エピローグ

「……朝、か」 


 カーテン……と呼ぶには貧相すぎる襤褸布から差し込んでくる光に、〈俺〉はゆっくりと体を起こす、差し込んでくる光の角度的に、時間的にはまだ昼前。かろうじて朝と呼べる時間帯なのだろう。時間を確かめたくともこの家に時計などという代物は存在しない。


 俺は不健康に曲がった猫背を伸ばすように大きく欠伸をし、いまだ覚醒しない頭でぐるりと自分の周囲を見回した。差し込む朝日が映し出しているのは、染みの浮いた天井と古びた壁紙、そして部屋の中に山のように積まれた長年かけて自分が収集した怪しげな品々だ。

 それに加えて昨晩食べ散らかしたコンビニスイーツのゴミと、同様に空になったカクテルやチューハイの缶がだらしなく畳の上に転がっている。どちらも明らかに夏のさわやかな日差しにはふさわしくないものばかりだ。

 ふさわしくない、というなら夏の朝日に一番似合わないのは俺という存在だろう。事実、こうして朝の陽ざしを浴びるなど数週間……もしくはひと月以上なかったかもしれない。


 基本的に夜型生活の俺は良くて昼過ぎ、最悪日が傾いた夕方頃に活動を開始する完全昼夜逆転の生活を送る人間だからだ。だが、そんな俺が予定が何もないにも関わらず、まだ朝と呼べる時間に目が覚めた。

 携帯のアラームも設定していない。誰かが家の扉を叩いたわけでもない。名前を繰り返すしか能のない騒音と同義の選挙カーが不運にも家の前を通ったわけでもない。

確かに気温は上がり始めているが、いつもこの熱がこもる家で夕方すぎまで寝ている身にとってみれば、この程度の暑さはまだ快適な方だ。眠りを邪魔されるほどのものではない。

 だが、不思議と目が覚めた。まるで何かに呼ばれるように、汚泥のような眠りの中にいた意識が引き上げられた。

 今のような状況をきっとこう呼ぶのだろう。虫の知らせ、と。

 俺はこういった直感じみたことは何よりも信用することにしている。それに、思い当たる節がないわけではなかった。


 食べ散らかしたごみを部屋の中に置き去りにしたまま、俺は見ず知らずの他人が映る写真が貼られた廊下を何食わぬ顔で通り過ぎる。すっかり燃え尽きた香がわりの線香のそばに置かれた「とあるもの」を乱暴に掴むと、玄関に転がっている便所サンダルへと足を滑り込ませた。

 建付けの悪い扉を開ければ、久しぶりの朝日がひどく目に染みる。

 全く、いつから日本の夏というのはこんなに人間に対して攻撃的になったというのだろうか。

 俺は引きずるように重い足を動かし、隣室の一〇二号室の前で足を止める。閉ざされた扉の向こうからは物音どころか人の気配すら感じることもできない。

溜息交じりの息を吐くと、先ほど玄関から持ち出した鍵束から取り出した一〇二号室の鍵で施錠を外す。

 確かめるように取っ手に手を回せば、重苦しい音と共に扉は簡単に開いてしまう。ぎぎ、と鈍い音を立てて開いた扉から薄暗い玄関に向かって夏の日差しが差し込んでいく。

 我が家である一〇一号室と同じ間取りであるにもかかわらず、最低限の日用品と家具しかおかれていないがらんとした部屋だ。とても若さ溢れる誕生日を迎えたばかりの十九歳の男子大学生の部屋とは思えない。


「……おい」


 声をかけるが、部屋の奥から返事はない。

 俺は玄関で乱暴にサンダルを脱ぎ捨てると、家主の許可を得ることなく家の中へと上がり込んだ。ぺたぺたと薄暗い廊下を歩き、目の前に広がった光景に目を細める。

朝起きた時から予想はあった。やはり人間の直感、所謂第六感というのは不思議なもので、根拠もないにも関わらず何よりも信頼性があるものだ。

 ベランダから差し込む朝の陽ざしを浴びながら、まるで古い時計の振り子のように人間の体が揺れていた。扉を開けた時に部屋の奥から漂ってきた吐瀉物と排泄物の匂いから、部屋の中で何が起きたかは大体想像がついていた。

