第5話 蒼月瑛
午後になると、焔は再び西宮に現れた。
来ないのではないかと思っていたので、鈴花は少しばかり驚いた。
「何故また来た」
「そちらが言ったんだろう。剣の稽古でもしておけと」
言って、宮の広い庭――外からは見えない位置で、ひとりで剣の稽古を始める。
(ここでしろとは言っていない……)
剣の稽古などどこでもできるあろうに、どうしてわざわざこの場所でするのか。
呆れながら眺めていると、いつの間にか真剣に見ている自分に気づく。
焔の剣は流れる水のように滑らかで、美しいものだった。まるで舞うように、そして時に滝のように力強く、剣を振るう。
鈴花には剣の腕の巧拙などわからない。だが、手慣れたものだとは思う。身体に完全に馴染んでいる。
――美しい剣だと思った。
だがどこかに、迷いも見える。それを振り切ろうとしているように。
(……しまった……見入っていた……)
なにかとてもいけないことをしているような気になり、鈴花は別のことを考えることにした。
「焔、お前は女をどう口説く?」
せっかく貴重な男がいるのだ。
意見を求めると、焔は慌てたように剣を取り落としかけ、一瞬こちらを見る。
そしてすぐに顔を逸らす。
「口説いたことなんかねぇよ」
鈴花の方を見ないまま、焦ったように言う。
「黙っていても向こうからくるということか? なんとまあ……花を送ったり、文を送ったり、宝飾品を送ったりしないのか?」
「……あんたもそういうことされると嬉しいのか?」
逆に訊かれ、鈴花は首を傾げた。
「嬉しい女は多いだろうな。普通の男はどう口説いているものなんだ?」
紅妃が幸せそうだったという証言が少し気になっていた。
単純に考えると、妃の幸せは帝関連のことではないだろうか。
(いや、食事に好物が出ただの、とても体調がいいだの、色々あるだろうが)
後宮は次代の龍を生むために存在し。
女たちも、そのために存在する。
だから皇帝関連のことと考えるのは、当然の流れだ。
「知らねぇよ」
「知らぬのなら仕方ないか……そういうことに詳しい人物を手配してくれ」
依頼すると、じっと見られる。
「本当に必要なのか、それ」
「……いや、別に。よく考えてみれば、必要のないことだ。ただの知的好奇心だったようだ」
男が女を口説くときの方法など、知っても何にもならない。
焔は疲れたように大きく息をつき、また剣を振り始めた。
鈴花も寝室に戻り、再び寝台に身を委ねた。
蒼月瑛の手紙には、夜に話がしたいと書かれていた。
夜に備えて一度眠ることにする。
夕餉が運ばれてきた気配で目が覚め、手早く食べて身支度をする。
焔はとっくに帰っているようだった。
(そろそろ良い頃合いか)
宮の夜の静寂が深くなる中、鈴花はゆったりとした歩みで東宮へと向かった。
月の光が照らす回廊は、金の灯籠によってさらにその美しさを増していた。灯籠の中の小さな炎が繊細な影を描き出している。
白を基調とした衣装は、月光に照らされてより一層輝きを増しているようだったた。その裾を軽く持ち上げながら、歩む。
天寧宮の前を通り、東宮へ。道中に誰かと出会うことはなかった。
回廊の終わり、東宮の前までくると、扉が静かに開く。
その先には、まるで月の仙女のような蒼月瑛が立っていた。
彼女から立ち上る淡い香りと、部屋を照らす暖かい光が、鈴花を迎え入れた。
「お待ちしておりました、白妃様」
鈴花は東宮の中の、蒼月瑛の部屋に招かれる。部屋は、淡く柔らかな照明で満たされ、金や銀の装飾品、透明な水晶でできた蓮の花の置物、そして高価な織物で飾られていた。鈴花の殺風景な部屋とはまるで違う。
侍女や女官はおらず、部屋にはふたりきりだ。
蒼月瑛は、鈴花の前で自ら淡い香りのする茶を注いだ。
紅に染まる茶の中には、ふわふわと花びらが浮かんでいる。
鈴花はその花びらをしばらく見つめながら、固まっていた。何を話せばいいものか、と。
鈴花は社交性があまりないため、気の利いた話題が思いつかない。
聞きたいのは紅妃の事件のことだが、内容が内容だけにいきなり切り出す話題でもない。
無難な天気の話などを切り出すのも、何となく不自然に感じた。
