第14話 幽霊の女



 ――今日は、充実の一日だった。


 夕餉の後、眠気が頂点に達した鈴花は、早々に寝床に着いた。

 広く大きな寝台に身体を沈め、深呼吸をし、あっという間に眠りに落ちる。


 ――夜も更けたころ、鈴花は部屋の冷たさに震えて浅く覚醒する。


 ――寒い。


 冬の訪れには、まだ早いのではないだろうか。

 掛け布団を被りなおそうとして、身体が動かないことに気づく。

 そうしているうちにますます部屋が冷えていく。

 窓を開けていただろうか。閉めないと。思うのに、身体が動かない。


 ようやく、瞼だけ開くと――この世のものではないものが、枕元に立っていた。


 女だ。細く、白く、美しい女。

 その身体はほのかに透き通っている。この世のものではない――幽世の存在――幽霊だ。


 その表情はどこか悲しげで。


『――わたしの死体を見つけてください』


 声は、か細い。


 ――その刹那、鈴が鳴る。


 身体に宿る神鈴が、一度だけ強く鳴り響く。

 鈴花はぐっと身体を動かし、手を伸ばし、幽霊の手をつかんだ。


『ひぃぃぃぃ』


 幽霊は驚きと恐怖で悲鳴を上げる。声は鈴花の心にまで届く。


「――死体を探せというが、それは後宮にあるのか? 具体的な場所は言えるか? そもそもお前は誰だ? 何者だ?」


 幽霊は涙目で震えるばかりで答えない。

 しかし瞬間、周囲の景色が書き換わる。

 ――暗く、果ての見えない石室に。


 それは、鈴花が知らない光景だ。幽霊が鈴花に見せている光景だ。


 視界が白くなっていく。景色が消えていく。


 ――そして、鈴花は目を覚ました。

 朝の光が窓から漏れ込み、鈴花はいつもと同じように、寝台に沈んでいた。


 幽霊の姿も気配もどこにもない。

 だが、夢だったとは思わない。


「……こちらが、幽霊騒動の本命か?」


 鈴花は自分の手のひらを見つめる。

 そこには何も残っていないが、幽霊に触れたときの冷たい感触と質感は、はっきりと覚えている。


(まさか、幽霊に触れられるとはな)


 夢の中の出来事とはいえ、初めての経験だ。

 この世のことも、自分のことも、まだまだ知らないことばかりだ。


 新鮮な驚きに感動しながら顔を上げたその時――奇妙な違和感を覚える。


 机の上に、昨日寝る前にはなかったものが並べられていた。

 墨で字が書かれた竹簡が、五本。


「この竹簡は……」


 鈴花が練習で詩を書き綴った竹簡だ。

 いまは琳琳が寝ている部屋に置いてあったはずのもの。


 鈴花は部屋を出て、琳琳の様子を確認しにいく。

 彼女は寝台にもたれかかるようにしてよく寝ていた。昨日片づけていたはずの竹簡は散乱していて、まるで目的のものを探し出そうとして散らかしたかのようだった。


(おそらく、幽霊に操られたか)


 幽霊に操られながら竹簡を探し、鈴花の机の上に並べたのだろう。

 起こして問いただしても、きっと何も覚えていないだろう。


 幽霊というものは、自分の意志を伝えるために、時折そういうことをする。他人に乗り移ったり、物を動かしたり。

 とはいえ、普通の人間はなかなか取り憑かれないものだが。


(琳琳は霊媒の才があるのか?)


 そういう者は、幽霊に憑かれやすい。

 もしそうなら――


(刺激的な出来事が、これからも訪れるかもしれないな)


 寝ている琳琳を起こさないように気をつけて、部屋に戻る。

 そして、机の上の竹簡を改めて眺める。

 幽霊からの伝言を。



--------------


中心絶秘如深淵

(心の中の秘められた感情や思いは、深淵のように計り知れなく深い)


央昔後宮寂寥声

(中心に位置する後宮の中には、昔も今も、その静かで孤独な響きがある)


宮殿月夜秘言辞

(宮殿の月夜には、秘められた、誰にも知られない言葉や話が囁かれている)


野草風吹揺迷思

(野の草が風に吹かれて揺れる様子は、私の迷いや考えを表しているかのよう)


下日黄昏心安和

(日が沈む黄昏の時間、心は平和で安らかになる)


--------------



 すべて鈴花が書いたものだ。すべて、別々の機会に書いたもの。

 書いて、形にはしなかったものたち。

 それらがまるでひとつの詩を綴るように並べられている。


「……この詩に、何か意味があるのか……?」


 問いが、部屋に空しく響く。返事はどこからも返ってこない。


 鈴花は目を閉じて、幽霊が見せた石室の風景を思い出そうとした。思い出そうとすればするほど、細部が曖昧になっていくような気がするのは、普通の夢と変わらない。


(地下牢のようだったが……あんな場所が後宮に?)


