第16話 天寧宮の秘
鈴花は机の上に「出かけてくる」とだけ書いた竹簡を残し、黒い絹の肩掛けを手に取って頭にかぶる。
――白い色の髪は、よく目立つ。
術で染める方が確実だが、焔の前で術を使うのは憚られる。
秘密は多い方がいい。
西宮を出て、天寧宮に向かう。
後宮の中央に位置する、豪華絢爛で静かで、厳かな宮。後宮で皇帝の過ごす場所。
後宮の多くの人間がこの場所で働き、皇帝の寝所は一番奥にある。
もちろんそこには行かず、人の気配のない――だがしっかりと警備された入口から焔は宮の中へ入った。
鈴花も使ったことのない裏口だ。
「――白妃。すまないが、ここからは目を塞がせていただく」
「ああ」
警備上の問題だろう。
柔らかい布で目隠しをされる。落ちたりずれたりしないようにしっかりと、だがきつくはない程度に結ばれる。
手袋をはめた大きな手に、手を引かれてゆっくりと歩き、天寧宮の中に入る。
ひんやりとした空気が身体に触れる。表の豪華絢爛さとは裏腹に、こちら側はひたすら静かだ。
視界が遮られていると、他の感覚が鋭くなる。どこかから聞こえてくるわずかな物音に、足元の石の感触。自分自身の鼓動。
どのあたりを歩いているかはさっぱりわからないが、漂う薄い香りが芳しい。
足元は平坦で、だが時折わずかな傾斜がある。低い場所に向かっているようだ。
細かな金属の音が聞こえることもあった。何かの仕掛けを動かしているのだろうか。
焔の手に導かれ、まるで時間がゆっくりと流れていくかのような錯覚に陥った。
手袋をはめた焔の手が、鈴花の手をしっかりと握っている。その手に力がこもると、一瞬、身体全体が緊張する。しかし、その手の温かさが徐々に安心感に変わる。
ついに、焔が止まった。――おそらく、警備の人間と何かのやり取りをしているのだろう。静けさの中で聞こえた囁き声は落ち着いていて、それでいてどこか緊張感を帯びていた。
「他言無用だ」
焔の固い声が聞こえる。そのわずか後に、重い扉が開く音がする。
また手を引かれて歩き出し、背後で扉が閉まる。
さきほどよりも湿った――密度の高い、冷たい空気が、鈴花を包み込んだ。
「――白妃、ここで目隠しを解く」
「ああ」
いったい何が見えるのか――緊張と期待が、心を昂らせる。
焔の手がするすると目隠しを外す。
暗闇の中、足元の方で、ぼんやりと黄色がかった灯火が揺れている。
それに照らし出されたのは、上下左右の四方が石で覆われた通路だった。
焔の足元には提油灯が置かれていた。油を燃やして火を灯す、金属製の手持ち照明だ。
後ろを振り返ると、きっちりと閉じられた分厚い扉が見える。
「――まるで、黄泉に下りていく道のようだ。ここはなんだ?」
「天寧宮の地下だ。使われているのはごく一部だが」
興味津々で問いかけると、焔は淡々と語った。
「……怖くないのか?」
気遣うように訊いてくる。
「全然」
そんなことよりも、こんな場所を知っていて、入る資格を持っている焔の素性の方が気になる。随分皇帝の信が厚いようだ。
何故知っているのかについては、敢えて訊かない。
お互い、秘密は多い方がいい。
鈴花は再び周囲の様子をよく見る。
提油灯の光は、長い年月を経ている石壁に影を生じさせていた。前方には暗闇と、階段の一部が見えている。
階段は、どこまでも深く伸びているように見えた。
本当に黄泉の国まで続いているのかもしれない。
「――行くぞ」
焔はゆっくりと提油灯を持ち上げ、階段を下りていく。鈴花もそれに続いた。
提油灯の火が、油の香りを纏いながら深い地下階段を照らす。ぼんやりとした光は、逆に暗闇と一体化しているようでもあった。
一段下りるたびに、ひんやりとした空気が肌に触れる。
靴が石段に当たるたびに、音が奥深くまで反響していく。
(幽霊に見せられた光景と似ているな……)
こんな場所が後宮にあるなんて、不思議な心地だ。
建造されたのはかなり昔のことだろう。
まるで、この場所に蓋をするかのように、後宮が造られたかのようだ。
「……もしかしたら、皇帝は全部わかっていて、私たちに幽霊騒動の調査をさせているのかもしれないな」
皇帝の心の内など鈴花にはまったくわからないが。
何か意図があって、幽霊騒動などという大して害もないものを調べさせ、ここまで誘導しているのかもしれない。この奥にある秘密を暴かせるために。
「……いや。おそらく、そこまで考えていないと思う」
「私に無礼なのはいいが、皇帝にその態度は感心しないな」
「…………」
鈴花が言うと、口を閉ざす。
しばらく無言で階段を折り続ける。
「……白妃は、帝のことをどう思っている?」
「……他言するなよ」
「しない」
「何を考えているのかわからないし、人の話は聞かないし、姿も知らないし、よくわからない」
日頃抱いている不満を口にする。
鈴花は皇帝がわからない。
稀に会い、稀に言葉を交わすだけだ。
どんな政策をしているのかも、どんな国づくりがしたいかも見えてこない。
後宮には政治の話などほとんど入ってこないが、それを差し引いても、よくわからない。
話からは皇帝の人格や顔が見えない。政治のほとんどは重鎮たちと高官たちが行っていて、皇帝はそれを承認しているだけに過ぎないと思えてくる。
鈴花が皇帝に感じる印象は、傀儡だ。
「せめて、どんな未来を見ているかを知りたい」
それを知ったところで、後宮から出られず、皇妃になることもない鈴花には何もできないだろうが――
「それができたら、お前のように……少しでも、力になれるかもしれない」
考えるのもおこがましいことかもしれないが。
「…………」
「他言するなよ」
「しない。するものか」
約束を破りそうにない強い声で言われて安堵したとき、ずっと続いていた階段も終わりが近づいてきた。
ようやく平たい通路に到着し、ほっとする。
(更に冷えてきたな……)
絹の肩掛けを首元に巻き付ける。
その時、通路の奥の方から微かな音が聞こえてきた。
か細い声――風の音ではない。
鈴花の背中がぞっとした。こんな場所に他にも人がいるとは考えられない。
「誰だ!」
焔が声を荒げ、誰何する。
しかし、反応はない。残響だけが重く響く。
「白妃、警戒しろ」
焔が提油灯を声の方に向ける。
一瞬、きらりと光が反射する。
それは誰かの姿ではない。
暗闇に浮かび上がったものは、扉だった。
「……どうやら、ここで間違いなさそうだ」
鈴花は張り詰めていた息をふっと吐く。
声の先にあったもの――それは四神が彫り込まれた、金属製の重厚な扉だった。
おそらく声は、その隙間から聞こえてきたのだ。
――青龍、白虎、朱雀、玄武。
東西南北を司る神獣が織り成す緻密な模様は、幽玄な美しさと、不穏な気配を湛えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます