第30話 後宮の医務室
後宮の医務室は、天寧宮の一角にある。
薬草園になっている庭では、冬のさなかでも、月桂樹の緑が冷たい雪と風にひっそりと耐えていた。
鈴花はそれを横目で眺めながら、医務室へと足を踏み入れる。
――薬の匂いがした。わずかに苦く感じるものの、どこか安心する匂い。
室内は整然としていて、壁にはたくさんの引き出しのついた棚が並べられている。その上には瓶詰めの薬がこちらもまた整然と並んでいる。棚の中はおそらく、薬の材料なのだろう。
調合用の各種の器具も、調合台に整列していた。どれもしっかりと使い込まれている風合いがあった。
部屋の中央には卓が一つあり、その前に後宮医が立っていた。
白髪の宦官だ。年齢は五十ぐらいだろうか。彼の目と表情は穏やかで、目元に刻まれた皺は、長らく後宮で生き、あらゆるものを見てきた人間のものだと思えた。
「どうぞ、お座りください。白妃殿下」
「――
話はすでに通っているようだ。
尹隆の穏やかな声に促され、椅子に座る。
(――彼が、紅妃の検死をしてくれた後宮医か)
部屋の中に二人きりになる。病が蔓延して忙しい状態だろうに、雪が葉から滑り落ちる音がよく聞こえるくらい、静かだった。人払いをしているのだろう。これも、皇帝の勅命効果か。
「尹隆殿は、この度の病、どのように考えている」
鈴花はずばりと切り込んだ。
悠長にしている心の余裕がなかった。
尹隆の目が一瞬細くなる。彼は一瞬何かを計っているかのような表情を見せた後、慎重に口を開いた。
「……この症状は、龍涙疾とよく似ています」
「それは……紫涙の変の?」
慎重に言葉を紡ぐと、尹隆は目を閉じ、静かに頷いた。
「全身に現れる紫斑と高熱。意識の低下……食欲不振に関節の痛み……私の記憶と合致しています。特に、特徴的な、鱗のような紫斑……間違いないでしょう」
「その時患ったのは、皇族ばかりではなかったか?」
問うと、尹隆は黙する。
鈴花は気にせず、言葉を続けた。
「私は、今回罹っている者たちは、少なからず――龍の血を引いていると考えている。私が無事なのも、そのためではないかと」
「……確かに、特定の血族のみ発症する病というのは存在しますが……」
尹隆はそれ以上は口を噤んだ。
(やはり、そういう病はあるのか)
それがわかれば充分だった。新しい情報を得られ、仮説が強化される。
「――ひとつ、確認したい。尹隆殿は、龍泉水を知っているな?」
「ええ、もちろんでございます」
「尹隆殿は、龍泉水は飲んだのか?」
「いいえ」
「そうか……あの水は、無色透明で、ほんのりと甘くて、飲むと熱くて、くらくらした……酒精でも入っているのかと思ったほどだ」
その味を、その後の高揚感と酩酊感を思い出しながら語る。
あれは普通の水ではなかった。
「今回罹っている者たちは、龍泉水を飲んだ者の中でも、龍の血を引いている者だけではないかと思っている。病が相手を選り好みするのか? ――という疑念はあるが、いまわかっている情報からだと、そう仮定できてしまう」
妄想が、現実味をわずかに帯び始めている。
もちろん、まだまだ症例数は少ない。まだ妄想の域を出ない。
だが、傾向として確かにそうなのだ。尹隆もそれは否定せず、ただ黙している。
「二十年前――一度枯れる前にも、この水は献上されていたと思うが、その頃に龍涙疾の発症記録はあるだろうか?」
「……記録は残っていますので、調べさせていただきます」
「頼む。それから、紫涙の変――この頃に、龍泉水が献上された記録はあるだろうか?」
尹隆は、数度深い呼吸を繰り返し、わずかに視線を落とした。
「……白妃殿下は、龍涙疾と龍泉水に関連があるとお考えなのですね」
「ああ。もし、私の考えの通りだとしたら、大変なことだ。だからこそ、ちゃんと調べたい。否定するためにも材料は必要だ」
鈴花の考え通りだとしたら。
龍泉水が霊水ではなくなり。玄家の献上品が毒だったということにもなる。
