第31話 四人の妃
――二日後。
「白妃さま、朗報です!」
琳琳が興奮した様子で鈴花の部屋に入ってくる。
「臥せっていた方々が、少しずつ元気になってきているみたいです。もう、ほとんどの方が起き上がれているみたいですよ」
寝台の上で寝ぼけながら報告を聞く。
まだ瞼の裏には眠りの名残が強い。
「……そうか。それはよかった……おやすみ」
「白妃さま、もういつものお目覚めの時間ですよ!」
「昨日はあまり眠れていないんだ……睡眠は大切というのが信条なのに……」
言いつつも、ゆっくりと寝台から起き上がる。
言っている間に着替えが進められていく。
既に朝の食事が運ばれてきている。
白い磁器の蓋を開けると、中には澄んだ粥が入っていた。まだ少しあたたかい粥は、優しい香りを放ち、口の中でとろけていった。
(やはり、粥はいい……)
食べながら途中で手を止め、机の上に並べてある三通の手紙に顔を向ける。昨日の夕方から準備したものだ。
「琳琳、午後から妃たちに会おうと思う。この文をそれぞれの宮に届けてくれないか? 南天付きの文は南宮に、水仙付きの文は東宮と北宮に頼む」
「はい!」
元気よく返事をして、文を持っていきおいよく西宮を飛び出していく。
鈴花はその間に朝餉を食べ、身支度の仕上げをし、昨日散らかした机の上の片づけをした。
◆◆◆
午後からは琳琳と共に、宮を出る。
昼を過ぎたというのに後宮の廊下はいつもよりも静かで、寂寥とした空気が漂っていた。
最初は、紅明璃のいる南宮へ向かう。
到着すると、女官が快く扉を開けてくれる。
そして開いた扉の奥から、小さい影が元気よく駆け寄ってきた。
「鈴花おねえさま!」
紅明璃が嬉しそうに、目を輝かせて鈴花の元へくる。そして、むぎゅうと、抱きしめてくる。
「お待ちしていました! 会いたかったです! 今日は何をして遊びますか?」
「私も会いたかったよ。でも今日は、あまり長居はできないんだ」
手を繋いで部屋に向かいながら言うと、紅明璃は残念そうな顔をした。
「小夏は元気か?」
「小夏はずっと丸くなっています」
ほどなく、紅明璃の部屋に到着する。
そこは、あたたかさと明るさに満ちていた。造り自体は四つの宮はほとんど同じだ。方向と、明かり採りの窓の位置が違うくらいだ。
印象がこれほど違うのは、部屋の家具の色使いが大きいだろう。すべて紅色と薄紅色、明るい金色で纏められている。強い印象の色なのに、優しさや柔らかさも感じられる。
床には、あたたかみのある分厚く毛足の長い敷物が敷かれていた。
「ほら、あそこでよく寝てるんです」
指差す先では一匹の子猫――小夏が、敷物の上で丸くなっていた。
無邪気な姿に心が和らぐ。
「ああ、今日も可愛いな」
笑うと、紅明璃も笑う。
「さて、小紅妃。何か困っていることはないか?」
「病の流行が収まるまで外に出ちゃいけないって言われているので、退屈です。退屈で退屈で、とっても困っています」
「それは大問題だな。だがきっと、もうすぐ収まる」
「鈴花おねえさまがそう言われるなら安心です。そうしたらいっぱい遊びましょうね」
「ああ。それから――ひとつ教えてほしいのだが、小紅妃は、新年の宴で龍泉水を飲んだのか?」
紅明璃は遠い記憶を辿るように目を細めた。
「ううーん……いいえ。変な味がしたから、飲みませんでした」
「そうか」
その言葉を聞いて安心する。
そして、確信を深める。
紅明璃はきっと、龍泉水を飲んでいないから発症していないのだろうと。
そして、鈴花は飲んだが、鈴花は皇族の血を引いていない。
(やはり、発症しているのは、皇族の血を引き、そして龍泉水を飲んだものだけ……これではまるで、皇族の血を根絶やしにするために存在するもののようだ……)
考えながら、なんとも不思議な話だとも思う。
(もし原因が毒だしても、貴い血だけを選んで害するとも思えない。もしや、皇族の血に、何かがあるのか?)
