第33話 玄妃


(――なんという瑞兆。これで皇帝の威光もますます強まるだろう)


 夕暮れの空に浮かぶ黄龍の雲を見つめながら、鈴花は確信する。

 そして、動き出す。


 まず、水差しに入った龍泉水は、庭に捨てた。雪をわずかに溶かして、土に染み込んでいった。

 空になった水差しをその場に置いて、鈴花は北宮へ向かう。玄静麗のところへ。


 ――訪問するまでもなく、玄静麗は北宮の庭にいた。

 小さな焚火の前に立ちながら、西の空を呆然と見ていた。

 そこに浮かぶ黄龍は常に形を変えながら、少しずつ霧散しかけている。

 だがその威光はいまだ衰えがない。


「――玄妃」


 ぼんやりとしている玄静麗の背中に声をかける。

 玄静麗はわずかに肩を震わせ、鈴花の方を振り返った。


「あっ……白妃様……」

「素晴らしい瑞兆ですね」


 西の空を視線を向け、微笑む。

 玄静麗は少し警戒心を緩めたようだった。


「ええ、本当に。皇帝陛下の御代は、きっと素晴らしいものになるでしょう……」

「私もそう思います。――ところで、何を燃やしていらっしゃるのですか?」


 焚火の中には落ち葉と紙が混ざっていて、火によって灰になって崩れていく。


「反故や、不要な紙たちを……あまりにも色々持ってきてしまって、置き場所がないのです」

「わかります。でも、ここで燃やすのは危ないですよ。火事になったら大変です。纏めて燃やす場所がありますから、次からはそちらでした方がいいです」


 白く降り積もり灰たちを見つめ、鈴花は言う。玄静麗は困ったように頬に手を当てた。


「まあ、申し訳ございません。教えていただいてありがとうございます。気をつけますわ」


 鈴花は微笑んだまま、数歩前に進んで玄静麗との距離を縮める。


「白妃様?」

「玄妃、どうしてこの度、龍泉水を持ち込んだ?」


 鋭い声で問いかけると、玄静麗の顔が引きつった。


「ありがたい霊水だからか? 誰かに要請されたか?」

「あ、あの……白妃様?」

「――それとも、毒を仕込むのに都合が良かったからか?」

「まさか!」


 激しい勢いで否定する。

 パチパチと鳴く焚火の音も掻き消すほどに。


「そんなことは絶対にいたしません! 我らが皇帝陛下に献上するものに、そんなことをするわけがございません!」

「――そうだな。露見すれば、ただではすまない。一族郎党、玄家に連なるすべての者が責を負う。長きに渡って汚名を被ることになろう」


 鈴花は冷静に話す。

 そうして表舞台から落ちていった貴族の記憶はまだ新しい。


「そのとおりでございます。それに、毒見だって、誰も何の反応もしていなかったでしょう……毒など、入っているわけがございません」

「遅効性……症状が出るのが遅い毒というものもあるが」

「――いくら白妃様といえ、あまりにも無礼ではございませんか? そこまでおっしゃられるのでしたら、何か証拠がございますのでしょうか」


 自信のこもった強い眼差しだった。


「ならばこの度の病は、ただの疫病と?」

「もちろんでございます」

「証拠は?」

「……それは……」

「うん。見えないものを探すのは難しい。病の証拠も、毒の証拠もない。調べようもない」


 鈴花はわざとらしく肩を竦める。

 玄静麗は険しい表情で、鈴花を睨んでいた。


「質問を変えよう。誰が、龍泉水を献上しようと言い出した?」

「それは――……白妃様には関係のないことでございましょう」

「なるほど、心当たりはあるようだ。何も知らないというわけではなさそうで、安心した」

「……わたくしを拷問にかけるおつもりですか。何の権利があって?」

「まさか。玄家の姫にそんな恐ろしいことはしないよ。私はただの妃の一人。そんな権力はない」


 玄静麗はその言葉を聞き、ほっと安堵の息を吐く。


「――ところで、ご存じかな。後宮の地下に、巨大な霊廟があることを。蒼妃から聞いていたりするかな?」


 玄静麗の美しい顔が青ざめ、強張る。


「いまはもう誰もそこにはいないが……逆に言えば、充分な空きがある」

「……なんの、おつもりですか……」

「白家の力をご存じかな? ほとんどの者は知らないし、聞いたことがあっても信じてはいないだろうが……白家の人間の中には、死者と話すことができる者もいる」

「まさか……」


 震える玄静麗に、鈴花はにこりと微笑んだ。


「生きている内は口が堅くとも、死者となればどうなるだろうか……試してみようか?」


 身体を硬く強張らせる玄静麗の目を覗き込み、離れる。


「――ところで、私たちの宮の間には、美しい池があるのはご存じかな。夏でも涼しく、蓮の綺麗ないい場所だ」

「…………」

「私は月夜に宮を抜け出して、そこを散歩するのが好きなんだ」


 言って――焔の血がついた衣の裾を翻し、池の方に――西宮に向けて歩き出す。

 玄静麗の視線をずっと背中に感じた。


(さて、見え見えの罠だが、これでどう出てくるか)


