第12話 後宮外壁の森
「――ともあれ、これで、梯子がなくても壁を登って乗り越えられることが証明されたな。後宮の守りは、やはり万全ではないということか」
「こんな真似ができる人間はほとんどいない」
焔が顔を顰めながら言うが、鈴花は笑う。
「だが、不可能ではなかっただろう? 私たちがここにいるのがその証だ」
「…………」
ほとんどの人間は乗り越えられないだろうし、そうしようとすらしないだろう。
後宮の女たちのほとんどは使命を持ってやってくる。
望んで、選ばれて、使命を帯びて入ってくるのに、脱走するなど言語道断だ。
だが、何事にも例外はある。
そして、後宮の中にある宝物を狙って、何とか潜り込もうとする不届き者もいるかもしれない。
不届き者が壁を乗り越えられる可能性を、鈴花たちは示した。
鈴花は満足しながら、壁の反対側を見た。
一度だけ足を踏み入れたことのある、深い森を。
「では、向こう側を見にいってみよう」
「本気か?」
「せっかくここまで来たんだ。――ああ、飛び下りるのが怖いなら――」
ここで待っていろと言う前に、焔が先に飛び下りる。
結構な高さだというのに、あっさりと飛び、あっさりと着地する。
(身軽なものだな。自分も立派な猿じゃないか)
怪我ひとつしていなさそうな焔を上から眺めていると、両手に手袋を着け始める。
何をする気かと見ていると、焔は鈴花を見上げ、大きく両手を開いた。
「飛んで来い。命に代えても受け止める」
まっすぐな視線に、頭の奥まで射竦められた。
(大げさな。こんなことで命を懸けるな)
ひとりでもこれぐらい飛び下りられる――だが、その言葉がどれほど本気か試してみたくなった。
鈴花は壁の上から身を乗り出し、焔の方へと躊躇なく飛び下りる。
風が顔を撫で、髪が、衣が空中で風に乗って舞う。
鈴花の瞳は、下で待つ焔の姿をしっかりと捉えていた。
焔は、腕を広げて待っていた。
彼の強い腕が、落ちてきた鈴花の腰をしっかりと抱きしめ、しっかりと受け止める。
「…………」
「…………」
二人はしばらくの間、お互いの瞳をじっと見つめ合っていた。
感じる鼓動は、自分のものか、相手のものか。
焔の腕の中で、彼の身体の温かさと力強さに包まれながら、鈴花は鈍る思考を動かした。
――よく考えなくても、まずいことをしているのではないか。
鈴花は名前だけとはいえ後宮の妃だ。
皇帝以外の男とこうして触れ合うなど――許されない。
早く下りようとするが、焔は鈴花を軽く抱え直す。
「これ以上、汚させるわけにはいかない」
――いったい何のことかと考えて、考えて、森の中にいることを思い出す。落ち葉に虫に蜘蛛の糸。土。この中を歩けば服も靴も汚れる。既に壁登りだけで埃まみれだ。
焔は鈴花を抱えたまま、安定した足取りで、足場の悪い場所を進んでいく。
森の中は、湿った大気が満ちていて、草木が冷たい。
木々が光を遮り、暗い。
なのに、身体はあたたかい。
(――焔は、任務に忠実なだけだ)
皇帝がこの話を聞いたところで、露ほども気にしないだろう。皇帝は鈴花に興味がない。
(そもそも、こやつは宦官だ。まずいことなどひとつもあるものか)
はっきりと宦官とは聞いていないが、もうそういうことにしておいた。
焔は鈴花の胸中など気づかず、平然とした顔で鈴花を慎重に抱え、不安定な地面を進んでいく。
時折鳥の鳴き声や、秋の虫の音が響く。それらと木々のざわめきを聞き、森の匂いを嗅ぎながら、鈴花は故郷の山を思い出していた。
広さも、光景も、何もかも違う。
それでも、懐かしい気持ちに満ちるのは、ほのかに混じる金木犀の香のせいだろうか。落ち葉を踏む音のせいだろうか。風の揺らぎのせいだろうか。
死んだ父を思い出すあたたかさのせいだろうか。
「……このまま、遠くへ逃げ出してしまいたいな」
郷愁に胸を焼かれながら、呟く。
焔は何も言わなかった。
皇帝の側近であろう彼は、聞かなかったことにしてくれたのだろうか。
それとも後で報告するつもりか。
もう、どちらでもよかった。
「一度下ろしてくれ」
少し開けた場所に出て、鈴花は焔に頼む。
大地を踏み、地面の一部を指差す。
「足跡だ。まだ新しい」
微かにだが、人間の足跡が残っていた。
鈴花は焔を見上げ、視線を交わして小声で笑う。
「さて、いよいよ近そうだ。足のある幽霊か、はたまた人間か。楽しみだな」
足跡の先には、まだまだ深い森が広がっている。
鈴花は、その足跡を頼りに、少しずつ進んでいった。このあたりは比較的開けているので、自分の足で。
やがて辿り着いた場所は、ケヤキの巨木の前だった。
上の方は見事に紅葉し、半ばほどは黄色、下の方はまだ緑で、美しい色彩を帯びていた。
そしてその幹と枝の間に、小柄な人影が見えた。
彼女は、身軽に枝から枝へと移動しており、その姿はまるで――。
「……猿……」
焔が、驚きと感心と呆れが混ざった複雑な声で、小さく呟いた。
焔は驚きの中にも感心が混じった声で小さく呟いた。
鈴花も頷き、その姿をじっと見つめ続けた。
(なんという身のこなし……見事だ……)
あの身のこなしなら、内壁も軽々と登ってしまえるだろう。そう、確信する。
「楽しそうだな」
声をかけると、びくっと身体を震わせて振り返る。
その人物は、薄紅色の女官服を着た少女だった。
「きみの名は?」
「……
枝の上から素直に答える。恐れの混ざった瞳で。
それは行方不明となっている、紅珠蘭の元女官の名前だ。
「琳琳、いい名だ」
焔をちらりと見ると、彼は無言で頷く。
どうやら、彼女が行方不明の女官で間違いないようだ。
後宮で食べ物を拝借しながら、あの小屋で狸と共に夜を過ごしたり、このケヤキの上で寝ていたのだろうか。
(――生きていてよかった。ひとまずこれで、幽霊騒動も解決か)
ほっとするも、また新たな問題が生まれる。
(さて、どうやって連れ帰ったものか)
ケヤキの上の女官は、いまだ下りてくる気配はなかった。
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