第22話 小紅妃



 冬の訪れをすぐ近くに感じる日、龍帝国後宮の雄大な扉が、特別な訪問者のために開かれる。

 それを見守るのは後宮中の女たち。


 鈴花と蒼月瑛は、新たな妃を迎える正面の位置に立っていた。

 鈴花は白い衣、蒼月瑛は青い衣を着て。


 皇帝や宦官たちはこの場にはいない。後宮の扉の内側にいるのは女だけだ。


 扉が厳かに開いていく。澄んだ光の中では、幼い少女が顔を上げて立っていた。


 紅珠蘭の姪――紅明璃コウメイリ――非業の死を遂げた、紅珠蘭の姪。

 紅の衣に金糸で刺繍された衣を着た彼女は、十歳とは思えない成熟した態度で、凛と背筋を伸ばして立っていた。


 小さな足が、後宮内へ向けて軽やかに進み出る。後ろに侍女たち、その更に後ろに赤い衣の女官たちを引きつれて。


(紅妃に似ている……)


 幼い顔立ちは、紅珠蘭の面影を残していた。

 だが、まだまだ幼い。幼いながらも、精いっぱいに大人ぶっている。


 そして、後ろに付き従う従者たちからは、緊迫した雰囲気が漂っている。

 紅明璃のために新たに選ばれた者たちであり、誇りと警戒心――そして、主を守るという気概が感じられる。


 いまこの瞬間、後宮の中の誰もが思い出していた――後宮での過去の事件、紅珠蘭の死を。


 だが、周囲の人々の緊迫感は、新たな妃には関係なかったようだった。

 紅明璃は軽やかに微笑みながら、白鈴花と蒼月瑛に近づいてくる。

 一歩、また一歩と、その小さな足で、後宮の石畳を踏みしめる。


 紅明璃は鈴花たちの前で一度足を止め、一歩前に踏み出し、優雅に頭を下げる。


 後宮の空気が静まり返る。

 顔を上げた彼女の瞳には、不屈の決意が燃えているかのように、強く輝いていた。


「白妃様、蒼妃様、わたしは紅家の明璃と申します。若輩者ですが、何卒、よろしくお願いいたします」


 ややたどたどしいながらも、明るい声での、落ち着いた挨拶。

 鈴花は笑みを零し、小さな紅妃を見つめた。


「紅明璃様、後宮へようこそ。私たちはあなたを温かく迎えます」

「ええ。お互いに支え合い、共に新しい時代を築いていきましょう」


 蒼月瑛も続けて微笑む。


「ありがとうございます」


 紅明璃が再び頭を下げた。動作の一つ一つが、練習を積み重ねた舞のように美しかった。

 そして――後宮の扉が、静かに閉まった。




◆◆◆




「小紅妃様は、まだまだ後宮の慣習に不慣れなようですわね」


 東宮の蒼月瑛の部屋――部屋の主は、青白い磁器に入った茶を眺めながら、困ったように言う。


 ――小紅妃。紅明璃の四妃の一人としての呼び方だ。

 正式には紅妃なのだが、その呼び方は紅珠蘭の印象がまだ深い。だから小さな紅妃ということで、その呼び名がすっかり定着している。


(何を怒っているのだろう)


 蒼月瑛の怒りの理由がわからない鈴花は、淹れてもらった茶を飲みながらぼんやりと蒼月瑛を眺める。


 茶は甘く渋い味わいで、少し苦味を感じる。少しぬるめの温度が心地よく、茶の香りと味を引き出していた。


「それとも、白妃様のところへは小紅妃様は挨拶に来られました?」

「いいえ」


 そのような事実はない。挨拶を交わしたのは最初の最初だけだ。

 訪問されたことはなく、訪問していいかの手紙も、女官たちからの打診もない。


「わたくしだけではなく、白妃様にまで……なんて失礼な」


 どうやら蒼月瑛は紅明璃が、すぐにでも宮に挨拶にくるものだと思っていたようだ。

 それがないことに、礼がなっていないと憤慨しているようだった。


 蒼月瑛の怒りもわからないことはなかったが。


(十歳の子に、それは酷では……)


