第14話

 しとしとと、薄暗い空から雨が降り続けている。


 五月の大型連休が終わり、梅雨の中頃になると大学の講義を受けるメンバーも顔なじみになり始める。真面目に大学生活を送る一握りの生徒たちは、ほとんど講義を休むことなく出席しているが、バイトやサークルなどに現を抜かす生徒の出席率は徐々に下がり始める。

 特に最初の一限の授業ともなれば、露骨に受講者の数は減少する。初めての授業のガイダンスの時は、教室を隙間なく埋めていた生徒達も今は半分が出席すれば良い方という有様だ。教授も毎年のことで慣れたことなのか、学生が減ったことに対して何も言わず黙々と講義を進めている。


 とはいえ、大学の授業は高校の時のように完全にクラス別で行われるわけではない。同じ学部や専攻であっても、選択する授業が異なれば顔を合わせないこともある。

 だからこそ、中高の時のようにクラス特有の団結や友情といったものも基本的には存在しない。同じ専攻の中で特に気の良い数名同士でグループは形成されているが、それ以上の交友関係は基本的にゼミやサークルの中で完結していたからだ。

 大学特有のその自由さに、俺は大いに救われていた。四月の入学当初に起きたサークル勧誘の事件で、俺は大学中の生徒たちに「あのヤバい事故物件に住んでいる頭のおかしい生徒」という噂になってしまった。

 学生生活のひと時を「殺人者の息子」というレッテルを張られ、除け者扱いされてきた俺だからわかる。クラスという無理矢理作られた纏まりの中で、異端扱いされる人間の処遇など決まり切っている。空気と同じように完全にいないものとして扱われるか、もしくはいじめという名の迫害にあうかのどちらかだ。

 どうやら今回は前者だったらしい。大学では講義を受ける間にひそひそと囁くような噂話が聞こえることはあっても、それ以上の実害を被ることはなかった。

 最初こそ一週間と人がいつかない物件に住んだヤバいやつがいる、という噂が大学中でもちきりになっていたが、その噂も徐々に鎮火されはじめていた。

 理由は単純、一週間どころか俺が件の物件に住み始めてから何事もないまま三か月目に突入したというのが主な理由だろう。何かが起きれば面白いが、何も起きないとなれば徐々に噂は飽きられていくものだ。生徒たちが俺が「かつてあの家で起きた事件の関係者」だと気づく前に、噂が静まってくれたのも俺にとってはありがたいことだった。


 噂の熱が落ち着いたとはいえ、さすがに大学の中で好き好んで俺に進んで話しかけてくるような物好きは存在しない。そう、一人を除いては。


◇◇◇


 食堂のセルフサービスの水に口をつけた俺の背を、誰かが挨拶にしては強すぎる力で叩いていく。思わず口から吹きかけた水を飲み込み背後を振り返れば、ただ一人の例外、神永先輩が仁王立ちでたたずんでいた。


「やっほお、後輩君。ご機嫌いかが?相変わらず独りぼっちだねえ。来月でもう前期も終わりなのに、もしかしてまだ友達出来てない?」

「神永先輩には関係ないじゃないですか……」


 たった一人、神永先輩だけがじろじろと向けられる好奇の視線を気にすることなく、こうして俺に声をかけてくるのだ。何故そんなに声をかけてくるのか聞いたところ、俺を呼び止めたあの日以降以前より彼女の友人である奥村先輩が学校に来る頻度が増えたらしい。

 相変わらず単位取得のぎりぎりの範囲ではあるが、いままでどれだけ自分が連絡をしても無反応だった奥村先輩を動かしたことで、謎の信頼を勝ち取ってしまったようだ。それに加え、菓子を持って引っ越し挨拶に行ったことを奥村先輩から聞いたのか「若いのにずいぶん常識がある子じゃないか」という謎の加点までもらってしまった。


「あの子が誰かから物貰って喜んでるところ、見たことないんだけどね」


 少し前にそう言いながら神永先輩はすねたように頬を膨らませて見せた。

 だが、どうやら俺が引っ越し挨拶で持参した「スヴニール」の菓子は珍しく気に入ってくれたようだ。部屋から進んで出ようとしない奥村先輩が、珍しく早起きをして授業の前に買いに行ったのだという。白い箱に入ったケーキを持参してやってきた時は流石の神永先輩も目を丸くしたらしい。


「いや、美味しくて気に入ったのは分かるよ。でもランチにケーキワンホールって食べ過ぎでしょ?どれだけ甘党なのって話。いや、昔から甘党だっていうのは知ってたんだけど」


 いくら甘党とはいえケーキワンホールとは、流石に限度言うものがあるだろう。

 そういえば、と俺はアパートのゴミ収集場に捨てられていたゴミ袋を思い出した。先に断っておくと、興味があって人のゴミ袋を覗いたわけではない。

 だが半透明のゴミ袋に詰められた「期間限定!ショートケーキ味焼きそば」というまったく食指をそそられないパッケージのカップ焼きそばと、いかにも女性が好みそうな甘いカクテル系の空き缶や、コンビニスイーツの空箱がつまったゴミ袋を見たことがある。きっとあれも奥村先輩が出したごみなのだろうが、言われてみれば納得の食生活だ。