それは初代皇帝の伝説にも泥を塗り、天地をひっくり返すに等しいことだ。
だからこそ、いい加減なことは言えない。
「私の仕事は、皇帝陛下に真実を伝えることだからな」
「…………」
「だから、可能性の一つとして調べておきたい」
「……白妃殿下は、自由な発想をお持ちだ。それはこの後宮において貴重なものです。だからこそ陛下も――」
「それは、私が貴族のしきたりや勢力に縛られていないからだろうな。何年ここにいても、私は異物のままだし、それでいいと思っている」
異物だからこそ、好きに動ける。
取り込まれてしまえば、大きな力に守られるだろうが、縛られることになる。
それでは真実は見えない。
鈴花が調べるのは、闇の底に隠されたものだ。この病の底に隠されたものだ。
「承知いたしました、白妃殿下」
静かに視線が交わされる。まるで契約を交わすかのように。
尹隆は身を起こし、優雅に鈴花に一礼する。
鈴花はそれを受け、小さく頷いた。
「ありがとう、尹隆殿。この件は内密に――そして、くれぐれも慎重に行動してほしい。あなたに何かあったら大変だ」
「お心遣いありがとうございます。何か進展がありましたら、すぐに報告いたしますので、白妃殿下は宮にてお待ちください」
「いや、私も手伝おう」
尹隆は驚きの表情で一瞬言葉を失った。
鈴花は微笑みかける。
「尹隆殿も、皆も、動けるものは自分ができることに励んでいる。私だけが休んでいるわけにもいかない。病気のことは私にはわからないが、文献を調べていくことはできる。人手がある方が、調べものも早く終わるだろう」
「大変助かりますが、よろしいのですか?」
「ああ。病人のところに無理やり押しかけるわけにもいかないからな」
龍泉水を持ち込んだ玄静麗には是非とも話を聞かなければならない。
どうして龍泉水を献上しようと思ったのか。
だが、玄静麗はいま病で倒れている。
面会しようとしても侍女たちが許さないだろうし、病人を詰問したところでどれほど正確な話が聞けるか。
それに、何の確証もないまま乗り込んでいったところで、はぐらかされるだけだ。
武器が欲しい。
疑惑の闇を晴らすための武器が、火が、欲しい。
「――ところで、献上された龍泉水はまだ残っているのだろうか」
「それはこちらの管轄外ゆえ、わかりません」
「そうか……」
玄家からの献上品という扱いだから、それも仕方ない。
(希望者全員が飲めたのなら、ほとんど残っていないだろうし、もし残っていたとしても、たいした量にはならないだろう)
◆◆◆
――後宮医の書庫は、医務室の更に奥の倉庫にあった。
扉を開けると、紙と墨の匂いと共に、薬草や、乾燥した木材の混ざり合った独特の香りがした。
部屋は暗く、わずかに窓から差し込む光が、古い竹簡や文献が積み上げられた棚を照らしていた。
「すごい量だな」
「――こちらが、二十年前の記録です」
棚と棚の間で、尹隆はやや窮屈そうに立つ。狭間から手渡された竹簡を受け取る。竹の表面は時間の経過によって乾き、硬くなっていた。
少し広い場所に出てそれを広げると、詰まった丁寧な文字で、病名や症状、治療法といった文字が書かれていた。
鈴花はそれを追いかけ続けた。
尹隆も同じように記録を確認していく。
そうしてしばらく二人で、文字の海に沈み続けた。
浮上したのは、夕暮れの光が書庫に差し込みかけてからだった。
「――ありませんでしたね」
尹隆が最後の竹簡を巻き直す。
「ああ。龍泉水が二十年前に枯れる前までは、龍涙疾と思われる病はなかった」
一つ、仮定が補強された。
「ありがとう、尹隆殿。では次は、六年前から紫涙の変の直前頃に、龍泉水が宮廷に運び込まれた記録が欲しいな」
「それこそ、宮廷の記録に残っておりましょう。手配しておきますよ。役人たちも素直に聞くでしょう。――これは、勅命なのですから」
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