 礼儀作法よりも、遊びが楽しい年ごろだし、何より後宮にきたばかり。不慣れなこと続きで、他の妃たちへの挨拶にまで気が回っていないだけかもしれない。


 周りが教えていないだけかもしれないし、本人があまり気にしていないのかもしれない。


 鈴花もそんな慣習があるだなんて知らなかった。後宮では最古参であるとはいえ、気にしたこともなかった。それとも、もしかすると一般常識なのだろうか。


 ――確かに、昔、他の妃たちが宮に来て、挨拶をされた覚えはあるが。

 鈴花が新参者だったら、こうして他の妃たちに陰で言われていたのだろうか。


(ううむ、礼儀というのは難しいな……)


 作法は教え込まされるが、暗黙の了解を知るのは難しい。それとも、他の妃たちには指導役がいたのだろうか。


 鈴花にはいない。

 ほぼ身ひとつで後宮にきた。

 侍女のひとりもいなかった。


 自分の身の回りの世話はできるように鍛えられていたため、困ったことはなかったが。


(こういう、不文律の決まり事は難しいな。いっそ纏めておいてほしいものだ。だが、少し気になるな……一度、こちらから出向いてみようか)


 茶を飲みながら考えこんでいると、蒼月瑛が小さく身を乗り出してくる。

 首元の水晶の首飾りが、光を受けてきらりと輝く。


「白妃様、よろしいですか? 決して、白妃様の方から小紅妃様のところへ訪問してはなりませんわよ。こういうのは最初が肝心なのです」


 蒼月瑛の言葉が、部屋の空気と鈴花の意識を引き締める。


「は、はい……」


 行動を読まれていたようで、釘を刺される。


(そうか。こちらから行ってはいけないものなのか)


 ――本当に、難しいことばかりだ。

 不文律の決まり事も、妃たちの微妙な力関係も、交流も。




◆◆◆




 西宮に戻った鈴花は、専属女官の琳琳が仕事に行っているのを確認してから、後宮女官の姿に扮した。もちろん特徴的な白い髪も、赤い瞳も、術で黒く染める。


(久しぶりだな、この格好)


 くるりと裾を翻す。

 身体が軽い。服も軽い。


 外に出て回廊を歩くと、乾いた冷たい風が顔に触れる。

 掃除しても掃除しても積もる枯れ葉が、乾いた音を立てて静かに舞い散っている。


(今年は風邪が流行らないといいのだが)


 そんな風に思いながら、南宮へ向かう。

 西宮から南宮まではまっすぐな回廊一本で行ける。


 目的はもちろん、紅明璃の様子見にいくことだ。

 中に入るつもりはないが、外から宮の様子を見るだけでも雰囲気はわかる。


 庭が見えるところまで到達すると、鈴花の目に紅明璃の姿が飛び込んできた。


 鈴花は驚く。

 まさかこんな寒い中、外で遊んでいるなんて。


(心配することはなかったか)


 紅明璃は豪華な緋色の衣装に身を包んで、あちこち動き回っている。夕暮れの金色の光が、彼女の髪と衣装をさらに鮮やかに輝かせた。


 小さな手に朱色の紐を持って、地面や木の間をせっせと動き回っている。


(ひとりで何をしているのだろう? 何かを探しているようだが……)


 疑問に思ったが、後宮女官姿で妃に直接話しかけるわけにはいかない。


 その瞬間、目が合った。しかし、鈴花は女官として無視され、目は逸らされた。まるで存在しないような扱いだが、この瞬間だけは、そのことが逆に楽だった。


 ひとまず、紅明璃が元気そうでよかった。そのことだけを胸に抱き、鈴花は後宮内をぐるりと歩き、西宮に戻った。





 夕暮れが近づき、紫色と金色が空に広がり始めたころ、突如として後宮がざわつき始めた。


 ――紅明璃が後宮から姿を消してしまったのだ。



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