第参話 穏やかな日々

第19話 外出の日



 部屋の鏡台の前で、鈴花の白い髪が、琳琳の手によって茶色の色粉で染められていく。


「こんな綺麗な髪を染めてしまうなんて、もったいないです」

「仕方ない。私の髪は目立つから。それに、今日一日だけのことだ」


 鈴花の浮かれた顔が鏡に映る。それを見て、鈴花は思わず笑みを深めた。


 ――今日、鈴花は、都を散策する。


 幽霊騒動の解決の褒美として、皇帝に何が欲しいか訊かれ、鈴花は外出許可を求めてみた。

 一度だけ、市街を散策してみたいと申し出てみたのだ。


 一考もされずに却下されるかと思ったが、驚くことに許可が出た。護衛と案内役付きだが、街歩きができることは間違いない。


 そうとなれば浮かれないはずがない。

 鈴花はいままで一度も、市街を歩いた経験がない。民衆の姿を見たのは、すべて馬車の中からだった。

 だが今日は違う。人々に混ざって、都を楽しむことができる。


(これが、お忍びというものか……)


 初めての経験に心が躍り、頬が赤らむ。

 用意されたのは普段着ているものよりも地味な衣だった。刺繍もなく、女官たちの服に似ている。

 防寒具もしっかりと着せられる。


 後宮と外を繋ぐ門に行くと、黒塗りの馬車と護衛たちが待っていた。馬車に乗り込むと、中でも護衛が待っていた。


「――お前も、つくづくご苦労なことだな」

「命令だからな」


 黒い武官服を着た焔の助けを借り、鈴花は馬車の椅子に座った。


 後宮の門を出て、馬車は都の石畳の道を進む。

 馬車の覗き穴から見える景色がどんどん変わっていく。


「こんなに護衛が多いと、お忍びと気づかれるのではないか?」


 馬車の周囲には護衛が多くいる。

 鈴花が言うと、焔は笑いながら答える。


「それはそうだが、皇帝の命令だ。安心しろ。どこぞの貴族のお嬢様としか思われない」


 鈴花は少しだけ不満だったが、外に出られるなら文句は言わないことにした。

 それだけ、外の世界は鈴花にとって魅力的なものだった。


 馬車が市街に到着すると、鈴花の目に賑やかな景色が映る。

 多くの人々が買い物をしている市場に、子供たちが走り回る姿、香ばしい匂いが漂う屋台料理の店。


 年の瀬が近いせいか、それともこれが普通なのか、市場や路地は寒風も吹き飛ばすような熱気で賑わっていた。


「そうだな……――ところで、白妃」

「外でそんな呼び方をするな。変装した意味がない。鈴花と呼べ」

「……鈴花……いや、お嬢様」


 ――お嬢様。

 新鮮な呼ばれ方だった。それなら自分はその従者のつもりだろうか。


「まあいいか。なんだ」

「貨幣というものを知っているか?」

「莫迦にするな。それぐらい知っている」


 焔は無言で、小さな袋から銀色の粒をじゃらじゃらと取り出す。


「なんだ、この金属の粒は」

「それが貨幣だ」

「ほう、これが……」


 鈴花は、興味津々でそれを見つめる。

 貨幣とは、黄金でできた金色のものだけだと思っていたが、それ以外の色もあるようだ。


「外で物を買うときは、代価としてそれを渡すことになっている」

「ふむ。面白い仕組みだな。これがあれば、何でも手に入るのか……すごいな」

「さて、どこへ行きますか、お嬢様?」

「甘いものが食べたい。あのいかにも熱そうな汁粉や、焼き立ての団子が気になる。土産ものも欲しい」

「仰せのままに」





 馬車の車輪が石畳を踏みしめて止まると、鈴花は開いた扉から下りた。

 目の前には繁華街が広がっていて、両脇には様々な店が並んでいる。


 わくわくしながら歩く鈴花の隣で、焔が警戒を怠らないように歩いている。

 彼の姿は堂々としており、その背後や周囲には数名の護衛の男女が従っている。彼らは巧妙に周囲を封鎖し、まるで見えない壁を形作って鈴花を守っていた。


(大げさな……これが彼らの仕事か)


 繁華街の人々はこのような大袈裟な警備にも慣れているのか、特に気にしている様子はなかった。


「あの店がいい」


 鈴花は一軒の店を指差す。入口には「汁粉屋」と書かれた暖簾が垂れていて、炉端で焼かれる団子の匂いと、何とも言えない甘い香りが鼻をくすぐる。それだけでお腹が温まるような気がした。


 店内に入ると、朱い布が敷かれた長椅子が並んでいた。

 鈴花は焔とともに店の角の席に座ると、ほどなくして朱塗りの椀に入った小豆の汁粉と、炭火で焼かれた団子が運ばれてきた。その匂いは甘く、ほんのりと香ばしさも感じられた。


 黒衣に身を包んだ毒見役の女性が、ひっそりと姿を現し、まずは汁粉を口にした。その後、彼女は団子も一つ食べ、何も問題がないことを確認して引っ込んでいった。


 ――どうせなら一緒に食べればいいのにと思うが、あれが彼女の仕事なのだろう。

 人々の仕事の邪魔をするつもりは、鈴花にもない。だが。


「念を入れすぎではないか?」

「お嬢様をお守りするのには当然のことです」


 焔が澄ました表情で言う。

 鈴花はわずかに頬を膨らませ、声を潜めて焔の耳元に口を寄せ。


「――やっぱり、お嬢様と呼ぶのはおかしくないか? お嬢様でも身分を隠してお忍びで遊んだりするはずだ」

「いまさら我儘言わないでください」


 訴えはさらりと躱される。


「そんなことより――どうぞ、お嬢様」


 毒見済みの汁粉を差し出された鈴花は、改めてその香りを楽しんだ。

 甘い小豆の香りが鼻をくすぐる。ほのかに黒蜜の甘さも感じられた。


 汁粉を口に運ぶと、まず口の中に広がったのは、小豆と砂糖と黒蜜のまろやかな甘さ。

 甘すぎず、かといって薄すぎることもない。そして小豆の柔らかさと、その中に隠れるほんのりとした塩味が、甘さを引き立てていた。


「美味しい……」


 そして、餅。これがまた絶品だった。もちもちとした食感が心地よく、汁粉の中に溶け込むように存在していた。その餅が口の中で溶けると、小豆の甘さと一緒になって、完璧に調和していく。


 後宮生活ですっかり猫舌になった鈴花は、一生懸命冷ましながら汁粉を食べる。


「これは、一種の芸術だ……お前は食べないのか? 皆は?」

「護衛は仕事中食事をしません」


 焔は冷静に言う。

 そして、少し笑いながら。


「それにもう、お腹いっぱいです」



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