第33話


 俺は「奥村鈴音」という名前が記された手紙を持ったまま、ただ薄暗い玄関に立ち尽くすことしかできなかった。


 何故、俺は今までりんちゃんの本当の名前を思い出すことが出来なかったのだろう。過去から目を背けていたのは事実だが、それでも新聞記事や過去の事件を扱った雑誌を目にする機会は幾度もあった。そこには確実に彼女の本名も載っていたはずだ。被害者のプライバシーに配慮がないのがこの国の悪しき風習なのだから。

 だが、まるで記憶の中でそこだけ黒く塗りつぶされたように思い出すことが出来なかった。まるで誰かに意図的に「奥村鈴音」という名前だけ決して思い出すことがないよう、記憶を書き換えられてしまっていたかのようだ。


「ねえ、間宮君?ねえってば、聞こえてる?そこにいるんでしょ?」


 扉の向こうから響く声に、俺は我に返る。

 いつまでたっても開くことのない扉に痺れを切らしたのか、目の前で鈍い音を立てて玄関の取っ手が回る音が響く。

 耳に届くカチカチという音に、自分が震えているのだと気が付いた。冷房など全く入っていない、真夏の熱帯夜だというのにひどく寒くて仕方がない。

 先ほどまで楽し気に響いていた扉の向こうの声が、今は酷く暗い粘度のある声に聞こえてしまう。りんちゃんの本当の名前が奥村鈴音だというのなら、今扉の向こうにいるあの人は一体誰だというのだ。


(……いや、神永先輩が友達っていってたじゃないか。偶然、ただ偶然同姓同名の人が住んでいたのかもしれない)


 きっとそうだ、そうに違いない。

 そう思い込もうとした刹那、脳裏にもう一人の声が響く。


「お前は奥村鈴音という人間に、覚えがないのか?」


 薄暗い生気の感じられない目をした男。

 如月玲は確かに俺の話を聞いて、そう問いかけてきた。あの男は、警告じみたあの言葉で俺に一体何を言いたかったのだろう。

 いや、きっと俺の考えすぎだ。あれは、かつてこの家で殺された少女と同姓同名の人間が俺の隣家に住んでいるのに何も思うところがないのか、と意味合いで聞きたかっただけなのだろう。もしくはただ単純に俺を脅かすつもりだったのかもしれない。あんな心霊写真やらオカルトグッズに埋もれて暮らしている社会不適合者の言動など気に留めない方がいい。真に受ける方が馬鹿らしい。


 脳裏に浮かんだ一〇一号室の惨状を頭の中から追い出すように俺は頭を振り掛け……そして思い出してしまった。そういえば、あの部屋の中に如月という男に全く似つかわしくないものが置かれていなかっただろうか。

 埃をかぶった年代物の宗教やら伝承を扱った古本やオカルト雑誌、明らかに曰くありげな札やら人形やら写真の束に紛れて、一つだけパステルカラーの表紙をした少女趣味の本が置かれていなかっただろうか。

 俺のような年頃の男性にとってタイトルを口にするだけでも中々にハードルが高いあの少女漫画を、如月は自分のものではなく腐れ縁が置いていったものだと話していた。あの時は思い出すことが出来なかったが、そのタイトルを俺は以前にも別の人物から確かに聞いたことがあった。

 あの人は、神永先輩は『前に貸した漫画を早く返せ』と伝えるよう、春先に俺に頼んでいなかっただろうか。


(あの時、神永先輩は誰に貸したって言っていた…?)


 大学での出来事に不貞腐れて、街中をさまよう俺を捕まえ、神永先輩は話しかけてきた。事故物件である心霊アパートに暮らしていることなど全く気にも留めず、彼女が話しかけてきた理由はなんだっただろうか。


(そうだ、あの時は隣に住んでる奥村先輩が……)


 大学に全く来ないから、生存確認ついでに学校に来るよう伝えておいてくれと頼まれた。その時についでに過去に貸した漫画がいつまでたっても返ってこないから、ついでに返却するよう伝言を預かったのだ。

 そこまで思い出し、俺はとんでもない勘違いをしていることに気付いてしまった。神永先輩は一度たりとも、一〇三号室に住んでいる「奥村鈴音」という名前を出していないのだ。ただ、事故物件である俺の家の隣人としか言っていなかった。

