第11話 壁



 着替えた鈴花は、焔と共に、後宮を囲む内壁の調査のため北へ向けて歩く。

 その足取りは軽い。


「本当に狸狩りに行くつもりなのか……?」

「報告の仔細を確かめるのは、もうされている。なら次は、別方向からの調査だ」


 後宮をぐるりと囲む内壁は、巨大で堅固だ。壁の外側――内壁と外壁の間には、森が広がっている。

 更に外壁の向こうの外界には、深い森と険しい山岳が聳え立っている。天然の要害だ。


 鈴花は焔と共に、後宮の北端を壁に沿って歩く。

 後宮の端ということもあり、ほとんど人の手が入っていない。荒れていて、草むらも多く、それによる死角も多い。


 鈴花はまず、以前に見つけていた穴の方へ向かった。


「ううむ。本当に塞がれている……」

「当然だ」


 完全に塞がれている。補修痕が新しい。


 鈴花は嘆息し、壁を見上げた。

 壁は高く、漆喰で塗られていて表面は滑らかだ。こぼれ落ちる水滴の跡が残り、少し湿った土の匂いが立ち込める。

 壁面に触れると、冷たさや湿り気が伝わってくる。


 梯子か、何か道具でもなければ登れそうにない。

 だが――


「身軽なものなら登れるのではないか?」

「さすがに無理だろう」


 焔はやや呆れ気味に言う。


(試してみないとわからないのでは?)


 鈴花は思ったが、まずは穴がないか調べた方が早いと考え、いったん黙っておく。


 壁に沿って歩いていくと、自生した林に隠れるように存在する、古びた建物を見つけた。

 木造の小屋で、壁に蔦が絡みつき、屋根の瓦は欠け落ちている。錆びついた扉は半開きだった。


「焔、何かが潜むには最適な場所だと思わないか?」


 鈴花の言葉に、焔が静かに頷き、剣を抜いた。

 鋭い剣先が、太陽の光を反射して煌めく。


 邪を切り裂く輝きに、鈴花は思わず身を後ろに引いた。


 ――幽霊は怖くないが、刃物は怖い。触れれば切れるし、切れれば痛い。


 焔は、足音を立てないようにゆっくりと建物に近づいていく。

 鈴花は焔の後ろから、固唾を呑んで見守っていた。


 風に煽られて、扉がゆっくりと、キィキィと鳴きながら開く。

 焔が、中に足を踏み入れていく。


 ――その時。


 小屋の暗闇の奥から、金色の目が光った。


 次の瞬間、闇だまりから小さな生き物たちが飛び出してくる。


 俊敏とはとても言えない、のっそりとした動き。だがその必死の迫力に、思わず動きが止まる。


 出てきたのは、小さな狸と、それより一回り大きな狸だった。おそらく親子だろう。二匹は、焔や鈴花を一瞥もせず、急いで外へと走っていき、あっという間に草の茂みに消えた。