 脅してくるか、懐柔しようとしてくるか、しらを切りとおすか、消そうとしてくるか。あるいはすべてを白状するか。


 自分を囮にする作戦である。

 鈴花には、これぐらいしか張れる罠がない。


(できれば、わかりやすい形で来てほしいものだが……)


 周囲に雪の残る池を眺めながら、思った。




◆◆◆




 その夜の月は一層美しかった。

 夜が深まるころ、鈴花は防寒具を身に着けて、誰にも言わずに西宮を出た。


 銀の光に照らされた後宮の庭を、ひとりで歩く。昼間に溶けずに残っている雪のかたまりを避けながら。

 澄んだ静寂の中に、足音だけが響いた。


 鈴花は、夜空を見上げながら静かに息をついた。息が凍って白くなり、頬に冷たい空気が触れる。


(寒さが身に染みる)


 冷たい風が、首元を撫で上げる。

 鈴花はぶるっと身を震わせる。早く用事を済ませなければ、凍え死んでしまいそうだ。


 足を早め、池の方に向かう。

 ――その時、足音らしきものが聞こえ、鈴花の心臓が高鳴った。


 ――人だろうか。獣か鳥だろうか。あるいは雪が落ちてきた音だろうか。


 鈴花は慎重に足を運び、池の近くにまで来る。

 そして、揺れる水面に浮かぶものを見て目を見張った。


 池には、玄静麗の死体が浮かんでいた。

 長い黒髪が、水面で月光に照らされていた。


 明らかに死んでいた。うつ伏せで水に浮かんだまま、まったく動かない。

 周囲に人の気配もない。鈴花は警戒しながら池に近づく。


(足を滑らせて落ちたか、身を投げたか……)


 この寒さ――湧き水である池の水温は一年中一定だが、一年中冷たい。

 きっと、この寒さもあって心臓が一瞬で止まっただろう。

 だったらそんなに苦しまなかっただろうか。


(まさか、こんなことになるとは……)


 鈴花に接触してくると思っていたのに、まさか玄静麗がひとりで池で死んでいるなんて。


 龍泉水を持ち込んだことで皇帝が倒れたことで、自責の念に駆られて身を投げたか?

 疫病を広めてしまったことを気に病んだか?

 誰かを庇うために、自ら口を閉ざしたか?


 あるいはもっと別の理由か。


「…………」


 冷たい風が水面を揺らす中、鈴花は腰帯に巻いていた鈴をほどき、手首に巻く。


 ――鈴を鳴らす。


 腕を振れば、鳴らない鈴が鳴る。

 身体に宿る神鈴は、現世と幽世の境を曖昧にさせる。


 玄静麗の魂が、水に浮かぶ死体の上に姿を見せる。

 透き通った姿は、幽かな光を放ちながら、池の水面に映る月の光と混じり合っているようだった。


 その目はただ水面を見つめ続けている。


「玄妃、何か伝えたいことはあるか?」


 問いかけるが、玄静麗は口を閉ざしたままだ。何の反応も示さない。


(やはり、話すのは難しいか)


 玄静麗は黙したまま、虚ろな眼差しで水面を見つめ続けている。

 その視線の先で、何かが月明かりを受けてきらきらと光っているのに気づいた。


(何かがある……)


 鈴花は意を決し、靴を脱ぎ、裾をたくし上げる。

 ゆっくりと、水に足を踏み入れる。


(冷たい……だが、凍るほどではないな)


 やはり、身体が瞬く間に凍るほどではなかった。

 玄静麗が命を落としたのは、飛び込んで一気に体温が下がったか、衣が水を吸って溺れたか、もしくは誰かに頭を押さえられたから――だろう。


 慎重に玄静麗の視線の先に行き、水面下に手を伸ばし、ついにそれを拾い上げる。

 それは、小さな水晶の球だった。月明かりに通すと、きらきらと輝いて――まるで、涙の結晶のようだった。


(……ああ、なるほど。そういうことか……)



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