第15話

 梅雨の長雨が去ると、本格的な日本の夏が到来する。


 雨の音に代わるように、じわじわという煩いほどの蝉の鳴き声でキャンバスの中は埋め尽くされた。

 高校までは夏のその音が聞こえだすと、夏休みが近い合図として校内がどこか浮ついた空気に満たされていたが、大学は少し違う。夏休みとして解放される前に、学期最初の期末テストが待ち構えているのだ。どれだけ授業をとっているかで変わるが、最長2週間程度は長い試験期間を耐え忍ばなければいけない。

 テスト期間が近づけば、生徒たちの雰囲気も変わり始める。春先の新学期特有のサークルや新生活に浮かれる気配は薄れ、学生生活最初の関門である試験に向けて勉強をする姿がいたるところで見られるようになる。

 普段であれば人気がなかった図書館や、食堂もノートや辞書を広げる生徒達で埋まるのだ。


(……こうなるなら、最初から真面目に授業を受けておけよ)


 食堂の一角で、必死にノートを写す集団を見て俺はそっと眉を寄せる。おそらく、遊びや飲み会にうつつを抜かして授業に殆ど出ていなかった生徒たちが、真面目に授業を受けていた生徒のノートを借りて必死に頭に内容を叩きこもうとしているのだろう。


(まいったな、図書館も食堂も満席か……)


 普段であれば多少なりとも空席があるのだが、今日はどちらも満席だった。

 できれば空調のきいている大学で勉強をしたかったが席がないなら仕方がない。どこか喫茶店に入るという手もあるが、勉強のために数百円の腹の足しにならない珈琲を頼むのは懐が痛い。となると、選択肢として残されているのはアパートの自室のみだ。

 毎年熱帯化が進む日本では明らかに時代遅れだが、俺のアパートに冷房はなく、古びた年代物の扇風機が一つあるだけだ。日が高いうちのアパートの中は、40度近くなり正直人が住む環境ではなくなってしまう。幸いすでに日は傾き始めているので、もう少しすれば暑さも和らいでくるだろう。

 それに、大勢の生徒達がいる場所ではどうしても人目が気になってしまう。向けられる視線を気にしながら勉強するよりは、多少の暑さと湿度に目をつぶり、静かな自室で勉強をした方が頭に入るというものだ。

 そう思ったからこそ、一人静に勉強できる環境を求めて例のアパート、一〇二号室の自分の家へと戻ったわけなのだが。


「間宮くーーん、いますか」


 どんどん、と数度にわたり乱暴にドアを叩く音が響き渡る。扉のそばに呼び鈴があるというのに、彼らの目には映っていないらしい。

 明らかに家主の返事を待つ気配もないその様子に、俺はげんなりしながら玄関へと向かった。

 近所でも有名なこの事故物件に訪れる客は滅多にいない。

 せいぜい郵便や宅配便業者が訪れる程度だが、一度某有名通販サイトから購入品を届けてもらう際、配達に来てくれた若いスタッフがあまりにも絶望的な表情を浮かべていたのでそれ以降できるだけ通販は控えるようにしていた。もしくは通販をしたとしても、近所のコンビニ受け取りをするという涙ぐましい努力を続けている。

 それにもかかわらず、大きな声で自分の名を呼び続ける誰かが扉の前にいる。それも声の重なり具合を聞く限り一人ではない。おそらく三、四人いるのは確実だ。


(……最悪だ)


 玄関のドアに付けられた覗き穴から外を見れば、案の定予想していた通りの顔が目に入った。

 男二人、女二人。

 男の顔には見覚えがある。大学に入学したばかりの時、俺が取る予定だった講義にアドバイスをしてくれたあの二人だ。女性たちには面識はないが、どことなく覚えがあるところを見ると同じ経済学部の一年生なのだろう。

 本当は居留守を使いたかったが、完全に日が落ちる時間だったこともあり部屋に電気を灯してしまっていた。おそらく、来訪者達はそれを見て俺の家を訪ねてきたのだろう。今さら電気を消したところで、居留守を使うのは難しい。

 それにこうして沈黙を決め込んでいる今も、扉を叩くドアの音は激しさを増す一方だ。無視を続ければ帰ってくれる可能性もあるが、おそらくそれよりも先に騒音に苛立った一〇一号室の如月玲がキレて俺の家の壁をたたき出す方が先だろう。


(……何されるか、わかったもんじゃないからな)


 一〇一号室の隣人とは、あの日偶然大学で姿を見かけて以来直接会ったことはない。だが、確実にまともな類の人間ではないので、正直あまり関わり合いになりたくないのだ。

 俺は諦め半分で、建付けの悪い扉をゆっくりと開いた。


「隣に響くから。静かにしてくれよ。何の用?」

「お、やっぱり居た!間宮~俺たちを助けてくれよ。友達だろ!」


 そう言いながらワザとらしく泣きまねをして見せたのは、男の二人組の方だった。

 話したことなど数えるほどしかないが、どうやら彼の中ではそれだけで友達認定が入るらしい。なんとも都合の良いことだ。


「このままだとテストまじでヤバいんだよ!」

「お願い、ノート写させてくれるだけでいいから!」

「ほら、ノート代の代わりにご飯とか色々持ってきたから!」


 男性陣の勢いに乗じたのか、面識のない女性たちも手に下げたコンビニ袋を掲げて頭を下げてくる。薄いビニール袋の中にはコンビニ弁当のほかに、つまみや発泡酒の姿も見える。講義にでないだけではなく、悪びれなく堂々と未成年飲酒までするとは大学生の質も落ちたものだと俺は盛大にため息をついた。

 彼らの望みは皆そろえて口にするように一つだけだ。テストに向けて「ノートを貸してほしい」ということだ。正直なところ、彼らが俺に講義ノートを無心してきたのはこれが初めてではない。

 今俺の目の間にいる彼らを、必修を含め経済学部でとらなければいけない講義で見かけたのは春先の最初の方だけだ。最初の1.2回は真面目に授業に出ていたはずだが、五月の大型連休が明ける頃には完全に姿が見えなくなってしまった。たいして気にも留めていなかったが、件のサークルにのめりこみ、やれ飲み会だ、合コンだと遊び歩いた結果授業をサボるようになったのだろう。


 幸い、授業のいくつかはテスト形式ではなくレポート提出で単位をとれるものもあるが、正直授業に出ていなければ書けるレポートではない。そのあたり、授業をさぼる生徒たちに対する教授の「簡単に単位をくれてやるつもりはない」という無言の圧力を感じるところだ。

 授業に出ていないならば、誰かからノートを借りればよい。だが、ここで問題が発生する。高校と違い、同じ学部や専攻でも生徒によってとっている授業が異なる。一人一人誰がどの授業をとっているかを調べ、「ノートを貸してくれ」と頼み込むには相当な時間がかかる。もうテスト期間やレポート提出締め切りまで間がないのだ。そんなことをしていれば、単位を落とすことが確定してしまう。

 だからこそ、俺に白羽の矢が立ったわけだ。

 ただでさえ件の事故物件に住んでいるという噂の中心になってしまった俺は、どの講義にでても人の目についてしまう。俺がどの講義を取っているかという個人情報は、数日のうちに大学中に広まったことだろう。

 名目上はサークル活動で忙しい彼らの耳にも、俺が一年では最多といえる講義を受講していること、そのうえ珍しいことに一限から七限の授業まで一度も休むことなくすべて出席している噂が届いたに違いない。


 だからこそ彼らはこう思ったわけだ。


『一人一人別の人間に依頼するより、友達もいない哀れな俺に頼んでしまった方が早く片が付く』と。



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