第7話 月華燈舞
――夜。
約束の時間になり、鈴花は天寧宮に入る。
皇帝に会うのは、紅珠蘭の死体が発見された日の夜以来だ。
部屋は静寂に包まれており、淡い香が漂っていた。
大きな緞帳が部屋の中央を隔てており、その向こうには皇帝の姿がぼんやりと見えていた。
部屋には他に誰もいない。侍女も近侍も宦官も。
鈴花は緞帳の奥に問いを向ける。
「帝は、妃たちに文を送る習慣はありますか?」
「たまにな」
あっさりと認められ、鈴花は軽く衝撃を受けた。
(私はもらったことがないが……?)
皇帝は続ける。
「儀礼的なものだ」
「そうですか」
――儀礼的なものさえもらったことがないが。
皇帝はずっと鈴花に無関心だった。
公的な儀式や行事の時に言葉をもらうことはあるが、特別なものは一切ない。
蒼月瑛が皇帝は鈴花のことを気にかけていると言っていたが、やはり彼女の勘違いだろう。
「それがどうかしたか」
黙った鈴花を促すように、皇帝が言う。
「はい。これですべての謎が解けました」
謎を解くための最後の欠片が手に入った。
皇帝の気配が、不意に緊張感を帯びる。
「細かいところは推測が入りますが、大筋は間違ってはいないと思います。期限よりずいぶん早いですが、お話してもよろしいでしょうか?」
訪れたのは、沈黙だった。
長い沈黙が続いた後、緞帳の奥が揺らいだ。
「――いや。どうせなら皆の前で披露してみせろ。ちょうど月華燈舞がある」
月華燈舞。
夏の夜、月の下で、妃たちが舞いを捧げる行事だ。
それに参加するのは、後宮の最上位の妃たちだけだ。
紅妃の死による喪中のため、今年は中止になると鈴花は思っていたのだが。
(重圧をかけてくるか……いい性格をしている)
だが、いいかもしれない。
事件の真相を公にする場として、月華燈舞の場は非常に効果的だろう。
それに、相手の反応を見ながら推理できる。
反応次第で修正していってもいい。
だが――
検死結果は皇帝の耳にも届いてるはず。
なのに、こんな機会を設けようとするなんて。
「後悔なさらないでくださいね」
「後悔ならずっとしている。増えたところで、そう変わらん」
「では舞台の位置は、あの池の前にしてください」
部屋の空気が一瞬冷たいものになる。
皇帝は、その池――紅珠蘭が見つかった池――を思い浮かべたようだった。
真相を明かす場として、これ以上の舞台はない。
皇帝は「ああ」とだけ言った。
◆◆◆
月華燈舞の夜は、よく晴れていた。
月が高く昇り、池には銀色の月の光が映り、急ごしらえの舞台の周辺には月光桂花の甘い香りがどこからともなく漂っていた。
後宮の人々も、高官たちも、数々の侍女や宦官たちが、特別な儀式のために集まっていた。
だが、その場には緊張感が漂っている。
凄惨な事件が起きたばかりの現場の近くだ。
なぜわざわざこのような場所で――誰もが、笑顔の下で皇帝の真意を探っていた。
妃の中で、黒雪慧だけが舞いの衣装に着替えず、席に座ったままだった。
体調不良のため、今回は舞わないことに決まっていた。
――紅珠蘭の関係者たちも、当然いない。彼ら、彼女らは喪に服している。
それに、紅珠蘭を殺した疑いのある鈴花と同じ場所にはいたくないだろう。
(その方がいい)
楽師が奏でる音楽が流れ始め、まず、蒼月瑛が中央に進み出て、音楽に合わせて優雅な舞いを見せる。
青いの衣が風になびき、彼女の動きに合わせて舞っている。その姿は、まるで天女が舞い降りてきたかのようだった。
舞が終わり、盛大な拍手がその見事さを称えた。
そして鈴花の番がくる。
(――さて、始めようか)
鈴花が舞台に進み出ると、音楽が奏でられ始める。
白い薄衣を身に纏って舞い始めた。風が吹き抜け、衣がひらひらと揺れて、月の光の中でまばゆく輝いていた。
突然、風が強くなり、灯が揺れ、月光桂花の花びらが舞い上がった。
舞いが終わった後、大きな拍手が鳴り響いた。
長時間鳴り続けるそれが、鈴花の舞を賞賛していた。
鈴花は、舞台の上から集まった人々を見つめ、深く一礼した。
「二人とも、大変見事であった。褒美を取らせよう。なんでも言ってみるといい」
御簾の奥から響く皇帝の声に、鈴花は微笑みながら答えた。
「では私は、皆様方の貴重なお時間を少しだけいただきたく思います」
そして、彼女は深く一礼し、黒雪慧のいる場所を見つめる。
「――黒妃。ご懐妊、おめでとうございます」
その言葉に、場の空気が一変した。
ざわめく気配の中、黒雪慧の怒りの眼差しが鈴花に向けられていた。
当然だ。このような大切なこと、勝手に言われたのだから怒りもする。
もっと大々的に発表され、惜しみない祝福が国中から寄せられるはずだったのに、と。
「――この場をお借りして、あの夜の話をいたしましょう」
鈴花は黒雪慧の背後にいる、手に包帯を巻いている女官を見つめる。
火傷をしていた女官だ。
彼女の顔はひどく怯えているが、その周囲の侍女や女官たちの姿は落ち着いたものだった。
「――紅妃を殺したのは、黒妃の侍女の方々です」
――一瞬、場が凍りつく。
静寂の中、侍女たちは表情一つ変えない。
仮面のような顔の内にある本当の感情は、鈴花にはわからない。
動いたのは侍女たちではなく、その主である黒雪慧だった。
「でたらめを!」
凛と立つ姿は、貴族の娘として、皇帝の妃の一人として、相応しい威厳に溢れていた。
その手でしっかりと腹を庇って、鈴花を睨む。
「そんなひどいことができる者たちではないわ。証拠はあるの? 証拠もなくわたしたちを疑うというのなら――」
「続けろ、白妃」
皇帝の声が黒雪慧を黙らせる。
鈴花は頷き、続けた。
「犯行は残忍なものでしたが、それを犯した者たちが残忍とは限りません。恨みがあるとも限りません」
「あんな殺し方をしておいて、か?」
皇帝の声には怒りが滲んでいる。
紅珠蘭の身体には無数の傷がついていた。誰もが、その傷を恨みゆえのものと思っている。
「はい、恨みではありません。ただ必要があったから刺したのです」
鈴花は思い込みを打ち砕くため、はっきりと言った。
「そして、念を入れるために刺した。何かを隠すために刺した。そうする必要があったから」
「どんな理由があれば、あんな惨いことができる」
「木を隠すなら森の中。人を隠すなら人の中……死体を隠すなら、死体の中」
鈴花は両手でそっと、腹部を押さえる。
「本当に死んでほしかったのは、紅妃ではなく、その中の御子だったのです」
舞台に零れていた月光桂花の花びらが、ひらりと池に落ちていった。
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