第2話 後宮の朝



 妃たちの朝は遅い。


 皇族や妃は女官たちの仕事の準備が整ってから目覚めるのが慣習だ。

 だが、鈴花は女官たちと同じように、夜が明ける前から動き出す。


 鈴花の住む西宮は後宮の西側――最も端に位置する場所にあり、常に独特の静けさを保っている。

 寝室には、寝台とわずかな家具しかない。豪奢な装飾もなく、閑散としたものだ。


 寝台から降りた鈴花は、鏡台の前に立ち、黒塗りの道具箱の蓋を開ける。中には櫛と香油、簪が収められている。


 鈴花は、慣れた動作で身支度を整えていく。

 髪に香油を塗った櫛を通し、簡単に結う。服を着て、髪に簪を刺し、帯の上に鈴を結ぶ。ならない鈴を。


 身支度が終わったころ、部屋の扉が静かに開き、後宮女官が朝餉を運んできた。


 鈴花には侍女も専属女官もいない。

 四妃に属さない後宮付きの女官が、必要最小限の鈴花の世話をしてくれる。


 鈴花はこの状況をありがたく思っていた。自分の身の回りの世話は、自分でできる。

 周囲の人間はできるだけ少ない方がいい。


 鈴花は朝餉の乗った膳を見つめる。蒸籠に入った点心や、お粥、野菜の炒め物、魚の蒸し物、蜜漬けの果実、そして香り高い茶。


 後宮女官は食事を運び終えると、一言も発さぬまま外に出ていく。


 鈴花は短い祈りをし、箸を取って食事を始める。

 皇帝と同じ食事だけあって、豪華なものだった。家にいた時とは比べ物にならない。


 ――だが、冷めている。


 毒見役を何人も経由しているから仕方ないことだが、すべての料理が冷めきっている。

 現在生き残っている皇族は皇帝のみのため、慎重すぎるぐらい慎重になっているから仕方のないことだ。


 外の光が部屋の中に射し込む中、鈴花はひとりで食事をとりながら、その後の一日の予定を思い巡らせた。


 食事が終わって茶を飲んでいたとき、再び外の扉が開き、誰かがやってきた気配がする。


「――白妃はいらっしゃるか」


 やや高圧的な、男の声。

 来客に応対するような侍女も女官もいないため、鈴花は自ら宮の入り口の方へ向かう。


 そこにいたのは、武官のような黒髪黒目の男だった。

 初めて見る顔だった。

 鍛えられ、引き締まった体躯と、腰に差した剣を見て、鈴花は嫌な予感がした。


 まさか皇帝は後宮に武官を寄越したのだろうか。いやまさか、そこまで決まり事を逸脱しないだろう。後宮でこんなに堂々としているあたり、宦官なのだろう。


 鈴花は、彼の目を直視する。


「お前が?」

「ああ、そうだ。好きに使ってくれ」


 当たって欲しくない予感ほど、よく当たる。

 鈴花はわずかに頭痛を覚えながら、問うた。


「そうか。何と呼べば?」

エン。好きに使ってくれ」


 氏を名乗らない。

 表情は涼しく、落ち着いているが、とんだ無礼者である。


 鈴花は、この者が貴族ではないだろうと思った。

 顔は整っているし、気品もある。貴族の血を引いているだろうが、間違いなく市井育ちだ。登城したのはある程度育ってからだろう。そして宦官かどうかも怪しい。


 あまりにも男らしすぎる。普通、宦官というものは、去勢された関係でどうしても身体の線が丸くなる。

 皇帝が選んだ人間なのだから、実力はあるだろうが。


(何を考えてこんな人間を寄越したのか……理解できん)


 彼自身がどうということではなく、場にそぐわない。目的にもそぐわない。力仕事はできそうだが。

 女と宦官ばかりのこの後宮で、彼を連れて歩けば、いったいどれだけ目立つことか。


「……では、この宮の周りの掃除をしておけ」

「俺は護衛と手助けで来たんだが」

「好きに使えと言ったのはお前だ」


 冷静に言い、不満顔の焔を視線で刺す。


「いいか。中には決して入ってくるな。そこより内に入っていいのは、皇帝のみだ。お前はただ、外から人の出入りを監視しておけ」


 それだけ言い、鈴花自ら扉を閉じる。

 再び扉を開けるような無粋はしてこなかったことに安堵しながら、部屋に戻る。


(さて、どこから手を付けるべきか)


 部屋の扉を閉め、しっかりと閂をかけて、考える。


(……やはり、まずはいまの後宮を知るところからか)


 それはとても気の重い仕事だったが、避けられるものではない。


 鈴花は壁にかけられた大きな鏡の前に立ち、特徴的な白い髪を手に取る。

 小さく力を込めて、術をかける。

 瞬く間に白い髪は漆黒に染まった。


 次に、瞼を閉じる。

 瞼を開いたとき、赤い瞳は黒く染まっていた。


 特徴的な二つの色が、巷に満ちる黒に染まると、もはやまったくの別人だ。

 簪を抜き、後宮女官服に着替えれば、後宮に住む他の女官と何ら変わらない姿になる。


(――よし)


 鈴花は自らが食べ終えた膳を持って、外に出る。

 外では焔が壁に寄りかかり、何かを警戒するように周囲を見渡していたが、鈴花の姿にはまったく気づかない様子だった。最初から中にいた女官と思っているのだろう。


 空の膳を持ったまま、御膳所に向かって外の渡り廊下を静々と歩く。

 じめっとした空気が肌を撫でる。

 紅妃が惨殺された影響だろう。後宮内はいつもよりずっと空気が重かった。




 回廊を歩いていると、前方から青い衣の一団が見えた。


「――あら?」


 中心にいた女性が、鈴花を見て声を上げる。


 ――蒼月瑛ソウゲツエイ。四妃のひとり。


 長い黒髪は、月の光のような輝きを放ち、髷には薄紫色の飾りが煌めいていた。

 顔立ちは均整がとれており、優雅で穏やかな微笑みが浮かんでいる。特に深い青のような色をした瞳には、人々を引き込む力があった。


 身に纏っている蒼色の衣は、銀糸と金糸で繊細な刺繍が施されている。

 品のある立ち振る舞いは、貴族出身の侍女たちと共にあっても格の違いを感じさせるものだった。

 ふわりと微笑むと、いい香りがした。


 ここから反対の東宮に住む彼女が、こちら側にくるのは大変珍しい。


「ちょうどいいわ。あなた、白妃へこれを渡してもらえるかしら」


 蒼月瑛の横に控えていた侍女が、柳の枝に結ばれた文を鈴花に差し出してくる。しかし鈴花の両手は空膳によって塞がれている。


 侍女は鈴花の衣の合わせに柳を差した。


「承知しました」


 鈴花は一礼してその場を離れる。その心中は穏やかではなかった。


 文の内容が気になる。しかし、すぐに宮の部屋に戻るのは、気が進まない。せめて、昼餉の時間までは離れていたい。

 こっそりと中身を確認するのも一考だが、万が一誰かに見られたら、妃同士で交わされる文を盗み読みしたかと思われる。


(それにしても、柳の枝か……何とも意味深なことだ)


 柳は悲哀や涙の意味を持つ。


 いまの時世に相応しすぎるぐらい相応しかった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る