 縄の代わりに使われているのはきっとシーツをよじったものなのだろう。男にしては細い首に食い込むように、白い布が浮き上がっているのが見えた。


 まるで公園のぶらんこのように時折揺れる体の下には、一枚の手紙と封筒が落ちていた。腰を落とし覗き込めば、紙には「奥村鈴音」という聞き覚えのある名前と、「大きくなってもずっと一緒に居ようね」という純粋無垢な子供の願いが、幼い文字でつづられていた。

 きっと今頭上で揺れるこの男は、この願いと同じものを口にしてしまったのだろう。だから連れていかれてしまった。今度こそずっと一緒に居られる場所へ連れていかれてしまったのだ。

 それがこの男、間宮悟にとってどういう意味を持っていたのかはわからない。だが、奥村鈴音によって与えらえたものが「恐怖」という感情だけではなかったと思いたい。

 首を吊る、という自殺行為は古来より処刑法として採用されているため、一瞬で楽に命を立てると思われがちだが、決してそんなことはない。むしろ比較的長い間苦しんだ上に死に至るため、基本的に苦悶の表情を浮かべ舌を突き出して死ぬことがほとんどだ。

 だが、今自分を見下ろすように揺れる男は決して苦悶の表情など浮かべてはいなかった。

 まるで遊び終えた子供が眠るように生を終えたその姿に、俺は僅かな羨望すら抱いてしまった。


 僅かに湧きあがった感情を否定するように、俺はよれよれのジーパンのポケットに入れていた携帯電話を取り出し、緊急番号である110の番号を押した。

 僅か一コールでつながった先に、隣室で縊死死体を発見した旨を伝えれば、当然だが何故自室ではない隣室で貴方が「それ」を見つけたのかと不審げな声が電話口から漏れた。


「俺、このアパートの管理人なんで」


 昨晩言葉を交わした時に明らかに挙動が不自然で、朝起きて部屋に向かって呼びかけたが何の反応もないことを心配し、管理人として合いかぎを使い部屋を開けたところ発見したことを伝えれば、ある程度納得したのかすぐに警察を向かわせると伝えられた。

 僅かに発見者の俺を疑う様子はあったが、俺が殺人を犯した犯罪者として疑われるようなことはないだろう。目の前の状況を見る限り、明らかにこれは自ら命を絶った自殺なのだから。

 たとえそれが本当は、約束を果たすためにこの世の住人ではない何かに連れていかれたのだとしても。

 とはいえ、この部屋に残っている護符だけはさっさと処理してしまわなければ。セロテープで付けられただけの古びた札を剥がし、俺はふと足元に落ちる手紙に目を止める。

 奥村鈴音、と書かれたその手紙を拾い上げると、俺は相変わらず人形のように揺れる間宮悟に声をかけた。


「これはもう必要ないだろう」


 返ってくる言葉はない。だが、風もないのに頷くようにその体がゆらりと揺れたような気がした。

 視線を動かせば、片付いた机の上に昨日渡したコンビニケーキがカップの中で崩れたまま手つかずになっているのが目に留まった。


(……こんなことになるなら、渡さなければ良かったな)


 そうすれば自分が食べることが出来たのに、そんな不謹慎な考えが頭をよぎった。



 先ほど脱ぎ散らかしたサンダルに足を通し、俺は再び夏の日差しを浴びながら外の空気を吸い込んだ。ポケットの中に手を差し入れ、いつから入っているか分からないタバコ用のライターへと手を伸ばす。小さく灯った火を古びた手紙と護符の端につければ、じわじわと灰黒色が広がるように炭化していき、ものの数秒で燃え尽きてしまった。

 紙の面影を無くした黒いそれを指ですり合わせれば、灰になったそれは夏の風に飛ばされ消えていく。まるで最初から何も存在しなかった、とでもいうかのように。

ぶぶ、と先ほどポケットに押し込んだ携帯電話が着信を告げる音に、俺は反射的に通話ボタンを押す。もしかしたら警察の折り返しかと思ったが、どうやら相手は警察ではなかったようだ。


『えっ、珍しい。こんな時間に玲が電話に出るなんて天変地異の前触れ?今日は真夏だけど雪でも降るんじゃない?あとで降雪確率調べておかないと』


 電話口でまくしたてるように紡がれたその声に、俺は思わず眉を寄せる。騒がしいこの声の主が誰のものか、着信表示を視なくてもすぐにわかってしまったからだ。


「うるさいぞ、神永」

『ちょっと!可愛い幼馴染にその言い方ってないじゃん。というか、そろそろ私の漫画返してよ!これ以上は延滞料取るからね!というか、もう起きてるなら今から返してもらいに行ってもいい?私も久々にアンタと…あと隣に住んでる後輩君に会いたいし!』


