第4話 再び、西宮
そうこうしているうちに、太陽が天空で輝き始める。もうすぐ昼餉の時間だ。
(そろそろ戻っておこう)
鈴花は天寧宮の裏――蓮が咲く池の横を通って、西宮に向かう。
(それにしても、この後宮の広いこと)
中央に皇帝が使用する天寧宮がある。金色の屋根と白壁が特徴的な、豪華な宮だ。
そして、天寧宮を取り囲むように四妃の宮がある。
周囲は高い壁で覆われていて、北側には森が広がっている。
そしてその森の中に、また高い壁が後宮を囲むように存在する。
二重の壁は、外部からの侵入や視線を一切遮断するものであり、同時に、中の女たちを逃がさないためのものだ。
――後宮は巨大な鳥籠であり、巨大な密室である。
(普通に考えれば、紅妃を殺害したのは内部のものだが……あとで内壁の点検もしておくか)
どこかに穴が開いているかもしれない。森の動物が時折中に入ってくるので、可能性は高い。問題は、穴の大きさだ。人が通れるぐらい大きいものが開いていたら、最悪だ。密室の前提が崩れる。
鈴花はため息をつきながら、池を見つめる。
周囲には誰もいない。
あんな事件があったばかりだから、皆、遠ざかっているのだろう。
(――動機に、殺害方法……そもそも何故、殺されたのが紅妃だったのか……紅妃はどうして池にいたのか……自分で来たのか、誰かに誘われたのか、それともどこかで殺されて運ばれたのか……)
死体発見時に踏み荒らされたことで、池の周りには血痕以外の手掛かりが残っていない。
残念ながら、この場所を調べる価値はなさそうだった。
西宮に近づいていくと、誰かがその周囲を動き回っていた。
黒い服を着た黒髪の青年、焔だ。どうやら鈴花が命じた通り、箒を持って掃除をして回っているらしい。
真剣な表情で、箒を動かしている。
力強く石畳の埃を払う音が、心地よく響いていた。
鈴花は声を上げかけたが、自分が女官の格好をしていることに気づき、黙る。
一瞬焔と目が合いそうになり、鈴花はすぐに顔を背けて、頭を下げた。
そしてそのまま足を早めて、その近くを通り過ぎる。
声をかけられることはなかった。
ほっとして、宮の扉を開け、中に入る。
――パタン……
しっかりと扉を閉めて、鈴花は大きく深呼吸する。
(――焦った……)
心臓がどきどきしている。
(とっくにいなくなっているものと思ったのに……まさか本当に掃除をしているなんて)
真面目なのか、本当にやることがないのか。
鈴花はすぐに女官服を脱ぎ、髪と瞳の色を戻した。
白い髪に赤い瞳の姿が鏡に映る。
元の姿に戻ったことを確認して、白妃の衣に着替え、女官服を大切に箪笥に入れる。
宮の窓から庭を覗くと、焔が鈴花を見上げた。
「言われた通り、掃除をしたぞ」
「ご苦労」
「なかなか新鮮な経験だった」
「それはよかった」
それはそうだろう。男が後宮の掃除など、なかなかできる体験ではない。
「そろそろ一度戻る。後でまた来る」
箒の柄を肩にかけながら言う。
(もう来なくていい)
心の中で思っていると、焔が顔を顰める。
「顔に出ているぞ」
「それは失礼。だが、ここに来てもらっても頼むことはない」
――あるとすれば、内壁の調査ぐらいだ。
そしてそれこそ頼むにふさわしい用事だ。後宮は広い。内壁をぐるっと点検するだけでも、それなりに時間がかかる。
だが、頼むのはなんとはなしに気が引ける。
まだ自分の思考を他人に知られたくはない。
何を疑っているのか、何を知りたがってるのか、どこまで情報を手に入れているのか。
自分の運命と、他人の運命がかかっているのだ。
中途半端なことはできないし、生半可なことを口には出せない。
そして鈴花は、焔のことをまだ信頼していない。
「そんなことはないだろう。池の水を攫うでも、宮の下に潜るでも、なんでもするが?」
「それは確かに誰かに頼みたい仕事だが、いまのところは必要ない」
鈴花はちらりと焔の剣を見た。
「時間が余っているのなら、剣の稽古でもしていたらどうだ」
「いいのか?」
焔の目が輝いた。
「好きにしてくれ」
鈴花は強い疲労感を覚えながら、ため息交じりに言って窓から離れた。そのまま寝台に行き、ぱたりと倒れ込む。
(まったく、調子を狂わされる……)
皇帝にも、焔にも。
後宮に来てから二年、こんなに調子を狂わされたのは初めてだ。
いままでは本当に何事もなく、空に流れる雲をのんびりと見つめて過ごしてきた。
皇帝が宮に訪れることもなく、皇帝の寝所に赴くこともなく、女の嫉妬にも権力争いに巻き込まれることもなく、平和で退屈な日々を過ごしていたというのに。
軽く目を閉じると、窓の外から、爽やかな風が吹き込んでくる。
外の森からの風には、鳥たちの歌声が紛れていた。
鈴花は、一時の休息に身を委ねた。
少しすると、昼餉が運ばれてくる気配がして身体を起こす。
美しい磁器の皿に盛られた昼餉は、海老と茸の入った春雨、鶏むね肉の蒸し物、蒸し餅、生姜の甘露煮、果実の寒天寄せ、そして花茶だ。
特に、生姜の甘露煮が、夏の暑さを忘れさせるようなさっぱりとした風味で、爽やかさを感じた。
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