 俺の家はちょうどアパート一階の中央、一〇二号室だ。その隣室となれば一〇一、一〇三号室の二部屋が存在する。

 だが、俺は神永先輩が話していた「変わり者のかわいい子」という言葉で一〇一号室の如月玲を最初から除外してしまっていた。便所サンダルを履いてオカルトグッズを部屋いっぱいにため込む不審者を、よりにもよって可愛いと表現する人間がこの世に存在するとは思えなかったからだ。


 それに、思い返してみれば他にも思い当たる節がある。

 神永先輩はその隣人の事を、いくら甘いものを食べても太らない体質だと怒っていた。女性が基本的には甘いものに目がなく、その一方でスタイルを維持するために並々ではない努力をしていることも何となくは知っている。だからこそ、好きなだけ甘いものを食べても全く太ることがない事をうらやむ相手も、神永先輩と同性だと思ってしまっていた。

 だが、俺の脳裏に浮かんだのは先ほど一瞬でスヴニールの菓子を3つ平らげた挙句、コンビニで胸やけするような生菓子と甘ったるいカクテルの酒をしこたま買い込んだ男の顔だ。そういえば、あの男は俺にうまいからと言って期間限定のショートケーキ味というゲテモノのカップ焼きそばを渡してきた。

 記憶を掘り返せば、以前アパートのゴミ捨て場で見かけた同じ味のカップ焼きそばとカクテルの空き缶やらを見かけたことがあったが、あれはきっと隣家の……一〇一号室の如月ものものだったのだろう。

 それだけ破壊的な味覚と食事生活をしているというのに、如月という男の体には脂肪は全くついていなかった。おそらく脂肪どころか筋肉も碌についていないのだろう。伸びきった体系にあっていないシャツを着ていてもわかる、猫背で不健康そうな骨と皮だけの体形だった。


 ここまでくればもう疑う余地がない。神永先輩が俺に向かって話していた隣人というのは、一〇一号室の如月玲のことだったのだ。

 だが、もしそうならば彼女は「隣の一〇一号室に住んでいる如月って奴なんだけど」という話し方をするだろう。そう言わず、あえて隣人とだけ告げてきたということは、神永先輩の中では一〇二号室の隣に住んでいる存在が如月玲しかいなかったことになる。

 そうなると、一〇三号室には今は誰も住んでいないということにならないだろうか。

 一〇三号室に住人が存在しない。ならば、今扉を隔てて向こう側にいる奥村鈴音という存在は一体何者なのだろうか。


(そういえば、初めて会ったとき)


 彼女は俺が引っ越しのあいさつ代わりに手渡したスヴニールの菓子を喜んで受け取ってくれた。あの時彼女はこう言っていなかっただろうか。


 『私、ここのお菓子昔から大好きなの』と。


 あの時は知る人ぞ知る菓子の名店「スヴニール」の菓子を知っていることに何の違和感も覚えていなかった。世間的に見れば隠れ家的名店だが、店自体は立池大学の近くにあるため学生ならばその多くが店の存在をしっている。だが、立池大学の近くに一人暮らしをしている生徒の大半は地方からの上京組だ。昔から、その店の味を知っているはずがない。

 そして俺の記憶の中でスヴニールの菓子が昔から、それこそ幼い頃から好きだった少女は後にも先にも一人だけだ。時折母親が持ち帰るスヴニールのケーキを誰よりも楽しみにしていた幼い少女。りんちゃん……いや、奥村鈴音ならあの店の味を昔から知っていてもおかしくはない。


 だが、何故。

 俺は確かに先ほど記憶の中にいる幼いりんちゃんと出会い、そして最後の別れをしたはずだ。終わることのなかったかくれんぼを、手紙を見つけることで彼女が最後までこの家にとどまり続けた理由を断ち切ることが出来た。

 護符を渡してきた……いや正式には売りつけてきた如月も話していたではないか。霊という存在は息を引き取った時の最後の想いが強いからこそ、どこにも行くことが出来ずそこに留まることしかできないのだと。彼女の長い間足かせになっていたかくれんぼは鬼であった俺の勝ちで終わり、りんちゃんはこの家から去った。

 まるで夢の終わりのように消えていく幼い少女の姿を、俺は確かに見届けたではないか。


『にげて』


 気にかかるのはりんちゃんが俺に伝えようとした最後の言葉だ。

 逃げて、というのは一体何から逃げろという意味だったのだろうか。


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