第23話 行方不明
夜にもなると、空気は更に冷たくなり、息をするたびに鼻の奥まで冷えが染み込んでいく。
鈴花は西宮の自室で、火鉢の前に座っていた。
黒い炭が白い灰に変わる様子をじっと見つめる。橙色の炎が揺らめき、黒い炭が白い灰に変わっていく。それらがもたらす暖かさに心まで和む。
――そして、火鉢の熱で月餅を焼く。
温めなおされた砂糖と粉と豆の香ばしい香りが部屋に広がる。
(……よし)
炎の上で少し焼き色をつけた月餅を、箸を使って二つに割る。ふんわりと白い湯気が出て、鈴花は頬を緩ませた。
四分の一の大きさにしたものを手に取り、口に入れる。
中がふわふわで外はさっくりとしていて、餡が口の中でとろける。至福の瞬間だ。
「これは、この世で一番の贅沢……あつっ」
――そうして平穏で贅沢な過ごしていた時、西宮に誰かが訪れる。
訪問者は対応した琳琳となにやら話した後、またすぐに宮を出ていった。随分と、慌ただしい。
気になった鈴花は部屋から出て、入口の方へ向かう。
そこでは、おろおろとした表情で立っている琳琳がいた。顔は青ざめており、目には不安が浮かんでいた。
「何があった?」
「白妃様……その、小紅妃様がいらっしゃらなくなってしまったそうです……」
――その報告は、鈴花にとっても衝撃的だった。
「南宮から消えたのか? どうして?」
「それが、誰もわからないらしいんです。お庭をお散歩していたはずが、いつの間にか姿を消してしまわれたらしくて……それで、こちらに来ていないかと――」
先ほどやってきたのは南宮の女官だったらしい。
一縷の望みを抱いてやってきて、見かけていないと言われて、また探しに戻っていったようだ。
「……白妃様もご存じないですよね?」
「ああ……」
南宮の庭で遊んでいた姿を見たきりだ。
琳琳は心配そうな顔で肩を落としている。
紅明璃は紅珠蘭の血縁者だ。紅珠蘭に世話になっていた琳琳にとっては、居ても立ってもいられない状況だろう。
「もしよければ、琳琳も探しにいってやってくれ」
「いいんですか?」
「ああ。人手は多い方がいい」
「ありがとうございます!」
すぐさま飛び出していこうとする琳琳の前に手をかざす。
そして自分の肩掛けを、琳琳の首に巻く。
「暖かくして行きなさい。辛くなったらすぐに戻ってきて、身体を冷やさないように」
「はい!」
空気は一層冷たくなり、夜の闇が後宮を包んでいく。
暗い空からひらひらと、白い雪が降り始めていた。
(――急がないと)
夜が更けるほどに気温は冷え込んでいく。どこかの室内にいればいいが、もし外で迷子になっているとしたら、凍えて死んでしまう。
死なないまでも、凍傷になったり、ひどい風邪を引いてしまったら大変だ。
(まずは、状況の整理からだ)
部屋に戻った鈴花は、火鉢の前で考える。
さすがに後宮からは出ていないはずだ。
後宮から出られる方法は二つだけだ。
後宮を囲う二枚の壁を登るか、門から出るか。
(自力で壁を登れるとは思えない)
壁は高い。下に空いていた穴はとっくに修繕されている。紅明璃は身軽そうだったが、そんな手段を使ってまで逃げ出そうとしているようには見えなかった。
誰かが壁から連れ出すことも不可能だろう。子どもとはいえ、人を一人抱えてあの壁を登り、無事に降りられるとも思えない。
連れ攫われたとしても、自力で何かに紛れて出たとしても、門を使う方がよっぽど確実だ。
(門を使って外に出ているのだとしたら――その捜索は、外の者たちに任せよう)
鈴花が考えるべきなのは、まだ後宮内にいる場合のことだ。外に出られたら、鈴花にはどうしようもない。
(彼女が死んでいる気配はない。どこかで疲れて眠っているのか、抜け出せない場所に嵌まってしまっているのか)
単なる事故か、本人や周囲の不注意か、それとも悪意あるものが閉じ込めているのか。
(そもそも小紅妃は、庭で何をしていたんだ? 季節的に蛙や飛蝗を探していたとも思えないし)