 鈴花も焔も、呆然としてその影を見送った。


「……まだ、どこかに穴が開いているのだろうか。それとも、穴を塞がれて中に閉じ込められてしまったかな」

「……どちらにしろ、あとで狸狩りだ」


 剣を鞘に納めながら、冷静に言う。


「狸ぐらい放っておけばよかろうに。後宮はこんなに広いんだから」

「――蟻の一穴。小さな穴が原因となって、堅固な堤が崩落することもある」


 もっともなことを言われ、鈴花は口を閉ざした。

 狸が無事に逃げ切れることを祈るのを祈りながら、古びた建物の中に入る。


 そして、目を見張る。

 家の中は、野生の動物が根城にしていたと思わしき痕跡のほかに、昨今まで人が住んでいたような痕跡もあった。


 古い布団、欠けた食器、そして何冊かの書物。

 すべて古びて劣化しているが、そこは確かに人間の気配が残っていた。


 鈴花はため息をつく。


「狸より大問題ではないか。広すぎるのも考え物だな」

「…………」


 焔は険しい顔をしている。そして、呻くように言う。


「……ここはおそらく、後宮の工事の時につくられた、作業員用の小屋だろう。工事が終わっても取り壊されることなく残っていて、獣の根城になっていた」

「密会現場の可能性は?」


 問うと、一瞬ぎょっとした顔をする。


「……もし、そのような使われ方がされていたとしても、ずっと昔のことだ。いまのこの場所は、相応しくない」

「そうかな。盛り上がれば、場所なんて関係ないのではないか?」


 焔の表情がより一層強張る。

 鈴花は気にせず話を続けた。


「何の密会かはわからないが……後宮内で、何かが企てられていた可能性は十分にある。外から呼び込んだ人間と、ここで落ち合って、何かしらしていたかもしれないが――まあ、確かに、ずっと昔のことかもな……ん、どうした?」


 頭を抱えてうずくまっている焔を眺める。


「いや、少し……いや、なんでもない……」


 気を取り直すように立ち上がり、鈴花を見てくる。


「――白妃。俺たちが調べているのは、いま起きている幽霊騒動だ。この場所はもういいだろう」

「何を言う。課せられた使命以上の成果を突きつけてこそだろう」


 頭痛がするのか、頭を抱える。

 鈴花は改めて小屋の中を見渡した。


「まあ、いまはこれ以上はいいかな。たいしたものも出てこないだろうし、長居したい場所でもない」


 埃っぽいし、獣の匂いは濃いし、いまにも天井が落ちてきそうだ。

 鈴花が外に出ようとすると、焔もほっとしたようだった。


「皇帝が手を付けている女はちゃんと記録されているだろうから、もしそれ以外が身ごもれば、男が忍び込んだことも自ずとわかっただろうし」

「…………」


 外に出た鈴花は、改めてそびえ立つ壁を見上げる。


「――いま重要なのは、現時点で外部からの侵入が可能か、ということだな」


 それが不可能なら、内部の調査だけでいい。

 侵入が可能なら、外部の調査もしなければならない。これは大仕事だ。


「後宮は、外部から入り込めるような場所ではない。人の出入りは厳密に管理されている」

「それは正面の入り口だけだろう? 先日も壁の下に穴が開いていたし」

「…………」

「この壁をよじ登る根性のある人間も、いるかもしれない」

「どう考えても、簡単に登れる高さではない。猿でもあるまいし」

「では、試してみよう」


 悩むより行動。

 鈴花は壁に更に歩み寄り、間近で注意深く観察する。


 壁の表面は漆喰で塗られていて平坦で、とても手をかける場所がなさそうだ。だが、よくよく見れば小さな隙間や突起が存在する。

 長い月日で劣化し、中の石が露出しているのだ。


 鈴花はその隙間や突起を頼りに、壁へと身体を寄せる。


 最初の一歩は、壁の隙間に指をかけることから始まった。

 隙間をしっかりとつかんで、上へと進んでいく。躊躇いはない。躊躇えば落ちる。


 壁に散らばる石や隙間を踏み台にして、少しずつ進んでいく。


 焔は無言で鈴花を見守っていた。落ちたときに受け止めるつもりだろうか。


 壁の半分を登ったころ、鈴花は一度足を止め、焔の方へと微笑んで見せた。

 そこからは一気に登っていく。壁の頂点に手をかけ、ぐっと身体を引き上げて、壁の上にしなやかに降り立った。


「……猿」

「心地のいい褒め言葉だ。自分が無理だからと言って、思考停止するものではないよ」


 焔はむっと顔を顰め、数本の短剣を取り出した。

 短剣を抜き、壁の隙間に差し込む。鋭い剣は、石壁を容易に割った。


 しっかりと差し込まれたそれを足場にして、速やかに壁を登ってくる。

 鈴花はそれを食い入るように見ていた。


 そして、焔が鈴花の隣に下り立った。


 ――壁の上は幅が狭く、二人の間にはわずかな距離しかない。

 風が吹き、鈴花の髪が焔の顔に触れる。


 ――その一瞬、時間が止まったかのように感じられた。


「こっそりと潜り込んで誰かに手を付けていないだろうな?」

「するか!」



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