第29話 皇帝の寝所


 天寧宮の空気は、かつてないほどに重かった。

 そしていつもは落ち着いた静けさに満ちているのに、今日はどこか慌ただしい。


 女官たちが病に倒れたことで人手が足りないから、緊急で他の場所から人を集めてきているのだ。


 鈴花も緊張を肌で感じながら、皇帝の寝所に向かう。

 普段なら謁見用の部屋で会うのだが、今回は寝所でということだった。

 廊下に立つ兵士たちの表情も、いつもよりも硬く、その目は鋭い。


(ここに来るのは、初めてだな。まさかこのような形で訪れることになるとは)


 寝所に通されるということは、やはり皇帝も発症しているのだろうか。


(だとしたら、大変なことだ)


 いま生きている皇族の直系男子は、いまの黄景仁コウケイジン皇帝だけだ。

 後継ぎとなる皇子が生まれていないいま、皇帝に何かあったら、帝国の根幹が揺らぐ。


(それこそ、私の力を使うときか)


 身の内の神鈴を意識する。

 生まれたときから宿っている、古き神々の神器。

 これがあるからこそ鈴花は後宮に入れられた。


 ――これは、白家と黄家の契約だ。

 とっくに覚悟はしていた。





 寝所の前に到着し、しばらく待たされた後に、重厚な扉が開いていく。

 鈴花だけ中に入ると、再び扉が閉ざされる。


「失礼いたします。白鈴花です」


 いつもの緞帳越しではなく、御簾越しに皇帝と対面する。

 そのせいか、いつもより皇帝の気配が感じ取れる。


(この香り……薬湯と、香に混じるこの、甘い香りは……なんだ?)


 匂いに違和感を覚えつつも、他の香りに掻き消されてわからなくなる。


「――白妃は、異常はないか」


 その声にはいつもの威厳があるものの、いつもと少し響きが違う。

 喉が腫れているのかもしれない。


「はい、私は幸いにも、何の症状もありません」


 皇帝は少しの間を置いてから。


「それは、よかった」


 やや掠れた声で言う。それと同時に、鈴花は皇帝の緊張がほんの少し解けるのを感じた。


 逆に、鈴花の心は冷えていく。心にもやもやとしたものが生まれそうになるが、その気持ちごと封じ込める。


「――気づいているだろうが、いま宮廷では病が蔓延している。後宮だけではなく、宮廷の方でもだ」


 ――後宮外にまで。


「この病の原因を調査しろ」


 ――それは鈴花の仕事ではない。医者の仕事だ。


 だが、医者こそいまは手いっぱいだろう。


「……私は医術の専門家ではございませんので、お望みの成果が得られるかはわかりませんが……精いっぱい、務めさせていただきます」

「うむ」


 短い返事の後、沈黙が続く。既に用は終わったということなのだろうが、鈴花はまだ退室できなかった。まだ、知りたいことがある。


「――ひとつだけ、お聞きしたいのですが」

「許す」

「皇帝の御身体は、ご無事なのでしょうか?」


 再び沈黙。今度は先ほどよりも重苦しい。

 分厚い壁を作られてしまったようで、内心焦る。

 鈴花は深々と頭を下げた。


「申し訳ございません。出すぎでした」

「…………」


 ――ここで引き下がるべき、なのだろうが。

 図々しいのが性分だ。


「代わりに、教えていただけませんか。――焔は、どうしていますでしょうか。可能なら、彼の手も借りたいのです」


 また、長い沈黙が続く。

 それでも鈴花は引き下がらない。


 この件の調査は、いままでより根深い問題が潜んでいるように感じる。人手が欲しい。そして、何より――会いたい。


「あやつは、もう、後宮には出さない」


 その言葉に、鈴花は頭を殴られたような衝撃を受けた。

 頭が真っ白になり、すべての思考が停止する。身体が震え、息すら詰まる。


(私のせいか……)


 凍りついた心に最初に浮かんだのは、自責の念だった。


 胸が締めつけられる。深く息を吸い、吐く。

 震える手を、ぎゅっと握りしめる。


(さすがに、頼りすぎたか? 皇帝の不興を買ったか? あいつ自身が、嫌気が差したのか……?)


 どれだけ考えようとわかるはずがないのに、思考が止まらない。


 そして、皇帝の言葉は絶対だ。覆ることはない。


「……無事かどうかだけでも、教えていただけませんでしょうか。彼には、助けられましたので」

「くどい」


 それ以上の言葉は必要ないと、強く拒絶される。


「……申し訳ございません」


 ――だめだ。

 皇帝を怒らせてはいけない。


 焔の出世に響く。下手をすればそれ以上の影響が出る。

 彼の、邪魔をしてはいけない。


 再び息を深く吸い、ゆっくりと吐く。


 ――もう会えない。ただ、それだけのことだ。

 きっと、どこかで元気に働いている。


 それだけで充分だ。


「後のことは、後宮医の尹隆インリュウから聞くがいい」

「……はい」


 鈴花はもう一度深々と頭を下げ、退室した。





 皇帝の寝所を出て、来た道を戻る。宮中は相変わらず重い空気で、鈴花自身、鉛を飲んだかのように身体が重い。


 足が自然と、人の気配がない方へ向かう。

 誘われるように、人のいない庭園に足を踏み入れると、冷え切った空気が彼女の顔を撫でる。


 降り積もった雪を踏み、庭を歩く。


 冬でも鮮やかな山茶花の陰に隠れ、鈴花は詰まった息をゆっくりと吐いた。軋むような心の音を押し殺し、深く呼吸をする。冷たい、清涼な空気が肺を満たす。


 わずかに気が緩んだ刹那、目許から溢れ出てくる涙が、ぽろぽろと零れ落ちていく。


(……なんだ、これは……)


 困惑する。

 涙の理由がわからない。何がこんなに苦しいのか。悲しいのか。


「――――ッ」


 自分の頬を両手で強く叩く。


(気合いを入れろ! 泣いている場合じゃない!)


 鈴花は痛む頬の熱に促されるように、顔を上げる。


 未知の病により、後宮――いや、帝国全体が揺らいでいるのだ。立ち止まっている場合ではない。


 決意を胸に、新しい一歩を踏み出した。




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