 お菓子の差し入れくらいなら持ってくよ、と名案を思い付いたとでもいうかのようにはしゃぐ声に、俺はゆっくりと口を開く。


「今日だけは絶対に来るな。もし来たらまた代講頼む数が増えるぞ」

『え、ちょっとそれどういう脅しよ!』


 電話先でなにやら喚いている言葉を一切無視し、俺は通話終了ボタンを押す。すぐに再び着信が入るが、俺がその通話を取ることはなかった。昨晩も告げたが、一〇二号室に住んでいる、いや住んでいた男は本当に面倒くさい女に気に入られる性質だったらしい。

 一〇三号室にいた奥村鈴音に気に入られてしまったように。

 俺は一〇三号室の扉の横に据え付けられている電気メーターへと目を向ける。そこに映る数字は、以前目にした数字から一切メーターが動いていない。つまり、この家の住人は一切電気というものを使っていないということになる。一切電気を使わない、そんなこと現代社会に生きる人間にとっては不可能なことだ。

 だが、俺にとってはこの部屋の電気メーターが回っていないことは不可解なことでもなんでもない。むしろ当然の事だ。今目の前にある一〇三号室、表札もかかっていないこの部屋には長い間住人というものが存在しないのだから。


 一〇二号室に幼い少女の霊が出る、という噂はこのあたりでは知らないものがいないほど有名な噂だ。部屋を貸し出せば家賃の安さと怪談目当てでやってきた人間が住み着き、長くても一週間程度で音を上げて部屋を飛び出していく。だが、そうして逃げ出す人間が存在するからこそ、噂が広まり「このアパートの一〇二号室はやばい事故物件だ」という噂がまるで伝染病のように広がっていった。

 だが、蓋を開ければ一〇二号室など一〇三号室に比べれば可愛いものだ。一〇三号室に住み着いた人間は、大体が行方不明として姿をくらましてしまっている。だからこそ、誰も一〇三号室で何が起きたのかを知らない。ただ住んでいる人間が消息不明になっただけで、彼らが最後に何を見たかを誰も知らないからだ。

 住人が行方不明になる現象が続いたあと、祖父からアパートの管理人を引き継いだ俺はこの部屋を封鎖した。最後の住人が消えてからもう数年間、この家に住み着いた人間は存在しない。もちろんそれは生きた人間はという意味だ。

 一〇二号室に出る子供の霊があの日殺された少女の霊だとするならば、一〇三号室に住み着く者は一体何者なのか今までずっと分からないままだった。


「奥村すずねさん、知ってますよね?」

 

 あの男、間宮悟は昨晩俺に向かって確かにそう言った。俺と同じ立池大学文学部三年の同級生だと話していたということは、あの男の目には一〇二号室の幼い少女ではない、成長した姿の奥村鈴音が見えていたということになる。


(……霊は死んだときの姿のまま、時を止めると思っていた)


 だが、どうやら必ずしもそうとは限らない。それを間宮悟は自らの命をもって証明した。

 収集する貴重な怪談の一例として、今後のために覚えておく必要があるだろう。今後の為には有益な情報だ。


(とはいえ、俺自身は何も視えないんだけどな)


 あれだけ部屋の中に神社や寺ですら供養できないと音を上げた代物を集めても、俺には何も見えないのだ。誰よりも霊感というものを欲しているというのに、誰よりも見ることが出来ないとはなんとも皮肉な笑い話だ。

 そもそも本来は建物全体が心霊物件と言われているこのアパートに住んでいても何もこの身に起きていないことが、何よりも霊感が皆無であることの証明だった。

手にしたアパートの鍵束の中から、一〇三号室の鍵を探し出し鍵を回す。重い音と共に扉を開ければ、長い間足を踏み入れていないせいで積もってしまった埃が宙を舞った。

 久方ぶりに日差しが差し込む薄暗い玄関にあるはずのないものが置かれているのが目に留まる。きれいに梱包されたその菓子の袋は、見覚えのあるものだった。


スヴニールという店名が印字された白い紙袋の中には、とっくに賞味期限が切れたマドレーヌが手つかずのまま置かれていた。





心理的庇護物件 一〇二号室、若しくは一〇三号室






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

心理的庇護物件 一〇二号室 96助 @gerumi71

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