――もしそうだったとしても、調べようがない。
鈴花には、病の声は聞けないのだから。
「小紅妃、もう少しでこの危機も収束する。それまで、どうか身体を大切にして過ごしてほしい」
「はい、わかりました。みんなが元気になったら、いっしょに遊んでくださいね」
「ああ、約束する」
鈴花は紅明璃と約束をして、その場を後にした。
◆◆◆
次に鈴花が向かったのは、玄静麗の住む北宮だった。
侍女に案内されて通された部屋は、香木の薄い香りと共に、独特な雰囲気が漂っていた。
部屋の絨毯や帳は、黒と灰色、白が巧妙に組み合わされていた。掛け軸も墨の文字だけだ。
無彩色の部屋の中で、中心の卓に飾られた紅梅の枝が印象的だった。
そして、入内してまだ日が浅い上、病のせいでまだ片づけがあまり進んでいないようだった。少しだけ乱雑な印象が広がっていた。
壁際の窓からは、柔らかい陽光が差し込み、玄静麗を照らし出していた。その顔色はまだ青ざめていて、瞳はどこか疲れて見えたが、病の峠は越えたようだ。
「申し訳ございません。本来はわたくしから伺うべきところですのに……」
「いいえ、いまは緊急事態ですから。お身体の調子はどうですか?」
「だいぶ良くなりました……」
玄静麗は微かに頷き、そう告げる。
その表情には、長い間抱えてきた心労が滲んでいた。彼女はしばらくの沈黙の後、遠い目をして続けた。
「北から悪い病を持ってきてしまったのかもしれません。だとしたら、大変申し訳のないことをしてしまいましたわ」
鈴花は少しだけ眉を顰めた。
「……この病は、北方でも流行したりしていたのですか?」
声を小さくして、問う。
「流行というほどではありませんでしたが、稀に患者が出ていましたわね。ここまでの大流行は、わたくしも初めてでございます。龍泉水があるのにこんなことになってしまうなんて……」
「……玄妃のご心痛は察するに余りあります。ですが、初代皇帝が天から降りてこられてから、六百年以上……龍泉水の霊力の源も、時を経ると共に、少しずつ場所を移しているかもしれませんね。そう、龍脈と同じように」
――龍脈、という言葉に玄静麗の肩が揺れる。
鈴花を見上げる表情の、警戒の色がわずかに和らぐ。
「霊力の強さが移り変わるのも、龍泉水が本物の神秘という証なのかもしれません」
「ええ……時々、龍泉水の霊力も病に勝てないことがございます……そのせいで、月瑛様にも……」
玄静麗が短く息を呑み、言葉が途中で途切れる。
鈴花は気づかないふりをして、ただ静かに頷いていた。
「この度の病の流行も、そうなのかもしれませんね……ですが、もう皆が快方に向かっています。悪いことにはなりません」
玄静麗はほっとしたように身体の力を少し抜いた。
「それでは、私はこの辺りで。玄妃、お身体を大切にしてくださいね」
◆◆◆
「――琳琳、身体の調子は大丈夫か?」
回廊を歩きながら、後ろの琳琳に問う。
「はい、大丈夫です。次は蒼妃さまのところですよね」
「ああ、先に戻ってくれていてもいいが――」
「いいえ、最後までお付き合いいたします。白妃さまの専属女官ですもの」
誇らしげに胸を張る琳琳の姿が頼もしかった。
次に鈴花が向かったのは、蒼月瑛の住む東宮だった。
久しぶりに見た蒼月瑛の姿は、長引く病でやつれていた。肌には紫斑がわずかに残っていたものの、その瞳は元気そうだった。
「ひどい目に遭いました。今回ばかりは死を覚悟いたしましたわ。龍泉水の効能も、もしかしたらただの伝説に過ぎないのかもしれないと思ってしまったほどです」
部屋で首飾りの水晶をぎゅっと握りながら、やや張りのない声で呟く。
「大変でしたね……」
「本当に……後宮の者たちも、ほとんどが回復してきたみたいですが……」
病に臥せっていても、情報収集は欠かしていないようだ。
蒼月瑛は小さくため息をついて、憂いに満ちた眼差しで天寧宮の方角を見た。
「…………?」
その視線に、鈴花は違和感を覚えた。
次の瞬間、心臓を鷲づかみにされたような恐怖を覚えた。
「……お大事に。私はこれで失礼しますね」
蒼月瑛に挨拶をして、鈴花はすぐさま東宮を出た。
(龍泉水は、すべてなくなったと思っていたが、もしまだ残っているとしたら――……)
奇跡の水と信じられているそれは、誰の元にあるか。
考えるまでもない。
(――迂闊だった)
己の考えの至らなさに吐き気がする。
「――白妃さま?」
東宮の外で待っていた琳琳が、焦って走る鈴花を見て驚きの声を上げる。
「先に戻っていてくれ」
鈴花は一度だけ振り返って伝え、すぐさま天寧宮に向けて駆け出した。
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