「こちとら食べたら食べた分だけ肉がつくのに、あの子あれだけ甘いものばっかり食べても全然体型変わらないのずるくない?不公平だよ」


 そう言いながら神永先輩は初夏らしい半袖から覗く二の腕をこれみよがしにひっぱって見せた。正直俺から見たら二人とも全く肉がついているとは思わない、むしろどちらも付くべきところに肉はついているが細身の部類に入るだろう。

 だが、世の女性たちは男性陣が想像するより遥かにプロポーション維持に尽力しているらしい。カロリーや糖質を気にする横で、そのあたりのことを何も気にも留めずケーキワンホールやジャンクフードの類を胃に収め、あの体型を維持していると考えれば神永先輩の嘆きもわかるというものだ。


 そんな愚痴を何度か聞いたものの、俺はまだ奥村先輩本人にこのキャンパスの中で遭遇したことはない。神永先輩曰く、講義には顔を出すようになったらしいが出席日数は単位ぎりぎりらしい。そのうえ、文学部と経済学部では同じ文系ではあるが取る講義の内容があまりに違いすぎる。

 同じ学年であれば、必修科目で顔を合わせる機会もあったのかもしれないが、一年と三年では殆どキャンバスで顔を合わせる機会がないのも頷けた。


(となると、わざわざ俺を探して声をかけてくる神永先輩も相当変わり者なんだよな)


 一体何故彼女が俺を気に入ったのかはわからないが、あの奥村先輩が気に入った後輩ということで一目置かれているらしい。


「そろそろ前期テストの時期だけど勉強さぼっちゃだめだぞ。一年の必修落とすとあとで痛い目みるから……って、君は真面目だからテストの心配も大丈夫か。どっかの誰かさんに爪の垢でも飲ませてあげたいよ」


 毎回ノートを貸すこちらの身にもなってほしい、神永先輩は不満を零す。なんだかんだ言いながら、決して友人を見捨てないあたり二人の友情が垣間見えるというものだ。

 じゃあ、お互い頑張って良い夏休みを迎えようね。

そんな言葉を捨てセリフのように言いながら、神永先輩は食堂の出口へ向かって歩いて行ってしまった。

 食堂に数名いる学生たちは遠巻きにこちらを気にしていたようだが、俺と目が合ったことに気付くと慌てて皆一様に顔を背けてしまった。

すっかり日常になってしまったその光景に俺はため息一つ漏らし、飲みかけの生ぬるいグラスへと唇を寄せた。


(……試験ももうすぐか)


窓の外では相変わらずしとしとと雨が降り続いている。梅雨だから仕方がない事なのだが、ここ最近晴れた空を見ていない気がする。


(りんちゃんも、結局一度も現れないしな)


 春が終わり、季節はすでに梅雨。

 つまり俺があの家に住み始めてからすでに三か月目に入っているのだが、相変わらず部屋の中は静まり返ったままだ。ここまでくると神永先輩の言っていた通り、俺に絶望的に霊感がないのか、もしくはあの部屋に霊が出ること自体が嘘だったという二択になる。

 どのみち、すでに彼女があの部屋に留まっていないのであれば、それは俺としても喜ばしいことだ。今はまだわずかな可能性にかけて深夜二時過ぎまで起きる生活を続けているが、このまま彼女が現れないようであれば夏休みからは生活スタイルを変えてもいいかもしれない。

 電気代を節約するために早寝をし、時給の比較的高い早朝のコンビニバイトでも始めれば少し生活に余裕ができるはずだ。中学や高校と違い夏休みの課題がないのが大学生活の良いところだ。

 収入が増えれば、今にも壊れてしまいそうな冷蔵庫と、新しく洗濯機を買う程度の金をためることができるかもしれない。もし洗濯機を買うことができれば、面倒なコインランドリー生活から脱することができる。


(まあ、まずはテストを乗り切らないとな)


 一年から資格関係の授業を増やしすぎたせいで、俺の授業のコマ数は明らかに他の学生よりも多い。授業が多い、それはつまりテストの数も多いということだ。せっかくここまで一度も休まず講義に出続けたのに、テストの点が悪く単位を落とすことになってしまったら流石に笑えない。

 時計を見れば、次の授業の開始までまだ少し時間がある。俺は鞄の中にあるノートに手を伸ばし、ふとぞわりと背中が粟立つのを感じた。


(……見られてる?)


 いつもの好奇の視線ではない。もっとどこか粘度のある、どろりとした視線だ。

 だが食堂の中を見回しても誰もこちらに目を向けている人物はいなかった。

気のせいだろうか、そう思った瞬間ふと視界の端に黒い人影がうつる。その人影は、食堂の窓ガラスの外、雨が降り続ける古い校舎に向かう道にたたずんでいた。


(……あれは、もしかして)


 寄れたシャツとゴムの伸び切ったズボン。さすがに便所サンダルではなかったが、やはり薄汚れたスニーカーを履いた男が、今にも壊れてしまいそうなビニール傘をさしてこちらをじっと見つめていたのだ。

 ビニール越しに光のない黒い目がこちらを感情のない目で見つめている。

 あれは間違いない、隣室の一〇一号室に住んでいる如月玲だ。


(……なんで、あいつがここに)


 思わず俺は椅子から立ち上がり、確かめるように目をこする。


 だが再び窓の外に目を向けると、そこにビニール傘を差した男の姿はなく、ただ雨が降り続く灰色の景色が広がっているだけだった。



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