第6話 後宮を囲う壁
東宮を出た鈴花は、いったん自分の宮に戻り、動きやすい服装に着替えて再び外に出た。
夜の暗さに紛れながら、月明かりを頼りにして、北へ向かう。
恐れはなかった。
鈴花にとって、夜の闇は恐れるものではない。
そしてようやく後宮を覆う内壁に辿り着く。
鈴花は休むことなく、用心深く壁の周囲を確認していく。
今宵の月は眩しいほどで、松明は必要なかった。
ふと、ざわざわと生き物が動く気配がした。
そちらの方向を注視すると、黒くて小柄な丸い動物が、暗闇の中で目を光らせて鈴花を見た。
「……たぬき?」
次の瞬間、狸は急いで逃げていく。
鈴花が追いかけると、狸は這う這うの体で壁に近づき、下に空いていた穴を潜って外に出ていってしまう。
(まさか後宮内に狸がいるとは……)
狸が出ていった穴を見つめる。壁の一部が崩壊していて、そしてそのすぐ下の土が掘り起こされている。獣の仕業か、はたまた人の仕業か。
横の方に、上に立てかけられていたらしい古びた板が倒れていた。
どうやらこれで穴を目隠ししていたらしい。
鈴花はじっと穴を見つめる。
大柄な男は通れそうにないが、小柄な女か子供ならいけるだろう。
そして予想通り、穴の周辺には、獣の蹄と共に、人が通った痕跡がはっきりと残っていた。
(着替えてきてよかった)
鈴花は慎重にその穴を潜り抜けた。
穴を抜けた先は、本当の森だった。
空気はしっとりと湿っていて、土と緑の匂いが濃く感じられる。どこからか花の香りもする。
ここも外壁に囲まれて、城の敷地の一部のはずだ。だが、長らく放置されていたのか、森に侵食されている。草は自由に生い茂り、木々は自由に勇ましく枝を広げ、小動物たちの気配もあちこちから感じられた。
豊かな草の中には、獣道が通っていた。
鈴花はその道を歩いていく。靴底が柔らかな土に沈む感触が、何とも言えず心地よかった。
そして、焚火の跡を見つける。
焦げた木の匂いが鼻を突き、灰色の痕跡が地面に広がっていた。
――これは、獣の仕業ではない。火を扱う獣は、おそらくいない。
鈴花は焚火の跡にそっと手を伸ばす。すっかり冷めている。
そして、燃やしたかったらしきものが、燃え切っていない。
(雑な仕事だ)
鈴花は灰と燃え残りの中から、大きな布の塊を引き出す。
もし、これを燃やした誰かが後で確認しに来たとしても、きっと獣が荒らしたと思うだろう。
布を大きく広げる。焼け焦げているのは、白い布だった。上質な絹に、銀糸で細やかに織られた刺繍が見えた。
そして、血の痕と、刃物で引き裂かれた痕跡が生々しく残っていた。
「まったく。替えが少ないというのに」
それは、事件の前に盗まれていた鈴花の衣だった。
◆◆◆
夜が明ける前に、鈴花は西宮に戻った。
森で染みついた土や汗を、湿った布で丁寧に拭き取る。
そうしているうちに、外が明るくなり、夜が明ける。
鈴花は窓から夜明けの景色を眺めた。
空は透き通るような青に染まり、その美しさと清らかさにしばし目を奪われる。
どこにいても、空は美しい。
故郷にあっても、都にあっても、後宮にあっても。
その後、朝餉が今日も運ばれてくる。今日も豪華で丁寧な食事だ。そのありがたさを噛みしめながら、鈴花は静かに食事をし、完食する。
女官の格好に着替え、御膳所へ膳を戻しに行く。御膳所は朝の忙しさで賑わっており、多くの女官や下女たちが行き交っていた。
鈴花は膳をいつもの所定の場所に置いた。そのまま少し待っていると、鈴花の元へ料理人の一人がやってくる。
「どうかしましたか?」
「白妃様から、今日の生姜の甘露煮はいつも以上に美味しかったと伝えてほしいと言われました。いつもありがとうございます」
料理人の緊張がふわりとほぐれる。
しかしその目の奥には、淡い悲しみが滲んでいた。
