第21話 無色教
少しずつ、馬車の速度が遅くなり、やがて完全に動きが止まる。
どうやら道が混んでいて、危なくて動けないようだ。少し時間がかかる旨が外から伝えられる。外の護衛からの伝達を耳打ちを聞いた焔の顔色が少し変わる。
馬車の中の空気が突然、冷えたような気がした。言葉以上に、その雰囲気が焔の警戒心を鈴花に伝えた。
覗き窓から外を見てみた鈴花は、群衆が何かに引き寄せられているような光景に目を奪われる。
「焔、あれは何だ?」
広場で人だかりができている。
その中心には急設の小さな立ち台がある。
「――
焔の声は低く、言葉は絞り出されるようだった。
壇上には三十歳くらいの男が立っていた。身に纏う、清潔で真っ白な僧服が、陽光に照らされてほんのりと輝き、その姿が一際目立っていた。
そして瞳には確固たる信念が宿っていた。
(
鈴花は聞いたことのない宗教だ。
房主――僧房の主は、広場に集まった群衆に声を向ける。
「我々の足下には土地が、頭上には天が広がっている。しかし何故、人と人との間には障壁があるのでしょうか? 貴族も農民も、皇帝も乞食も、同じ天の下で息をしているのに」
房主の声は、馬車の厚い壁を突き破って鈴花の耳に届く。
使命感を帯びた声と姿には、不思議な存在感と説得力があった。
群衆たちは、疑問や期待、楽観や恐れが交錯しながらも、確かに彼に引き付けられていた。
(しかし、何とも過激な教義なことだ……こんな布教を帝都でするのか)
皇帝の住む帝都で。
――一瞬だけ、房主の鋭い眼差しが鈴花を見た気がした。
どきりとしながらも、まさかと思った。貴族が乗っていそうな馬車を一瞥しただけだろう。
房主は何事もなかったように広場を見渡し、手を広げて話を続ける。
「朱門酒肉臭、路有凍死骨――金持ちの豪邸には酒肉が腐るほどあるのに、路上では凍死した人が倒れている。これ以上この矛盾に身を任せるつもりなのですか?」
水を打ったような沈黙が広がる。
誰もが息を詰める中、房主が再び口を開く。
「色即是空、空即是色。私たちは色に囚われるものではありません。無色教では、皆様と共に身分の障壁を越え、真の平等の世界を作ることを誓います」
貴族は色の名の姓を持つ。
だからこそ、無色を教えの名にしたのだろう。
「貴族も平民も、皆で新たな時代を築きましょう」
その直後、群衆の中から賛同の声が上がる。
希望に満ちた歓声と共に、広場の端で売られている無色の蓮の御守りが、次第に人手に渡り始める。
透明で美しい蓮は、人々の手の中で、新たな希望に導いていってくれるように見える。
少なくとも、いまこの瞬間は。
演説が終わったことで通行が再開し、馬車が動き出す。
「――あなたは、どう思う?」
馬車の中に焔の静かな声が響く。
鈴花はしばし考え、慎重に言葉を紡いだ。
「若者には受けがいいだろうが……浸透はしないだろうな」
多くの人は、神である大いなる存在に守られていたいと思うものだ。
だからこそ皇帝はいまも国の中心に存在し、その下に民が集う。
その構造を、無色教が変えられるかは未知数だ。
焔はしばらくの沈黙の後、口を開く。
「確かに、理念は美しいが実現するには多くの障壁があるだろう」
「私たちがこんな話をしていていいのかな」
「様々な考えに触れること自体は悪くない。見聞を広めるのは大切なことだ」
「そうだな。耳を塞ぐわけにはいかないな」
鈴花は窓から外を眺める。いつの間にこんなに時間が経っていたのだろうか。暮れゆく空が紫に染まり始め、広場の石畳も同じく紫色に浮かび上がる。
広場の一角で販売されていた無色の蓮の御守りは、既に多くの人々の手に渡り、多くの首にぶら下がっている。その透明な蓮の花は、空の色と共にゆっくりと変わっていくように見える。
その光景は、新しい時代の到来を予感させつつも、どこか不吉なものを感じさせた。
◆◆◆
夕暮れの中、馬車は無事後宮に到着し、鈴花は自分の住む西宮に戻る。外出の時間はこれで終わりだ。次の機会は当分訪れないだろう。
「おかえりなさいませ、白妃様」
「ただいま、琳琳」
出迎えてくれた琳琳の瞳は、喜びで輝いている。
鈴花は少しだけ周囲を見回す。宮はいつもより一段と綺麗に掃除されていて、琳琳の気配りが行き届いていることが感じられた。
「これは土産だ。いつもありがとう」
紫檀の櫛を手渡すと、琳琳は目を瞬かせ、驚き、そして喜びを溢れさせた。
「一生大切にします」
琳琳は櫛をぎゅっと握りしめる。瞳には微かに涙が浮かんでいた。
鈴花の胸がほっとあたたまる。実は琳琳に無色教のことを尋ねようかと思っていたのだが、口をつぐんだ。
琳琳も良家の出身だ。でなければ名家の女官にはなれない。
貴族にとって無色教の教義は、あまり楽しい話題ではない。
いまは彼女の無垢な笑顔を充分に楽しむ時間にした。
夜が降り、後宮のいたるところに明かりが灯っていく。
外は静かで空気が冷たい。夜空には明るく輝く月と星があり、その下で皇帝が過ごす天寧宮が静謐に佇んでいるのが見えた。
鈴花は今日見た光景を思い出していた。
多くの人々が、龍に守られて過ごしている。
黄金の輝きに守られていたいと願っている。
だが、また別の、何色にも染まらない信仰も広がりつつある。
龍が君臨する世界に、その信仰がこれ以上広がる可能性はあるのだろうか。
(考えてわかるものでもない。すべては流れるままだ)
大きな流れは、時代のうねりは、誰にも止められない。
(私たちの神も、天龍に神の座を譲った。すべては、より強い力によって変わりゆく)
古き神の末裔である鈴花には、それがよくわかっている。
窓から離れ、装飾品を収めている箱の蓋を外す。
焔から貰った髪飾りを見つめる。
その隣には、皇帝から賜った二本の簪が静かに置かれていた。
どちらも白銀を基調にしていて、併せて使えそうだからまた悩ましい。
(いつ、身につけろと……)
他の男から貰ったものを、後宮内で身につけられるわけがない。それくらいは弁えている。
焔もそんなことわかっているだろうに。
鈴花はしばしの間、複雑な思いを抱えながら、その美しさに見入った。髪飾りも、簪も、素直に美しい。主の胸中など関係なく、静かに輝いている。
再び箱の蓋を閉じ、輝きを閉じ込める。
瞼を閉じ、深く息をつき、自分の揺らぎそうな心も閉じ込めた。
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