女の心の内はとてもわかりませんが……ただ、少し繊細なところのある方でしたから、心労が重なってしまって、突発的に……ということはありえると思います」
その言葉に、鈴花も頷く。
蒼月瑛の緊張が少しだけ解けたが、いまだ物憂げな表情で続ける。
「悲しいことばかり続きますわね……黒雪慧様の御子の姫も、死産だったようですし」
――初耳だ。
相変わらず、情報網が広い。
蒼月瑛は続ける。
「まるで、ひとつの大きな意志に、後宮が飲み込まれてしまっているかのようです……」
「大丈夫でしょう。空に黄龍が現れましたから。都も大変な祭りになっているということですよ。皇帝への畏敬の念はますます強まるでしょう」
鈴花は明るい声で言う。
蒼月瑛の口元が少しだけ強張っていた。
「ですが、困っている人々もいるでしょうね。蒼妃――無色教、というものをご存じですか?」
「ああ……昔からある宗教ですが、最近勢いを得て信者数を増やしているそうですわね」
「その教義の目指すものは、身分の上下のない世の中」
「…………」
「――彼らにとって、皇族も貴族も邪魔なのでしょうね。身分の上下のない世には、私たちは不要……存在してはならないものです。黄龍の出現も、彼らには忌々しいかもしれません」
鈴花は、部屋にある水晶の蓮の置物を見る。
以前からずっとこの部屋にあった置物を。
「ここからは、私の推論になります。失礼なことを言うかもしれませんが、聞いていただけますか?」
「白妃様のお話でしたら、いくらでも」
「ありがとうございます。ではまず――あなたは、無色教の信者でしょう?」
蒼月瑛は困惑を顔に浮かべる。
しばらく間をおいて、慎重に言葉を紡ぐ。
「……教義には非常に興味深いところがありますが――」
「無色透明の蓮が、無色教の象徴だそうですよ」
「……あれは、ただの偶然です」
置物を見ながら、少し怒ったように言う。
「実際どうなのかは、調べれば済むことです」
調べる方法はいくつかある。無色教の寄進記録や、蒼家の帳簿など。皇帝の勅命なら可能だろう。
「もちろん、そのようなことはしませんが、蒼妃が教義を信じているとして、話を続けます」
「…………」
「あなたは教えに則り、身分差のない世界をつくるため、皇帝を殺そうと思っていた。だが、本人に手を出すにはあまりに障害が多すぎる……だからまずは、皇帝の子を身ごもった紅妃と、黒妃を、一緒に始末しようと考えた」
「…………」
「黒妃の侍女に紅妃の妊娠を教え、うまく唆して凶行に手を染めさせた。これで、一気にふたりの妃が片付きます」
「…………」
「自分自身は、堕胎薬を呑んで、妊娠を避けていた。この宮の付近には、鬼灯が多く植わっていますよね。鬼灯の根は堕胎効果があると、医者から聞いたことがあります」
皇族を消すのが目的なのに、増えてしまったら大変だ。
ましてや自分が妊娠するなど、避けたいところだろう。
「――あまりに、荒唐無稽なのではないですか?」
鈴花は微笑み、話を続けた。
「次に、玄妃に入内の際に龍泉水を持ってこさせた――あなたはとっくの昔に気づいていたんです。この水こそが、『紫涙の変』で皇族たちを殺したものだと。きっと、お父上の姿を見て。そしてそれを天啓だと思ったのでしょう」
「…………」
「その後、入内し……そして今年、新年の宴で大々的に振る舞わせた。生き残っている皇族を今度こそ始末するため。これで、世の中が変わると。身分の上下のない幸福な世が誕生すると、信じて」
鈴花の話がいったん終わると、蒼月瑛は悠然と微笑み、わずかに首を傾げた。
「……面白いお話ですわね。ですが、証拠はありますか? わたくしも死にかけたのですわよ」
「あなたは証拠を残すような人ではない。うっかり失言する人でもない。私のやり方は、あなたが一番傍で見ていたでしょうから」
水晶の蓮の置物を、ちらりと見る。
「あの水晶――無色の蓮も、ただの置物とおっしゃるでしょう。鬼灯に堕胎効果があるなど知らなかったと言い切るでしょう」
鈴花は口元に笑みを浮かべる。
「いいんです、それで。すべて、私の、妄想ですから」
鈴花は濃い色の茶が入った茶碗を一瞥し、手は付けずに蒼月瑛の顔を見る。
「――白妃様の御心が、見えません……」
「人の心の内など、誰にわかりましょうか。ところで、あまり、眠れていないようですね」
先日見た時よりもさらにやつれている。
顔色が悪く、隈も濃く、化粧で隠しきれていない。
「……己の手を汚していないとしても、罪の意識はある。それでも、一度始めてしまえば、止められない。目的は最後まで遂げなければ、正しかったことだと言い切れなくなってしまうから」
「…………」
黙り続ける蒼月瑛を、じっと見つめる
「正当性を守るために、あなたは罪を犯し続けた……玄妃のことは、口封じですか?」
この言葉には、さすがに蒼月瑛も怒りを露わにした。
「――白妃様、さすがにそれは……玄妃様には遺書もあったのですし……」
「遺書は、あなたが書いたものでしょう? よく文を交わしていたなら、筆跡も、内容も、偽造は簡単だったでしょう」
「……ひどい言いがかりですこと」
声が震えていた。
鈴花は気にせずに続ける。
「蒼妃。あなたがよく身に付けていた、水晶の首飾りは、いまどちらに?」
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