 地下牢の遺体が片づけられずに放置されているのだろうか。

 この幽霊はその境遇を不服とし、訴えに来たのか。


 一時、牢に入れられそうになった鈴花はぞっとする。あんなところに閉じ込められるなんて、正気ではいられない。


 いったいその場所で何が起こり、いま何が埋もれているのか。


(死体があることは間違いないだろうが)


 あまり近づきたい場所ではない。

 しかし。


(……これを解決しないことには、幽霊騒動は終わらないのだろうな)


 鈴花は決意し、立ち上がった。

 竹簡の詩を順番通りに紙に書き写し、竹簡自体も順番通りに紐で縛って並びを固定する。


 そうしているうちに、琳琳の驚きの声が響いてくる。

 片づけたはずの竹簡が部屋中に散乱していて、さぞかし驚いているようだった。


「――大丈夫か?」


 部屋を覗き込むと、既に片づけを始めている琳琳が顔を上げる。


「あっ、白妃様、おはようございます……! すぐに、すぐに片づけますので――いえ、その前に白妃様のお手伝いを――」

「いや、自分のことが先でいい。琳琳、昨夜のことを何か覚えているか?」


 幽霊に操られたであろうことを言うべきか考えながら、問いかける。

 普通の人間ならば、憑かれていたと聞いていい気はしないだろう。知らないことがよいことも、この世にはある。


「あの……たぶん、またやってしまったのだと」

「また?」

「あたし、寝ているときに時々変なことをすることがあって――夢遊病って言うのでしょうか。あ、でも滅多にないですから!」

「そうか……」


 自分で納得できているのなら、言わない方がいいだろうか。

 鈴花は何が正解かわからず、いまはとりあえず黙っておくことにした。


 そして、皇帝に話があると天寧宮に伝える。

 返答は、夜にくるように――とのことだった。


 夜が訪れるまでの間に、琳琳が西宮で過ごす手続きを整える。焔が既に話を通してくれていたのか、あっという間にそれは終わった。




◆◆◆




 ――夜。


 後宮の回廊を照らす灯篭に、火が灯り始める。

 ぽつぽつと順番に火がくべられていき、暗闇を緩やかに払いのける。


 紅葉の合間から見える月は、どこか物寂しげな風情がする。


 天寧宮に到着し、皇帝の部屋に通される。

 部屋には相変わらず緞帳がかけられていて、中と外が区切られている。その向こう側にいる皇帝に向かって、鈴花は調査の進捗を報告した。


「後宮の北側で、狸と、行く当てのない女官を見つけました。紅妃の女官です。――その二つが、幽霊騒動の原因の一部でしょう」


 皇帝の考えや表情は、緞帳の影に隠れて、その感情は読み取れない。


「女官の方は、紅妃の遺志を継ぎ、私の女官にしたいと思います。よろしいでしょうか?」

「構わぬ」

「ありがとうございます」

「それで、騒動は解決か?」


 確認するように問われ、鈴花は一瞬ためらう。

 だが、最後には深い息を吸って言葉を続けた。


「――いえ、まだ終わっていません」

「……申してみよ」

「今日、私の枕元に幽霊が立ちました。その幽霊こそ、幽霊騒動の大本かもしれません」

「…………」

「彼女の真意を探ってみたいと思います。少々、骨が折れそうですので、また人を貸してくださいますか? ――できれば、焔以外のものを」


 ――沈黙が、訪れる。

 妙な間が開き、鈴花は緊張を覚えた。


 皇帝の考えは読み取れない。だが、何故か、わずかに動揺しているようにも感じられた。


「粗相でもしたか」

「いえ、彼はよくやってくれています」


 皇帝からの心証が悪くなってはいけない。彼の将来に多大な影響を与える。


 ――事実、焔はよくやってくれている。鈴花のすることにちゃんと付き合ってくれる。意思を尊重してくれる。


 だからこそ、このあたりでちゃんと線を引いておかないといけない。


 もし、あらぬ噂を立てられたら――特に男女の噂など立てられようものなら、宦官とはいえ立場が悪くなるだろう。彼の将来を閉ざすわけにはいかない。


「……考えておこう」

「お手を煩わせて申し訳ありません。よろしくお願いいたします」




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