第3話 後宮探索
後宮内には多くの庭園がある。そのひとつひとつが計算しつくされた美しい造りになっている。
絶妙な感覚で配置されている大きな石などは、こっそりと休憩できる物陰にもなり、文の中身を確認する場所としても最適だった。
ひんやりとした影で、鈴花はゆっくりと文を開く。繊細な文字が流水のごとく並んでいた。
『先日、星々が流れるような出来事が我々の周りに訪れました。その夜の風のささやき、水面の揺れ動きを、共に語らいたく存じます。
再び、風が私たちを誘う時、静かな夜に、心の中の詩を語り合えますことを切に願っております。
お身の回りの風と月を、どうぞ大切に』
一見、なんとも要領を得ない私信だ。
(まるで暗号だな……ともあれ、蒼妃が事件について何かを知っているのは間違いない)
その情報を白鈴花と共有したいらしい。
そして、身の回りに気をつけろとも書かれている。
鈴花は手紙を元の形に戻して、柳の枝に巻き付ける。
それを衣の合わせの深くに入れて、落とさないようにした。
西宮を出てから、あまり時間が経っていない。
このまま戻ってもまだ焔がいるだろう。
(次は……紅妃の南宮に行ってみるか)
気が重いが、見るべきものを見なければならない。
鈴花は立ち上がり、木々の影から陽光の下に出た。
◆◆◆
――夏の晴れの日だというのに、南宮はどんよりとした雰囲気に覆われていた。
普段は季節の花がたくさん咲いて華やかな空間だが、いまは花たちも萎れて頭を下げている。まるで喪に服すかのように。
部外者には何とも近寄りがたい雰囲気だ。
近づいたところで、何か情報が得られるだろうか。
前に踏み出すのをためらっていた時、すすり泣きの声が大きな石の影から聞こえてきた。
こっそりと覗いてみてみると、まだ幼さを残す少女の女官が蹲って泣いていた。
「あ……」
戸惑うように上げられた顔は涙で濡れている。
「ごめんなさい、すぐに片づけに戻ります……」
少女は急いで立ち上がろうとしたが、鈴花はそれを軽く制した。
「立てない時は、立てるようになるまで、無理はしなくていいです」
「でも……」
「私はただの新入りですし」
鈴花は微笑み、少女の隣に座る。
少女が着ている衣は薄紅色だ。紅妃に仕える女官だろう。
片づけとは、主のいなくなった宮の片づけだろうか。
(随分性急なことだ……何かの手がかりが残っていたとしても、丸ごと片づけられかねないな。皇帝に抗議しておかないと)
あまりにも情のない仕打ちである。
南宮の多くの人々にとって、主の死はいまだ受け入れがたい事実であろうに。
「まだ信じられないの……」
ぽろぽろと涙を流しながら、少女は呟く。
「紅妃様は、あの日もとても幸せそうだったのに……」
「ええ、とても悲しいことです」
鈴花は懐から、琥珀飴を取り出し、少女にひとつ渡す。
「内緒ですよ」
甘いものは心を和ませる効果がある。
少女はゆっくりとそれを口に運んだ。
悲しみに暮れていた顔が、わずかに綻ぶ。
「それでは、私は行きますね」
鈴花は立ち上がり、反対側の方角――北の方へ歩き出した。
南宮は、まだ鈴花が立ち入っていい場所ではない。
(宮に戻る前に、黒妃の様子も見ておこう)
――
南宮とは正反対の場所だが、動き回るのは嫌いではない。
◆◆◆
北宮の入口では、深緑の織物が風に吹かれてゆらゆらと揺れていた。
鈴花はあくまで女官になりすまし、屋根のある回廊を歩いていく。
その刹那、北宮の内側からひどい物音が響いた。
鈴花は一瞬足を止め、周囲の様子を確認する。
――幸いなことに、誰もいない。
鈴花はすぐに柱の陰に身を隠し、北宮の方をじっと見つめた。
(何かあったのか?)
鏡か陶器が割れる音が、断続的に響く。
鈴花は気配を隠して北宮に忍び寄り、物陰から耳を立てる。
「こんな物、食べられると思っているの!?」
激しい怒鳴り声は、黒雪慧のものだった。
「では、何をお召し上がりになられますか……?」
恐る恐る伺う声。
そして訪れる長い沈黙。
まるで雷の怒号を待つ時間のように、鈴花の胸までどきどきとする。
「……生姜の甘露煮」
ぽつりと呟かれたのは、最近宮中でよく出てくる料理だ。
生姜を甘く煮詰めたもので、酸っぱいが爽やかで、夏の季節によく合う。
確か、今日の朝餉にはなかった。
「すぐにご用意します」
ばたばたと侍女や女官たちが動く音が聞こえる。
御膳所に残っていればいいが、一から作るとなると時間がかかるだろう。それまで黒雪慧は待てるだろうかと、鈴花まで不安になってくる。
「……ああ、イライラする」
黒雪慧の独り言には苛立ちと怒りが燻っていた。
いったい何があったのか。まるで手負いの獣のようにひどく気が立っている。
「帝はどうして白鈴花を投獄しないのよ!」
叫び声が響く。
(私と皇帝に苛立っているのか……)
黒雪慧は完全に鈴花が犯人だと思っているようだ。
「わたしに何かあったらどうするのよ……早く牢に閉じ込めて、ぐっちゃんぐっちゃんにしちゃえばいいのに」
純粋な怒りのこもった言葉の響きに、鈴花の背筋がぞっとした。
ぐっちゃんぐっちゃんの意味するところを知りたい。いや知りたくない。
(いまは近づかない方がよさそうだ)
いまの姿は白鈴花のものではないが、本能的に。
盗み聞きしているのがバレないうちに、早々に退散するのがいいだろう。
(しかし、あの様子では黒雪慧は犯人ではなさそうだな)
鈴花が犯人だと疑ってもいない。
演技だとしたらたいしたものだが、そこまで腹芸ができるようにも見えない。
黒妃は感情の表現が激しすぎる。よく言えば素直だが、皇妃になるには不安が残る性格だ。
(紅妃が亡くなられたのは大きな損失だな……)
紅珠蘭は、明るく、華やかで、そして包容力のある女性だった。
同時期に後宮に入った鈴花にも、丁寧に接してくれた。後宮に入った時、鈴花は十二歳、紅珠蘭は十七歳。姉ができたような不思議な感覚だった。
あれから二年、交流自体はほとんどなかったが――……
後宮の華を失った痛みを、いまさらながら思い知った。
感傷を振り払いながら北宮から離れようとしたとき、深緑の織物を開けて、若い女官が飛び出してくる。あまりにも慌てていたのか、わずかな段差につまずいて派手に転ぶ。
激しい衝撃だったのか、そのまま地面に突っ伏したまま動かない。
鈴花は女官に近づき、手を差し伸べた。
「大丈夫ですか?」
「あ……すみません……」
女官はよろよろと顔を上げ、上半身を起こす。
そして鈴花の手を取ろうと右手を伸ばす。
その瞬間、袖が落ちるようにめくれ、女官の手に爛れた跡がついているのが見えた。
「あっ、これは、軽い火傷ですから――」
慌てたように顔を伏せて、聞いてもいないのに言って、自力で勢いよく立ち上がり、袖を直す。
そして、天寧宮の方へ走り去っていく。
きっと御膳所に生姜の甘露煮を要望しに行くのだろう。
(怯えすぎだ……主がそんなに怖いのか?)
実家から侍女も女官も連れてきていない鈴花には、従者たちの苦労はよくわからない。
もしそれを持つ日が来たら、せめて働きやすいようにしてやろうと思った。
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