第34話

 

 気づけばいつの間にか扉の向こうから響く声は止んでいた。


 いつまでたっても鍵が開かないことに諦めたのか、扉の向こう側には誰の気配も感じられない。薄暗い玄関で深く息を吐き、俺は外の様子を確かめるためにのぞき穴へと目を寄せた。

 だが、狭い視界には誰も映らない。最初から来訪者などいなかった、とでもいうように人の姿など見当たらない。ただ時折天井につけられた薄暗い照明が不規則に点滅するだけで、先ほどまでいたはずの奥村先輩の姿は消えてしまっていた。


 こうなってくると、これは神永先輩と如月、そして奥村先輩が全員で考えた悪戯という可能性もある。大学での噂話を聞き、全員で俺を脅かすために話を合わせていたのではないか。

 きっとそうだ、そうに違いない。今日が俺の誕生日だという情報も如月から仕入れたのだろう。それならば、夜が明けた後に全員集めて文句の一つも浴びせてやらなければ気が済まない。大学の先輩とはいえ、やって良い事と悪い事があるこということを教えなければ。

 先ほどまで冷や汗をかくほど緊張していたことが急に馬鹿らしくなり、俺は安堵のため息とともに肩から力を抜いた。


 だが再びドアを開けて外を確認する気概は残っておらず、俺は震える足で和室まで戻る。部屋の中に立ち込める重苦しい空気から逃げるように、ベランダに続く窓を少しだけ開け俺は大きく息を吸いこんだ。

 数センチだけ開いた扉から、生ぬるい風と共に秋を告げるには早すぎる虫の音が流れ込んでくる。その音と共に、俺の耳に聞き覚えのある声が届いた。


「やっと開けてくれた」


 僅かな隙間。その隙間からわずかに傾いた見覚えのある顔が覗き込んでいた。


「……っ!」


 薄闇の中でもわかるシュシュを付けたアッシュブラウンの髪の毛。真夏だというのに全く日に焼けていない病的なほどに白い肌。扉の隙間からこちらを覗き込む大きな双瞳は闇に濁り、まったく光が宿っていない。

 ベランダに続く窓を開けた時も外に人の姿はなかったはずだ。それなのに彼女は急に現れた。まるでかつてのりんちゃんと同じ、俺が窓を開けるその瞬間を姿を消して待ち構えていた、とでもいうかのように。


「奥村、鈴音……」


 もはや今までのように奥村先輩、とは呼ぶことが出来なかった。

 いつもの奥村先輩であれば「先輩を呼び捨てするなんて何事か」と頬を膨らませて怒るはずだ。怒られてもかまわない、いつもの奥村先輩の反応を返してほしい。

 そう祈る俺の願いもむなしく、目の前の女性は俺の口が紡いだその名前を静かに聞き終えると、ゆっくりと唇を吊り上げ半月状の笑みを浮かべて嬉しそうに微笑んで見せた。


「やあっと、私の名前ちゃんと呼んでくれたね」


 以前ベランダで向けられたときは、思わず赤面して顔を逸らしてしまうほどまぶしかったその笑顔が今は恐ろしくて仕方がない。ぼんやりとした月明かりを背中に受け、逆光になっているはずなのになぜか闇に浮かぶように彼女の表情がわかるのだ。本来ならあり得るはずがない。

 まるで人形のように温度のない表情で作られたその笑いに、俺の背中に消えかけていた悪寒が一瞬でよみがえる。この存在を家の中に入れてはいけない。招き入れてはいけない。


 早く、この窓を閉めなければ。

 俺は急いで窓へと手をかけ、一刻でも早く窓を閉めようと力を込めた。だが、僅かに開いた窓が閉まる気配はない。それどころか、少しずつ窓はゆっくりと開いていくのだ。

 確かに俺はろくな筋肉などついていない、男としてはどちらかといえば貧相な体形の部類に入る。それでも、あと一年で成人する男で、相手は見かけだけでいえば同い年程度の線の細い女性だ。力だけで言えば絶対に俺の方が強い自信はある。それにも関わらず、僅かに空いた窓の隙間すら閉じることが出来ないのだ。


「意味ないよ。開けてくれたのは悟だもん。ああ、それに本当にあの子消えたんだ。ずっと邪魔だったの。あの子がいるせいで私はこの家に入れなかった」

「あの子……りんちゃん?」


 俺がその名前を呟いてしまったのは無意識だった。この家の中でずっと一人で隠れ続けていた少女。今しがた消えてしまった存在といえば、その子しか思い当たるところがなかったからだ。

 だが先ほど消えたのが本当にりんちゃんであるならば、目の前の奥村鈴音という存在は一体何者なのだ。


「……君は、だれ?りんちゃん?」


 その言葉に、窓を開く力が一層強くなった。

 俺の手ではもはや窓を閉めるどころか抑えることすら出来ず、開いた隙間から滑り込むように奥村鈴音が部屋の中へと入りこんでくる。カタンと冷たい音と共にベランダに続く窓が閉まり、薄暗い和室の中に俺と彼女だけが残された。

 俺はと言えば、情けないほど無様な格好で尻もちをつき部屋の中でまるで人形のように立ち尽くす奥村鈴音を見上げることしかできない。何か言葉を続けたくても、うまく震えで舌が動かないのだ。