そこまで考えたところで、鈴花は動きやすい服装に着替える。
しっかりと防寒もして、念のために帯も多めの本数を巻いて、最後に焼いた月餅を懐紙に包んで懐に入れて、ひとり外に出た。
◆◆◆
雪のちらつく夜、竜帝国の後宮は俄かにざわめいていた。
篝火の明かりがあちこちで煌めき、後宮の人々が行方不明になった紅明璃を探し回っている姿が確認できる。
何人かは大声で名前を呼んでいる。だが鈴花がやってきた南宮には、人の気配がほとんどなかった。南宮の人々はこの場所を探しつくしたと思い、別の場所へ移ったようだ。
鈴花は無人の庭を見つめる。以前の南宮の主である紅珠蘭は、花が好きだった。
ここにも多くの花や木が植えられている。冬の寒さでほとんどが葉を落としているが、その中で一年中葉が緑の月桂樹だけが青々しく茂っている。
鈴花は身を低くする。
紅明璃がそうしていたように、月桂樹の植え込みの下を覗いていく。
そうしながら移動していると、地面に這いつくばってようやく通り抜けられそうな隙間を見つけた。
――大人なら、とても通ってみようとは思えない隙間。
そこに、まだ新しい緋色の糸が揺れていた。
(着替えてきてよかった)
鈴花は長い髪を紐でまとめて、その穴をくぐる。
顔に土や葉が当たり、ざわざわと音が立つ。濡れた土の匂いや、枝が皮膚に触れる感触を押しのけて、無理やり向こう側へ通り抜ける。
そこは、枯れ葉の積もった、手入れされていない庭の一部だった。
人が通った後がある。
(……やはり、探し物をしていてどんどん人目に付かないところに行っている可能性が高いな)
鈴花が通り抜けられるなら、紅明璃は余裕だっただろう。
(月餅……潰れていないだろうな)
不安になりつつ懐を押さえる。まだ、ほのかに暖かい気がした。
完全に潰れてはなさそうだ。ほっとしつつ息をつき、地面につもりかけた雪を見てまた不安になる。
(早く、見つけないと)
――その時、奇妙なものに気が付く。冬の庭には珍しい朱色。雪がかぶり始めたことで逆に目立っているそれを、手に取り拾い上げる。
それは、朱色の短い紐を捩じり合わせたものだった。
見覚えがあった。
――紅明璃が庭を歩き回っていた時に、手にしていたもの。
(やはり、ここを通ったのか……それにしても、なんだ、この白い毛は)
紐の合間に、白く短い毛が何本も絡まっている。
先端は噛まれているのか、かなり傷んでいる。
(……動物の毛か……? 何の動物だ? 狸や狐はもう入ってこられないはずだが……)
後宮を囲う壁はすっかり補修されている。
――なら、どこから入ってきたのか。
そして、どこへ行ったのか。
(……この先には確か、もう使われていない井戸があったような)
鈴花は後宮生活が長いため、後宮の庭園のことは他の人々よりも少しだけ詳しい。
探検中に、昔の宮――いまは潰されてしまった場所の近くに浅井戸があったことを思い出す。
その時はまだ、こんなに月桂樹が茂っていなかった。
鈴花は再び身を低くして、紅明璃の視線の高さに合わせて、人の通った痕跡を辿っていく。
まるで猫のように。
そして、庭の奥――壁に寄った、月桂樹の影がもっとも濃い場所で、か細い声が聞こえてくる。
子どものような、猫のような、小さくか細い――だが、生きているものの声が。
心の中で確信が湧く。
声の先には石の筒のようなものが、地面から生えていた。
――井戸だ。
もう使われておらず、すっかり忘れ去られてしまっている井戸。
その付近に、人が通った痕跡がある。
鈴花はゆっくりと、井戸の中を覗き込む。
井戸の底――真っ暗な暗がりの中、緑がかった光がふたつ、灯っていた。
そして小さく丸まった少女の姿が、微かな光で照らし出される。
「――小紅妃?」
呼ぶと、少女が顔を上げた。
その腕の中に、白い子猫を抱きしめて。
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