第四章 龍の涙

第26話 玄静麗


 年の瀬の後宮は静かなものだった。

 それは、冬の寒さと厚い雪のせいだけではない。


 女官たちに宦官たちなどの後宮で働く人々に、風邪がすっかり蔓延してしまっていたからだった。そのせいもあり、元々静かな場所の静寂が一層厚くなり、そんな中でもまだ元気のある女官たちが人員の不足を補うようにせっせと働いている。


 鈴花はそんな人々の姿に活力を貰いながら、寒風の吹く回廊を歩き、東宮へ向かう。

 ずっと風邪気味の蒼月瑛の見舞いに行くためだ。


 東宮に到着すると、その静けさに驚いた。

 蒼妃の侍女や女官たちは皆物静かで、いつも落ち着いたものだが、今日は特にそうだった。


 鈴花は青い衣を着た女官に迎えられ、蒼月瑛の部屋に通される。

 蒼月瑛は部屋の中で、寝台で身体を起こしている状態で、鈴花と対面した。


「大丈夫ですか、蒼妃。風邪が長引いてしまっているようですね」

「ええ……このような格好で失礼いたします」


 いつもしゃんとしている蒼月瑛からは考えられないような、弱った姿だ。


 部屋には火鉢がいくつも置かれていた。

 ちりちりと炎が燃える音と、柔らかな炭火の匂いが部屋に広がり、心地よい温かさをもたらしていた。


 金や水晶の装飾が、硝子窓から差し込む冬の日光に反射して、室内を淡く照らしていた。


「でもきっと、もうすぐ快癒いたしますわ」


 小さく咳を零しながら、確信めいた言葉を紡ぐ。

 回復が近いと自覚しているのだろう。自覚しているのなら、すぐに元気になっていくはずだ。


「――今年は、北の名家である玄家から献上されたあるものが、わたくしたちにも振る舞われるようですから」


 予想とは違った言葉に、鈴花は目を瞬かせる。


「玄家からの献上品、ですか? それはいったい――?」


 新しい後宮妃がもうすぐやってくるのは知っていたが、献上品の情報はまったく聞いていない。

 鈴花の問いに、蒼月瑛はわずかに微笑み。


「長命水、あるいは万病薬――古来から黄家に献上され続けてきた、龍泉水です」

「龍泉水……あの、伝説の?」


 その言葉が、鈴花の記憶を呼び起こす。

 ――名前は聞いたことがあった。かつては不老長寿の妙薬とも呼ばれていた水だ。


 かつてこの大地は厳しい旱魃に見舞われ、人々は生きる希望を失いかけていた。

 その時、初代皇帝が龍と変じ、天に昇って雷を落とした。そしてその場所に美しい蓮の花が咲き、根元からは清らかな水が湧き出した。


(それが、龍泉水の始まりだったか……)


 水は甘く、飲む者には健康と長寿、さらには病を癒す力があると言われ、それ以後、黄家は代々この水を大切に守り、必要な人々に分け与えた。そうして旱魃を乗り越え、黄家はますます栄えた。


 龍泉水が湧き出したその場所は「神の庭」と呼ばれ、一般の人々は近づくことすら許されない神聖な場所とされている。

 それをいま管理しているのが玄家だ。


「随分長い間枯れていましたが、六年前に奇跡の復活を果たした霊水――量が乏しく、黄家にあの不幸もあり、近年は献上が途絶えていましたが……この度、玄家の姫が後宮に上がることになりましたから、共に献上されるようです」


 鈴花は黙ってその言葉を聞いた。

 玄家の姫が後宮に上がるというのは、それは大きな政治的意味を持つ。

 そしてその龍泉水が後宮に供されることが確定しているならば、その影響は計り知れない。


「その龍泉水をいただければ、この風邪も快癒するはずですわ」


 蒼月瑛の声は自信に満ちていた。

 鈴花は微笑んで頷きつつも、その龍泉水とやらには疑問を抱いていた。


 寿命を延ばす水。

 万病に効く水。


(そんな都合のいいものが存在するんだろうか……)


 そんなものが本当にあったら、『紫涙の変』など起こらなかったはずだ。


(だが、思い込みの力というのは強いものだ……信仰を集めている霊水ならば、ある程度の効果はあるかもしれないな)


 それで人々の風邪が治るなら、それはそれで、ありがたい水なのだ。


(それにしても、蒼妃も割と信心深いのだな……)




◆◆◆




 ――今年ももうすぐ終わりという日に、新しい妃を迎えるため、後宮の門が開く。


 鈴花は新しい妃を出迎えるべく、門の近くで蒼月瑛と紅明璃と並んだ。彼女らの衣は豪華な刺繍と細工で飾られている。


(それにしても、寒いな)


 冬の寒さが身に染みる。

 そして緊張感の中、重い扉がゆっくりと開かれる。


 光と共にその先から現れたのは、美しい女性だった。


 美しい黒髪に、雪のように白く、輝く肌。そして誰よりも豪奢な装い。黒を基調とした衣に、金糸と銀糸で華やかな刺繍が施されている。


 鈴花はその美貌と、随行する多くの侍女と女官たちの人数と豪華な装いに、ほんの一瞬だけ息を呑んだ。

 出で立ちの豪華さに、玄家の力が窺い知れる。権力も、財力も、かなりのものだと。


「白妃様、蒼妃様、小紅妃様――玄家の静麗と申します。どうぞよろしくお願いいたします」


 ――玄静麗ゲンセイレイの言葉の一つずつに、強い自信と重みがあった。


 まるで、気高く美しい氷のようだ。人が決して到達することのできない峰の雪のようだ。


(彼女が、玄静麗……)


 紅珠蘭殺害事件の顛末により、かつての勢いを失くした黒家を押しのけて、後宮入りした北の有力者の娘。

 しかも、龍泉水という特別な献上品を携えて。


「ようこそお越しくださいました、玄妃。共に、龍帝国の安寧のため、皇帝にお仕えいたしましょう」


 蒼月瑛も頷く。


「玄妃様のご到着は我々後宮にとって新しい風をもたらすことでしょう」

「よろしくお願いいたします」


 紅明璃の明るい声が響く。


 そして、後宮の門がゆっくりと閉ざされていく。


 北の方角から冷たい風が吹き、玄静麗の黒髪を揺らす。

 黒い瞳は何もかもを吸い込んでしまいそうな深さを持っていた。


 北宮に向かう玄静麗と従者たちは、そのまま北宮に向かう。


「――これで、久しぶりに後宮に四妃が揃いましたわね」


 一番皇帝の寵愛を受けているだろう蒼月瑛が微笑む。

 新たな妃の入内にも焦っている様子は皆無で、むしろ嬉しそうにさえ見えた。


「きれいな方ですねぇ……少し、蒼妃さまに似ているかも」


 紅明璃が呟くように言うと、蒼月瑛は頷いた。


「ええ。わたくしと彼女は遠い親戚関係ですから、少し似ているかもしれませんね。さあ、わたくしたちも、宮に戻りましょう」


 言って、早々と引き上げていってしまった。

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