「違う、違う違う。私は鈴音。すずね。もう言えるようになったでしょう。大人になったんだもの。悟ももう私の名前をちゃんと呼べるでしょう」


 鈴の音だから「りん」。鈴は鳴らすと「りん」ってなるでしょ。これなら、私の事をちゃんと呼べるでしょう。そう言って幼い彼女は俺に特別な名前を呼ばせてくれた。


「悟とずっと一緒に居たいって、大きくなってもずっと一緒に居たいって願ったのは私なのに」


 それなのに、とまるで先ほどまでこの部屋の中にいた「誰か」を忌々し気に睨みつけるように睨みつけ、奥村鈴音は抑揚のない声で言葉を紡ぐ。浮かべたその表情は、まるで相手が憎くて憎くてたまらないとでも言いたげなほどひどく歪んだものだった。


「悟は毎年大きくなるのに、あの子は隠れたままずっと同じ姿で変わろうとしない。だから私は大きくなったの。大人になったの。悟とずっと一緒にいられるように、大人の姿になった。此処から出られないけど、頑張って勉強したの。今はどんなお洋服と髪型が流行ってるのか、女の子達がどんなお化粧をしてるのか、悟が私の事をちゃんと好きになってくれるよに」


 まるで自分に言い聞かせるように呟き、奥村鈴音は俺の顔を覗き込んでくる。


「わたし、かわいいよね。真似をしたあの子の事、かわいいっていってたものね」


 縋るように白い手が俺の腕をつかむ。

 ベランダ越しに言葉を交わしたことはあっても、こうして直接肌を触れ合わせるのは初めての事だ。もしこれが昨日までであれば、相手の体温を感じそれこそ青春らしいときめきを感じることもあったのだろう。だが今は、腕に感じることのない冷たい氷のようなその手が、酷く物悲しくてたまらなかった。


(……ああ、この人は)


 生きている人間ではない、俺と同じ時を生きる生者ではないのだと分かってしまった。

 俺も彼女と同じ願いを、もし許されるならばいっしょに大人になりたいという願いを一度でももってしまった見だからこそ理解してしまった。

 この部屋の中に残っていた残滓が俺と幼い頃遊んだ「りんちゃん」であるならば、今目の前にいるのは「奥村鈴音」という元は同じでも、今は分かれてしまった別の存在なのだ。


 如月は話していた。

 霊という存在は最後に残った思いが強いからこそ、命を落とした時の姿でそこに残ることが多いと。だが、もし命を落とした時に抱えていた思いが全く違う形で二つあった場合はどうなるのだろうか。

 かくれんぼをしたまま見つけられることを待っている幼い頃のりんちゃんと、「大きくなっても一緒に居たい」と願った奥村鈴音。命を落とした時に、屍となった冷たい身体からその二つの感情が零れ落ちてしまったのだろう。

 一つは幼い子供の姿のまま「りんちゃん」としてこの部屋に残り、もう一つの「奥村鈴音」は俺と共に大人になることを望み理想の姿へと成長した。とはいえ、この部屋の中にはすでに「りんちゃん」が存在している。この家で命を落とし、かくれんぼを続ける幼い「りんちゃん」の力が強すぎるがゆえに、奥村鈴音はこの部屋に留まることが出来なかった。

 だからこそ、かつての我が家であった一〇三号室に彼女で彼女は少しずつ成長を続けたのだ。一人で家の中で「いつか大人になっても間宮悟と一緒に居続ける」ことを願い続けた奥村鈴音にとって、一〇三号室の方が留まるのにふさわしい場所だったのだろう。


 とはいえ、彼女もまたりんちゃんと同じくこのアパートに縛り付けられ外に出ることは叶わなかった。母親も家から去り、理想の大人というものが分からなかった彼女は一〇一号室に訪れる神永小百合という成長していれば同じ年頃だった少女の姿を必死に真似たのだろう。

 年頃の成長した女性と、同じ大学に通う男。如月玲という存在は多少変わり者であったが、二人の姿が奥村鈴音にとっては羨ましいものだったに違いない。自分が成長していれば、きっとこんな女性になっていたのではないかと想像しながら、まるで白紙のキャンバスの上に自分の成長した理想の姿を描くように、自分を形作ったに違いない。

 だからこそ、一度神永小百合のことを「可愛い」と褒めた時にあんなにも喜んでみせたのだ。ああ、自分が作り上げた理想の大人の姿である「奥村鈴音」の姿は間違いではなかったのだと。


「ねえ、かくれんぼは悟が勝ったんだよ。私、ちゃんと聞いてたよ。悟も私と同じだったんだよね。ずっと一緒に居たかった、そう言ったものね」


 それが悟のお願いなら、私がちゃんと叶えてあげる。

 相変わらず腰が砕け、立ち上がることすら出来ない俺を彼女はゆっくりと腰を折り覗き込んできた。本来であれば吐く息が顔にかかるほど近い距離だというのに、彼女の口からは全く呼吸というものと感じない。当然だ、彼女はとうの昔にこの世界の住人ではないのだから。


(ああ、そうか)


 俺は初めて理解した。

 あの時、りんちゃんが俺に「逃げて」といった意味が。

 りんちゃんがこの世界から消える。それは奥村鈴音をこの部屋に入れない、半ば結界のような役目をしていたものが消えるということだ。しかも俺はあろうことか、りんちゃんを見つけた時に「俺もずっと一緒にいたかった」と口にしてしまった。俺はかくれんぼの鬼で、あの時確かに願いを言葉にしてしまったのだ。

 かくれんぼの敗者であるりんちゃん、いや奥村鈴音は俺の願いを叶えなければいけない。それはあの日、幼い俺たちが決めたかくれんぼの約束なのだから。


「大丈夫だよ、今度は……ううん、違う。これからはずーーっと一緒に居られるからね」


 約束だよ、とゆっくりと形の良い唇が静かに動く。


 美しく成長した口から漏れるその声は、確かに幼い頃聞いたあの子と、りんちゃんと同じ声をしていた。



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