第10話「バカ犬……。早く帰ってこいよぉ……」

 更に季節が巡り、山の木々の色が赤く染まるにつれて、申助の心はどんどん重くなっていっていた。葉が染まりきった頃、猿神族の発情期が始まってしまうのだった。


「おい、戌二、お前ら犬神族の発情期はいつなんだ?」


 夜、申助は碁を指していた手を止めて尋ねる。寝室には申助と戌二以外誰もいない。だから申助は思う存分男として振る舞えていた。戌二も碁盤から申助の顔に視線を移す。


「犬神族の雄に発情期はない。雌が発情期に入ったら呼応して発情する」


「ふうん」


 碁盤の端を人差し指で何回か弾く。


「それってさ、猿神族の発情期でも引き起こされるのか?」


 戌二は首を傾げる。申助は続けた。


「俺ら猿神族ってさ、発情期が激しいんだよ……。なんか、誘惑する匂いみたいなのも発してしまうんだ」


「……ああ」


 発情期に発してしまう匂いについては犬神族の彼にも心当たりがあるのだろう。甘ったるい特有の香りが鼻に入っただけで申助は何も考えられなくなり、女に挿入して腰を振ってしまう。


「そんな事例は聞いた事がないけど、これまでに猿神族の発情期に一緒にいたことがないから何とも言えない」


 戌二の返答に申助は肩を落とす。視線の先には戌二の手があり、爪の伸びた指がそわそわと動いていた。


「発情期の間、どこか別の場所に行くか?」


 戌二の提案に申助はパっと顔をあげる。戌二は視線を合わせないまま続けた。


「さすがに猿神族のところには返してやれないと思うけど、犬神族の神社のどこかなら許されると思う」


「いいのか!?」


 すがる思いで尋ねる。戌二はコクリと頷いた。

 現在、犬神族と猿神族は合祀されている状態だが、それは総本山の神社のみで、小さな神社であれば犬神族単体で祀られてる神社はまだそこかしこに残っている。


「聞いてみる」


 戌二の返答に安心し、頬を赤らめてそっぽを向いた。


「……発情期の姿をキヌさんに見られたくないし、そうしてくれると助かる」


 以前の会話が頭から抜けてくれない。申助は今ではすっかりキヌになついていた。そんな彼女に発情期の姿は見せたくなかった。


「……キヌはもう番がいるぞ?」


 戌二の声が低くなる。申助がキヌを好きになっていると誤解をしているのだろう。慌てて申助は訂正した。


「そういう意味じゃねぇ! ……発情期の間って交尾の事しか考えられなくなるんだよ。……恥ずかしいだろ」


 ぴたり。

 戌二の体が強張り動作が止まる。


「……そうなのか?」


「うー、まぁ……」


「……昔からそうだったのか? 猿神族の村にいた頃も」


 戌二はじ、と盤面を凝視していた。申助は言葉に詰まる。悪事がバレた子供の気分になった。


「……女の猿神達が、発情期の間はほぼ毎日子種をせがんできて、それで……」


「は?」


 戌二の声が低くなる。地を這うような様子に、う、と申助は後ずさった。


「お前、前に初めてだって言ってたじゃねぇか」


 声が低い。耳がペタンと伏せられている。きっと、幼馴染みに出し抜かれていた上に嘘をつかれたことが悔しいのだろう。


「だから、女の姿に擬態した状態では初めてだったんだから間違ってねぇだろ!?」


「男だったら経験済みならそれはそうと言……、んぐっ」


 申助は戌二の口を押さえる。先ほどよりも声が大きい。誰かに聞かれたらどうするのだ。


「……仕方ねぇだろ? あん時はキヌさんもいたし、バレるわけにはいかなかったんだから」


 耳元で囁くと、戌二の舌打ちが聞こえた。これ以上不機嫌になられては困る。申助は努めて明るく戌二の肩を叩いた。


「それよりさっき言っていた件、よろしくな」


 申助の笑顔を数秒凝視し、戌二はしぶしぶといった様子で頷いたのだった。


 





