第24話 脱出



 鈴花は井戸の口に立って、深みに向かって声をかけた。


「――小紅妃、大丈夫ですか?」


 少しだけ、間をおいて。


「……白妃さま……」


 震える紅明璃の声が下から響いてくる。

 泣きそうな声――いや、既に泣いていた。泣き疲れていた。


 意識はしっかりしている。


「怪我はありますか? どこか痛いところは?」


 返ってくるのはしゃくりあげる泣き声と、子猫の鳴き声ばかりで、はっきりとした返事は帰ってこない。


 鈴花は考える。


 綱があったら登れるだろうか。帯をほどいて繋げて長くしたら――いや、おそらく紅明璃一人では無理だろう。


 人を呼んでこようか――そうするのが一番いい。安全に引き上げることが第一だ。


「他の人を呼んできますので、少し待っていて下さ――」

「置いてかないでええぇえ」


 紅明璃の張り裂けるような声が井戸内で反響する。あまりにも切ない響きだった。

 しかしその声は土の中に吸い込まれて、ほとんど表には出てこない。これでは見つからなかったのも道理だ。

 どれだけ心細かっただろう。辛かっただろう。


「――わかりました」


 鈴花は心を決めた。


 念のために多めに巻いてきていた帯をほどき、端同士を結んでいき、長い一本の帯にする。


 片方の端を近くの月桂樹にしっかりと結びつけ、もう片方の端を持ちながら、鈴花自身も慎重に井戸の中に下りていった。


 飛び降りることもできたが、紅明璃にぶつかったら大変だ。


 中の匂いは湿った土と錆びた石が混ざったようなものだった。

 井戸の石壁が手足の先をひんやりと冷やす。


 紅明璃は座ったまま、驚きと安堵に満ちた顔で鈴花を見上げていた。

 その瞳は濡れているが、希望の光も微かに灯っていた。


 ――井戸の底に、降り立つ。下は幸いにも落ち葉が積もっていたため濡れていない。


「もう大丈夫だ」


 瞳を覗き込み、笑いかけ、隣に座る。

 狭い空間だったが、何とか座れる。


「一体、何があったんだ?」


 そっと問いかける。


「……小夏シャオシャが……」


 ぎゅっと、腕の中の白い子猫を抱きしめる。

 ふわふわの子猫の毛は、あの紐についていたものに間違いなさそうだった。


「小夏がいなくなっちゃって、さがしてたら、落ちてたから、助け、ようとしたら……」


 ――自分も落ちてしまったらしい。


(なるほど。猫をこっそりと後宮に連れ込んでいたのか)


 鈴花が見かけた庭で動き回っていた姿は、小夏を探し回っていた時の姿。そして、紐は小夏のおもちゃ。


「その子を守ったのか。勇敢だな」


 褒めると、紅明璃は嬉しそうにはにかんだ。

 小夏を抱きしめる腕に力を込もり、小夏が「にゃあ」と鳴く。


「小夏は、おともだちだから……」

「そうか」

「この子だけがついてきてくれたの。本当はこんなところ来たくなかった……」


 紅明璃の寂しそうな声に、鈴花は「うん」と頷いた。


「私も、そうだったよ」

「白妃さまも?」

「もちろん」


 生まれ育った場所を離れ、まったく違う環境に放り込まれて。

 しかも紅明璃はまだ十歳だ。まだまだ親元で、甘えていたいだろうに。


「二年もいれば慣れたけれどね」


 鈴花は懐からやや潰れた月餅を取り出し、紅明璃に渡した。

 表面に繊細な花の模様が刻まれたそれは、歪な月のように黄色く輝いていた。


「これを食べなさい。ゆっくりとね」

「月餅だぁ……!」


 満月に照らされたかのように、紅明璃の顔が明るくなった。

 小さな手で月餅を受け取り、少しずつ食べ進めていく。


「白妃さま、なんだか違うひとみたい」


 月餅を食べながら、無邪気な顔で鈴花を見る。


「うん。普段は大人のふりをしているからね」

「ふりなんだ」

「ああ。本当は寒がりで、面倒くさがりのくせに、退屈が嫌いなんだ。ああ、寒い寒い。小紅妃、私を暖めてくれないか」


 その言葉に応えるように、紅明璃は鈴花に身を寄せてくれた。

 鈴花は彼女の小さな身体に優しく腕を回し、ぬくもりを感じ取った。


(本当に、小さいな……)