「気に入っていただけてよかったわ。紅妃様もこれがお好きだったのよねぇ……」
「そうだったんですね」
「もう作るつもりはなかったのだけれど、黒妃様からご希望があったから、また出すことにしたのよ」
「……黒妃様も、以前からお好きだったのですか?」
「いいえ。以前はほとんど食べられていなかったわ。味覚が変わったのかしらね……だとすれば、とてもおめでたいことだわねぇ……おっと、このことはあんまり言いふらしちゃだめだよ」
料理人は意味深な笑顔を浮かべ、膳を回収してまた仕事に戻っていく。
御膳所を出た鈴花は女官の姿のまま、黒雪慧の住む北宮に向かう。
対応に出たのは、まるで石像のように表情のない女官だった。
「白妃様が、お話したいことがあるとおっしゃられているのですが――」
「黒妃様は具合が悪いので、しばらくはお会いできないとお伝えください」
態度の冷たさは、まるで冬の風が吹き抜けるようだった。
(まあ、当然か)
黒雪慧は紅珠蘭殺害の犯人を白鈴花と信じている。
その動機が嫉妬なら、自分も殺されるかもしれないと思っているのかもしれない。
白鈴花が対面を求めたところで、応じてくれるはずがないだろう。
更に、妊娠しているのなら、その警戒は最高潮に達しているだろう。
どうしても無事に生まなければと思っているはずだ。
皇子が生まれれば、黒雪慧が皇妃になり、黒家の力も増す。
家のためにも、自分のためにも、警戒するのは当然だ。
(妊娠しているのか、女官に訊いても教えてもらえんだろうな)
腹が目立ち、正式に公表されるまで、北宮は隠し続けるだろう。
鈴花はその場を後にし、後宮の庭を通り抜けて西宮に向かう。
池の横を通るとき、ふと、あの夜見た紅珠蘭の残像が脳裏に浮かんだ。
紅珠蘭は小さく丸まっていた。その姿は、まるで何かを庇っているようにも見えた。
(――あれは、腹を庇っていなかったか?)
その考えに至った瞬間、身に宿す鈴が鳴ったような気がした。
◆◆◆
西宮に戻った鈴花は、白妃の格好に戻って、焔の来訪を待ちわびる。
彼は今日もちゃんと来た。
複雑な胸中のまま、焔を宮の中に入れる。
皇帝以外入れるわけにはいかないと言ったのは鈴花だが、どうしても聞かれたくない話がある。
鈴花のただならぬ雰囲気に、焔も感じるものがあったらしい。
何も言わず、その場所に立ったまま、鈴花の言葉を待っていた。
「紅妃を検死してほしい」
焔は眉をひそめた。
「死体を暴く気か?」
「調べてほしいことはひとつだけだ」
鈴花が内容を伝えると、焔はしばらく黙って考えた後、頷いた。
「わかった。そのように伝える」
そう言って帰っていった焔は、その日の午後に戻ってきた。
検死の結果を携えて。
その表情は朝見たときと変わらない。
暗く重苦しいものだった。
「白妃の言ったとおりだった」
「そうか」
鈴花は淡々と答えた。
想像していたこととはいえ、鉛を呑んだかのように身体が苦しく、気持ちが沈む。
「――腐敗が進んでいなかったから、検死できたらしい」
あの池は北の山岳の雪解け水が湧いて出来ている。
一年を通して水温が低く、水が清く澄んでいる。
死体が安置されている場所も、夏でも寒いほどの場所らしい。そのことが腐敗の進行を遅らせたのだろう。
(最悪だ……ただただ、最悪だ……だがこれで、大方の材料は揃った)
頭の奥がガンガンと痛む。
「あとは……胃から、妙なものが出てきた」
焔が鈴花に見せてきたのは、おそらく紙だった。
墨で何か書かれているが、どろどろになってわからない。
それを見て、鈴花の中でまた一つ繋がった。
「……焔。皇帝に、話がしたいと伝えておいてくれ」
「わかった。では夜に」
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