 それから三日程経過した。朝から体が熱っぽい。

 季節の変わり目だから風邪を引いているのだろうか、それとも……。嫌な予感がした申助は戌二を探して犬神族の神社とやらに連れて行ってもらおうと思ったのだが、肝心の彼が見当たらない。

 布団はすでに片付けられていた。首を傾げていると、キヌが部屋に入ってきた。


「あら、申代様。お目覚めですか?」


「うん……、あの、戌二は?」


 首筋を伝って汗が流れていくのがわかる。心臓もいつもより鼓動が早い。見せたくない自分の姿に変化しつつあることを自覚した。


「戌二様は日が昇る前からお出かけになっております。夜には帰ってこられますよ」


 キヌの言葉にくらりと目眩がした。

 戌二が帰ってくる前に発情が始まったらどうしよう。申助は布団にくるまった。


「私、そろそろ発情期が始まってしまいますので、その……」


「ああ、やっぱり。匂いからしてそうかと思っていたんですよ」


 キヌにも気が付かれていたのかと申助は恥ずかしくなる。頬が熱い。きっと真っ赤に染まっているだろう。キヌは胸を叩いた。


「大丈夫です! 戌二様が帰ってくるまでこのキヌが部屋に誰も近付けません!」


 頼りがいのある言葉にホっとする。貞操の硬い犬神族に自分の情けない姿は見られたくない。

 彼女は一度退室をするとおにぎりと味噌汁を持ってきてくれた。今日ばかりはこの部屋で籠城をさせてくれるようだ。


 申助はかなり寝坊をしていたようで、もう太陽は天頂を過ぎ、西に傾いていた。

 熱で味がわからない食事を終えると眠気がやってきた。またも布団にくるまり、自分の匂いを少しでも外に出さないようにと努め目を瞑った。

 

 





 寝入ってしまっていたようで、言い争う声に申助は目を覚ました。

 寝室の障子の外では複数の男とキヌが大声で何かを怒鳴りあっていた。特にキヌの怒声がよく聞こえる。申助は目眩のする頭を布団から出すと様子を伺った。


「いいじゃねぇか、一目くらい見たって!」


「こんなに物欲しそうな匂いを発してるんだから、どんなものか拝ませてくれよ」


 下品なダミ声である。

 自分が発している匂いの事を指しているのだとわかり、泣きそうになった。好きで出しているわけではない。


「何を言っているんだ! 申代様は戌二様をお待ちになっておられるところなんだから、お前たち下級妖怪どもはさっさと帰れ!」


 どうやら使用人として使っている妖怪達が申助の発情期を見に来ているのだろう。見世物じゃねぇんだぞ。イラっとして申助は布団から出て立ち上がろうとした。


 しかし。


 ぐら、と体が倒れる。

 手にも足にも力が入らない。股間がじくじくと熱い。魔羅を女の膣に入れたい。なんでもいい、誰でもいい。


 そこまで考えてしまい、慌てて布団の中に戻る。

 一瞬でも本気で願ってしまった自分にゾ、と悪寒が走る。けれど我慢できなくて申助は手を股間に持っていった。妄想で猿神族の女性を思い浮かべる。


『申助……』


 女性の柔らかい体を思い描いていたはずなのに、耳に蘇るのは戌二の低い声だった。見慣れてしまった美しい銀髪に満月を思わせる妖しい瞳。口よりも雄弁に心を語る狼の耳。高い鼻筋、きめ細かい肌、美しくついた筋肉。


 触りたい。


 平素であればすぐに否定する欲求が膨らんでいく。彼の体に口付けて、陶器のような肌に舌を滑らせたい。中に入れたい。抱きたい。


 妄想の中の戌二は申助の下で喘いでいた。彼の中に入れて腰を揺り動かしたい。アイツはどんな声で喘ぐのだろう。

 手を動かしていたらどんどん先端から蜜が溢れてくる。指で塗り拡げ、亀頭がヌルヌルすると性感も高まってきた。耐えられない。


「バカ犬……。早く帰ってこいよぉ……」


 涙声で呟く。いやらしい妄想が次から次へと湧いて出て止められなかった。



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