 こんな少女が後宮にいること自体、歪なことだと思う。

 せめて、少しでも心安らかに過ごしてくれたら、と思う。


「ここの、どんなところが嫌だ? 私は、食べるものが冷たいものばかりなのが、がっかりだ」

「わたしも。せっかくのごちそうが台無しだよね」


 紅明璃はうんうんと頷く。

 後宮の料理は豪華だ。品数も味も、盛り付けも色彩も。それでも冷たさがすべてを台無しにしてしまう。毒見役を何人も通しているから仕方ないのだが。


 そして毒見役も、命がけの大変な仕事だ。

 多くの人々によって皇帝と後宮の妃たちは守られている。


「それに、ここはいやなひとばかり。みんな、わたしを見ていやそうな顔するもの」


 鈴花は、優しく彼女の頭を撫でた。


「それは、小紅妃が嫌いだからじゃない。昔の悲しかったことを思い出して、もう二度とあんなことは起こさせないと、気合いが入っている顔だ。でも、小紅妃に悲しい思いをさせているなら、皆、修業が足りないな」


 小さな頭を何度も撫でる。つやつやの髪が心地よかった。


「皆、小紅妃を歓迎しているよ。もちろん私も。私は実は寂しがりやでもあるんだ」

「仕方ないですねぇ。わたしがお友だちになってあげます」

「嬉しいな。では私も、友人のために一つ頑張ってみよう」


 鈴花は深呼吸をし、固く閉じた瞳を開く。

 そして紅明璃を離し、立ち上がる。


「ここを登って、助けを呼んでくる」

「む、むりです……!」

「君のためなら、無理じゃない」


 紅明璃の顔を覗き込みながら言うと、丸い頬がほんのりと赤く染まる。鈴花は井戸の上からぶら下がる帯を手に取り、強度を確認する。大丈夫そうだった。


「早く宮に帰って、部屋で火鉢で暖まろう」


 ――帯を手に、井戸を登る。

 下りてきたときと同様に、足を壁の石にかけながら。

 帯はわずかにしなるが、しっかりと支えてくれる。


「すごい……」


 下から、紅明璃の驚きの声が響く。

 特に問題なくするすると登り切り、井戸の縁に両手をかけて、自分の身体を引き上げる。


 助けを呼びに行く前に、もう一度紅明璃に声をかけようと振り返ったところで――鈴花は驚きの光景を見た。


 紅明璃が、自力で帯紐を使って登っている。

 自分の手足で。懐に小夏を入れて。鈴花がしたのと同じように。


 鈴花は慌てて井戸の縁にしゃがみ込み、紅明璃に向かって手を伸ばす。

 一生懸命伸ばされた小さなその手を強く握り、力強く引き上げた。


 紅明璃が井戸の外に出てくる。ふたりでしばし大きく呼吸をして息を整え、鈴花は紅明璃を抱きしめた。


「小紅妃はすごいな! よく頑張った。偉いぞ!」

「えへへ……っ」


 二人が抱き合っている真ん中で、小夏の柔らかな鳴き声が「にゃあ」と響く。


「さあ、帰ろう。皆が待っている。ああ、そうだ――落とし物だ」


 鈴花は拾っていた朱色の紐を紅明璃に渡す。

 紅明璃はびっくりして目を見開き、嬉しそうに笑った。


「ありがとう、白妃さま」


 鈴花は紅明璃の手をしっかりと握って、雪の薄っすら積もった庭を南宮へ向かった。


 南宮に到着すると、紅い衣を着た侍女や女官たちが涙を流して喜びながら紅明璃を出迎えてくれていた。

 鈴花は安堵の息をつき、そっとその場を離れた。


(やはり小紅妃も皆から愛されているな……よかった)


 心から思いながら、空を仰ぐ。

 深い夜の中で、白い雪がひらひらと舞い続けている。


(……それにしても、寒いし疲れた……早く着替えて、火鉢であたたまろう)



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