「わたくし、貴女とずっとお話したかったんです」
蒼月瑛が微笑みながら言った。
「白妃様はとても美しいですもの」
「ありがとうございます」
蒼月瑛の方がよほど美しい。
そう思いながらも礼を言うが、蒼月瑛の言葉は止まらなかった。
「まるで仙界の銀嶺に咲く一輪の花のような、繊細で神秘的な美しさ。わたくし最初にお会いした時から、貴女から目が離せません。きっとこの世の誰もが心を奪われます。それに、白妃様の琴の演奏、あれはまるで天からの音楽のようでした。天女が舞い降り、光の花が降っているかのようでしたわ。ええ、わたくしには見えました」
その光景を思い出しているのか、瞳をきらきらと輝かせて鈴花を見つめる。
頬がわずかに上気していた。
「普段の優雅な振る舞いや品格も、詩や書の深さも、わたくし触れさせていただくたびに感動に打ち震えておりますの。先日の詩会でも、とても見事でしたわ。雨は憂鬱や哀しみをもたらすだけでなく、大地にも人の心にも、成長や変化、さらには美しさをも生む力があるという深さ――わたくしあの詩を聞いて、雨がとても好きになりました」
蒼月瑛はそこまで言って、ふぅ、と小さく息をついた。
「――それに、帝も、白妃様のことを大変気にかけていらっしゃいますし」
含みがある言い方だった。
「私は、帝とは何もありませんが」
「何もないからこそ、存在するものもあるのではないでしょうか?」
そんなことを言われても、ないものはない。
皇帝が鈴花に対して抱いているのは、紅妃の殺害に関わっているのではないかという疑念だけだ。
「それに、白妃様に心を奪われないものなど、この世界にも、過去にも未来にもおりませんわ」
鈴花はあらゆる意味で居心地の悪さを感じながら、口を開いた。
「……本日こちらに来たのは、文をいただいたからです」
本題に入ってくれないのなら、単刀直入に訊く。
「紅妃の件について、何かご存じなのではないですか」
「…………」
蒼月瑛は、鈴花の目をしっかりと見つめた。
その視線が北の方へ向かう。
「それにしても、北は毎日賑やかなこと」
静かな夜の中に、蒼月瑛のやや白々しい声が響く。
北の方には黒妃の北宮がある。確かに時折賑やかだが、流石にここまでは音は聞こえてこないだろう。風向きによってはありえるかもしれないが、いまは静かなものだ。
「黒妃様、もしかしたら身ごもっているかもしれませんね」
「……え?」
「ただの勘ですけれど。ですがもし男子が無事に生まれたら、待望のお世継ぎの誕生ですわね」
「…………」
鈴花は衝撃を受けた。
(――そうだ。ここは元よりそういう場所だった)
次代の龍の器を生む場所だ。
皇帝は月にそれぞれ三度ほど、妃たちの寝所に訪れる。――鈴花以外の妃たちのもとへ。
あまり考えないようにはしているが、何が行なわれているか、わからぬはずがない。
「本当にそうなら、とても素晴らしいことですね」
心の中での動揺を隠しながら答える。そしてそれは本心でもあった。
本当に皇子が生まれれば、皇帝も少しは肩の荷が下りるだろう。
いま生きている直系の皇族の男は皇帝だけだ。
――五年前に起きた『紫涙の変』と呼ばれる異変で、当時の皇帝や皇太子を始め、皇族たちがごく短い期間内で、次々と命を落としてしまった。
紫色の涙のような模様が体に現れ、高熱、呼吸困難を引き起こし、ついには命を落とすのだ。
帝国は大混乱に陥り、政治の安定や後継者問題が深刻化した。
その異変の中、唯一生き残った男子が、いまの皇帝だ。
(そしてその異変が起こったからこそ、私は妃の一人にさせられた)
あんなことさえ起らなければ、故郷から出ることはなかっただろうに。
新たな皇帝を迎えるとき、後宮の人員は一新された。
空いた妃の座に、白家の鈴花が据えられた。
――また異変が起こった時のために。
この契約は、一部のものしか知らない。
蒼月瑛はたおやかに微笑み、再び北に視線を向ける。
「それにしても賑やかなこと……そういえばあの夜も、奇妙な風の音が聞こえたような」
その先には、北宮と、その更に先に森がある。
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